第2話 純愛と醜聞(ボヘミアの醜聞異聞)2
「ええ、その通りです。私はアイリーネ・アドラーという歌手とのスキャンダルに見舞われているのです。」ぐっとくだけた口調で、ハプスブルグ家の皇太子殿下は話し始めた。仮面の下の素顔は、ブロマイドなどで見かけたものと同じく端正ではあったが、眼の下にうっすらとクマができていた。遊び人と評判の皇太子殿下、少しお疲れなのかもしれない。
「アイリーネ・アドラーね、ちょっと待って」ホームズは覚書を取り出した。「アイリーネ・アドラー、オペラ歌手、コントラアルト、演目はローエングリン、さしずめ、バイエルン王国が、なれそめかしら。」
「ええ、そうです。」
ルドルフ皇太子の話を要約すると、皇太子とアイリーネ・アドラーは愛し合ったが、すでに、彼にはベルギー王室の王女との婚約が決まっていた。厳格な父、フランツ・ヨーゼフ1世が、平民と世継ぎの結婚を許すはずもない。予定通り、ルドルフ皇太子は政略結婚をし、アイリーネとは秘密の関係となったが、ここに至り、アイリーネがルドルフに2拓を迫ったのだ。すなわち、結婚か破滅か。
「アイリーネは、あの手紙と写真を新聞に公開し、父にも送るといっています。父に送られれば私は破滅です。」
「ツーショットの写真は、まずいけど、遊び人の皇太子で有名な殿下のこと、お父上の皇帝陛下もまたかとしか思わないんじゃないのかしら?」ホームズはずけずけといった。
「今までが今までなので、父も堪忍袋の緒が切れそうになっているのです。ご存知の通り、父は母のエリザベート一筋、で、不在がちの母公認の愛人カタリーナ・シュラット夫人との関係も清いままなので」
「自業自得としか言いようがないわねえ。なんでお金で解決しなかったのよ。」
「いくらでも出すといいました。でも、アイリーネは、あくまでも結婚と言い張りました。カトリックでは離婚は認められません。」
「女心を踏みにじった報いね。偽造だとかなんとか適当なことを言うしかないわねえ。そっくりさんとか。」
「冗談が過ぎるぞ、ホームズ君。」思わず私は口をはさんだ。
「写真はともかく、手紙が問題なのです。」
「それこそ、偽造で済ませられるわ。」
「紋章があります。」
「それこそ、簡単に盗めるわ。」
「内容が問題なのです。」
「なんて書いたのよ。」
「オーストリアは、ドイツとの同盟を破棄し、フランス、ロシアと同盟を結ぶべきだと」
「マジで!!何てこと!!ラヴレターに何書いてるのよ!!」ホームズが甲高い声で叫んだ。
私もゾッとした。情事がらみのスキャンダルどころか、大陸でまた戦争が起きかねない。
「私も気が狂っていたとしか思えません。当時、大学を出たばかり、才気あふれる彼女が私にはとてもまぶしかった。宮廷の女たちと違い、私の話を真剣に聞いてくれる彼女にいつしか私は、自分の思想を話すようになっていったのです。父にあの手紙を送られれば、私は反逆罪。公表されれば・・・」ルドルフ皇太子は頭を抱えた。
「実力行使には訴えなかったの?」
「人をやって家探しさせましたが、全く見つかりません。」
「へぼい泥棒を雇ったからよ。」
「おいおい、ホームズ君。」天下の大帝国オーストリアの皇太子が泥棒を雇うとは、
「それで、ある有名な泥棒に頼んだのですが」
「え?誰?誰に頼んだの?」興味津々といった感じでホームズが尋ねた。
「ムッシュ・アルセーヌ・ルパンに、ですが」
「ムッシュ・ルパンでもダメだったの?!」
アルセーヌ・ルパンといえば、新進気鋭のフランスの盗賊である。
「ムッシュ・ルパンには、断られました・・・」
「どんな理由で?」
「殿下が国も宗教も捨てて、一人の男として愛する女と新天地で暮らせばよい、と」
「確かに、ムッシュ・ルパンの言う通りだわ。なんでそうしないの?」ホームズはあっさりと言った。
「私にも夢があります。オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝となり、父とは違ったやり方で、ハプスブルグ帝国を立て直したいのです。
プロイセン中心のドイツやここ大英帝国とは異なり、中部欧州は雑多な民族が混在しています。父のやり方は、18世紀であれば通用したでしょう。しかし、今は19世紀。あと20年もしないうちに20世紀になります。民族の独立運動はますます激しくなるでしょう。力で押さえつけるのには限界があります。このままでは、遠からず、ハプスブルグ帝国は瓦解し、欧州は大変な悲劇に見舞われます。私は、民族が緩く連合した国家としてオーストリア・ハンガリー帝国を再編したい。
幸い、ハプスブルグ帝国内には、鉱山も多く、大英帝国やフランス共和国とも植民地で競合することはありますまい。ハプスブルグ家は大英帝国、フランス、そして、大英帝国の兄弟国ともいえるアメリカ合衆国と同盟を結ぶべきです。
父には、理解できない考えでしょう。だから、私は何としても帝位につきたい。そのためには、どれほど愛していてもアイリーネとは結婚できない運命です。ホームズさん、お願いします。アイリーネから、手紙と写真を取り戻してください。お金はいくらかかっても構いません。」そういうと、ルドルフ皇太子は、カバンをテーブルの上に置いた。中には金貨とポンド紙幣がぎっしり詰まっている。
「分かりましたわ。何とかやってみますわ。」
皇太子は4輪馬車に乗ると、帰って行った。
「なんだか大変なことになったなあ。ホームズ君。」
「動機は陳腐、解決法も陳腐、でも、失敗すれば」ホームズはダイナマイトが爆発するジェスチャーをして見せた。
「一応、これから、アイリーネ・アドラーの家へ行ってみるわ。」
そう言うと、ホームズは飛び出していった。