第2話 純愛と醜聞(ボヘミアの醜聞異聞)3
残された私は、ベーカー街をうろついている子供に、チップをやり、「ホームズ君のところで急用ができたから、2・3日はベーカー街221Bに泊まる」と書いた妻メアリーへの手紙を託けた。幸い、明日診療に来る常連もいないので、多分休診しても大丈夫だろう。
雑然とした部屋でホームズの帰りを待ちながら、私はルドルフ皇太子のことを考えていた。
我が国のバーディ(皇太子エドワード)も、お母さんのヴィクトリア陛下に頭を押さえつけられているし、タブロイド誌のネタにされているが、ルドルフ殿下のはそれとは比較にならないほどの重圧だ。ハノーバー朝とハプスブルグ家では格が違い過ぎる。まして、自由主義、そして、議会制民主主義の発達した英国とは異なり、旧態依然とした老大国に、あれだけ開明的な考えは到底受け入れられないだろう。放蕩者とか不肖の皇太子とか、面白おかしくゴシップネタにされている方だが、本当はご自分の力を発揮できない焦りがそうさせているのかもしれない。
ソファに横になって、ひと眠りするともう朝になっていた。ハドスン夫人に招かれて、朝食を一緒にすることになった。久しぶりに、ハドスン夫人の手料理を食べる。懐かしい味だ。独身時代のあれやこれやが思いだされる。
「また、ホームズさんはどっかへ行っちゃったんですか?」
「うん、依頼人だよ。」
「すっ飛びだした後、戻ってくるのは、夜遅く、パンと水だけってこともしょっちゅう、そのうち、病気になりますよ。」
「相変わらずなんだなあ。」
「余計ひどくなりましたよ。ワトスン先生が出てっちゃってから、」
ホームズが戻ってきたのは夕刻になってからだった。ジンの匂いがプンプンする。
「酔っ払ってるのかい?昼間っから?」
「違うわよ。浴びただけ。」
汚い煙突掃除人の変装を解きながら、ホームズは上機嫌だった。
ホームズの話だと、プライオニー邸で暮らしているアイリーネ・アドラーは身持ちの堅い婦人で、生活は質素なものだった。ただ、素晴らしい美人なので、近隣の男たちを崇拝者にしているらしい。ルドルフ皇太子の言った期限まではあと3日しかない。ホームズは明日中に片を付けるという。
「ワトスン君は、大事な役目よ。これを使ってね。」ホームズは棒状のものを手渡した。
「ダイナマイトかい?これ?」
「物騒なこと言わないでよ。人殺しになっちゃうじゃないの。ただの発煙筒よ。」
路上でアイリーネ・アドラーを襲わせて、変装したホームズが助けてけがをし、アイリーネの家に運んでもらう。そして、発煙筒を投げ込むのが私の役目だそうだ。
「本当にうまくいくのかねえ。」
「うふふ、いくわよ。間違いなく。ふふふ。」
次の日、予定通り、アイリーネ・アドラーが馬車から降りたところで、芝居が始まった。こんな臭い芝居でうまくいくのだろうか?と私は危ぶんだが、牧師に変装したホームズが担ぎ込まれた後、発煙筒を投げ込んで、煙が出た後、ベーカー街221Bに戻って、戸口で彼の帰りを待った。
1時間半ぐらいたったころだろうか、牧師姿のホームズが戻ってきた。空手である。
「失敗したのか?」
「いいえ、大成功。うふふ。」素早く変装を解いてホームズは言った。
「何も持ってないじゃないか。」
「場所はもうわかったわ。明日、殿下と一緒に3人で行きましょう。」
不意に、後ろから声がかけられた。
「シャーロック・ホームズさん、今晩は。」
見ると、細身の青年の後ろ姿が、夕闇に消えかかっている。
「誰かしら?どこかで聞いた声なんだけど?」
「君は有名人だからね」
次の日、ルドルフ殿下とともに、ベーカー街221Bから、4輪馬車に乗り込んで出発した。勿論ルドルフ殿下の4輪馬車ではなく、街の馬車である。
「すみませんね。こんなむさくるしい馬車に乗せて、フォン・クラム伯」私は殿下にそう詫びた。
「いえ、お構いなく。」殿下は緊張の余りか、顔色が悪い。
「むさくるしくて悪かったっすね。んなら、乗らなきゃいいっしょ。」馭者のジョーンズは機嫌が悪い。
「気にしないでいいのよ。貴族の坊ちゃんの気まぐれなんだから。プライオニー邸まで、チップははい、先払い。」
「へえ、まいど。」ジョーンズは軽快に馬車を走らせ出した。
馬車のなかで、ホームズはルドルフ殿下に説明している。
アイリーネ・アドラーは大事な書類を、自分の寝室の化粧棚の3番目の引き出しに隠しているらしい。おそらく、2重底か何かになっていて、見た目にはわからない工夫になっている。火事騒ぎの時に、アイリーネが、引き出しをごそごぞやっているのを自分は見たから、間違いない、とホームズは得意満面だ。
「じゃあ、その時に持って来ればよかったじゃないか。」
「しょうがないでしょ。取りたかったんだけど、召使が入ってきちゃったし」ホームズは弁解した。
「それに、殿下もフラウ・アイリーネ・アドラーには、御自分の気持ちをしっかり伝えたほうがいいんじゃなくて?」そういうこともあるのかと、私は感心した。
殿下は青ざめた顔で頷いた。
ほどなく、プライオニー邸についたが、何となく様子がおかしい。
玄関の前で、老婆が一人立っている。私たち3人は、急いで馬車から降りた。近づくと、老婆の方から声をかけてきた。
「誰が、シャーロック・ホームズさんかえ?」
「アタシだけど?」ホームズも明らかに狼狽している。
「奥様から伝言。『ホームズさんが来たら、私は昨夜の最終船で、アメリカに行きます。もう二度と、旧大陸には戻りません』そう伝えてくれって、じゃあ、あたしゃ、伝えましたよ。」
「アイリーネ・アドラーさんは、いないのかい?」茫然としているホームズに代わって、私は尋ねた。
「ええ、昨日急なご出立で。あたしゃ、くびになってしまいました。奥様は退職金をはずんでくれたけど、もう、バタバタと」
ホームズが家のなかに飛び込んだ。
「お、おい、ホームズ君。」
「あんたたち、奥様の何なのさ。借金取りかえ?」
「余、余は破滅だ。」ルドルフ殿下はへたり込んだ。
「で、殿下。いえ、フォン・クラム伯、お気を確かに。」ぐったりしたルドルフ殿下の口にブランデーを流し込む。
「大丈夫ですか?フォン・クラム伯。」
「ああ、なんとか。」声も弱弱しい。
「私の肩にお掴まりを」
恐れ多くも殿下に肩を貸し、ホームズの駆け上がった階段を私は登った。でも、何も残ってはいない。鳥は飛び経ってしまったのだ。ホームズが失敗するとは。大陸で戦争が勃発することを考えると、私の方が気が遠くなりそうだった。