第2話 純愛と醜聞(ボヘミアの醜聞異聞)1
私がメアリー・モースタン嬢と結婚して、早や半年がたった。新生活を新しい家、兼医院で始め、あっという間に月日がたち、ようやく一息ついたころ、私はシャーロック・ホームズともずっとあっていないことに気がついた。
「結婚は人生の墓場よ。アタシ、おめでとうは言わないわ。」
といっていたホームズだったけど、どうしているだろう。
今日の診察も終わり、私は、散歩に出かけるといって、新居を後にした。
目指すは、ベーカー街221Bだ。懐かしい通りを歩き、私がルームシェアをしていたアパートにたどり着く、
「あら、ワトスン先生。お久しぶり。ホームズさん寂しがってましたよ。ちっとも訪ねてこないって」大家のハドスン夫人がちょっと咎めるように私に話しかけた。
また、コカインに手を出したんじゃないだろうな、私は急に心配になった。ドアを叩くと返事が聞こえ、ホームズが顔を出した。
「ああら、ワトスン君。おひさ~」
妙にテンションが高い。
「き、き、き、君またコカインに」
「ワトスン君。あなた太ったんじゃないの?7ポンド半も、幸せ太り?デブな男はアタシ嫌いよ。」
「きっかり7ポンド!」妻にも注意されているところをずばりとつかれて、思わず言い返した。「それより・・」
「そんなに心配なら、1週間に1回ぐらい来るのがすじなんじゃないの?アタシたち、お友達でしょ?」ホームズは私をからかった。「大丈夫よ。コカインじゃないわ。さっきね、面白い手紙が来たのよ。さ、早く中に入って」
中に入ると一緒に暮らしていた時よりも乱雑になっている。
「少しは掃除をしようよ。」
「ああら、したわよ。きっかり10週間前に。」
「それは、した、とは言わないよ。だいたい、中途半端がいけないんだ。いっそ、断捨離を」
床に散乱した書類に手を伸ばそうとすると、ホームズが止めた。
「触らないでよ。いいの?伝記が書けなくなっても。それより、こ・れ。」
封筒を渡された。あけると手紙が入っている。
「ええっと。今夕8時過ぎに、貴下を訪問いたす者可有之。右は極めて重大なる問題に関し、特に貴下に諮りたき紳士にて候。同時刻には必ずご在宅相成りたく、かつ訪問者が覆面をいたしおることあるも、御容赦然るべく候。 変な文章だなあ。まるで古語だ。」
「もうすぐ8時になるわ。それまで、推理よ。ワトスン君。」
私は、便箋と封筒をひっくり返しながら、推理した。
「この便箋も封筒もずいぶん高級な紙だね。でも、見たこともない紙だ。外国製じゃないのかなあ。」
「良い線いってるわよ。ワトスン君、やっぱり、アタシっていう先生がいるからね。」
また、ホームズのうぬぼれが始まったと、私は苦笑した。
「こんな紙を使ってるんだから、きっと金持ちなんだろうし、達筆だから、身分も高いのかなあ、でも、なんでこんな妙な文章なんだろう?」
「これは、ドイツ語圏の人間が書いたものね。ほら、動詞が文末に言ってるでしょう?これは、ドイツ文法の特性なの。それに、Gt.って透かしが入ってるでしょう。ドイツ語で会社って意味なのよ。」
「ドイツの貴族が書いたドイツ語っぽい英文?でも、どうも変だよ。そんな身分の高い人間なら執事に書かせるはずだから、ちゃんとした英語になるはずだ」
「他人に知られたくない。そんな秘密の匂いがするわ。ワトスン君。これはきっと面白い事件よ。ワクワクするわ。」
「君のテンションが高かった理由がわかったよ。」私はあらためてほっとした。
「噂をすれば、馬車の音がするわ。それも2頭立て、辻馬車じゃないわ。きっと依頼人よ。」
ガス灯の光に、立派な4輪馬車の影が映し出されている。馬車のドアがあけられた。おそらく依頼人だろう。軽やかに階段を登る音がする。ドアがノックされ、静かに開けられた。
ランプの光に浮かび上がった依頼人の姿を私は見た。すらりとした体格、年の頃は30ぐらいか、顔は仮面舞踏会のマスクに隠され、整った鼻すじと、茶色の口髭、そして受け口なのかやや突き出した分厚い下唇が印象的な青年だった。身に着けているものは、瀟洒で高級なものであるが、明らかに大陸の流行を取り入れている。
「シャーロック・ホームズ殿、余はフォン・クラム伯爵。ボヘミア王国の貴族です。王国の存亡の危機に、貴殿のご助力を賜りに来た。」かすかにドイツ訛りがあるが、綺麗なクィーンズ・イングリッシュである。
「お一人だと聞いていたがこちらは?」フォン・クラム伯は私を見た。
「こちらはアタシの伝記作家、兼助手ワトスン君です。」
「伝記作家の名前は確か、アーサー・.コナン・ドイルだったはずだが。」
「それは私のペンネームです。」私は慌てて説明した。
「ちょっと、おしゃれな名前でしょう。こっちの方が、売れるのよ。」
ホームズの奇妙な言葉遣いと振る舞いを、不審そうに見つめるフォン・クラム伯。私は冷や汗が流れてきた。
「ちょっと、ワトスン君。またあの煩い街スズメたちが来ているわ。追っ払ってちょうだい。依頼人は、ボヘミア王国の貴族、フォン・クラム伯だっていって。」
「いいのかい?依頼人の名前なんかだして。」
「いいのよ。早くして、うるさいったらありゃしないわ。」
ホームズが探偵として名声を博してから、ここベーカー街の住人は依頼人の地位や出身で賭けをするようになっていた。今日も私は、近所の小母さんたちに取り囲まれた。
「ねえ、ワトスンせんせ。今度の依頼人は王様かい?それとも公爵様?あたしゃ3ペンスも賭けたんだよ。」
「あんな立派な4輪馬車じゃあ、大臣じゃないの?教えてよ?」
「うんにゃ、きっと貧乏貴族が見え張ったのさあ」
「あああ、うるさい、うるさい。お前さんたち、御亭主や子供の面倒はどうしたんだ。今度の依頼人は、ボヘミア王国の貴族、伯爵さまだよ。さあ、掛けも終わり。さっさと帰れ。さっさと。」
やっとの思いで、街スズメたちを追い払って、部屋に戻ると、フォン・クラム伯は頭を抱えている。
「どうも申し訳ありません。フォン・クラム伯」私が謝りかけるのを制してホームズは言った。
「構やしないわ。どうせ偽名だし。第一、あんな立派な4輪馬車でくるんだもの。見世物になるの当たり前よ。お国じゃ、平気だったのかもしれないけど、ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン皇太子殿下。」
ホームズの言葉に私はとび上がった。フォン・クラム伯の唇から血の気が引いているところからもホームズの推理が正しいことを物語っている。
「オ、オ、オ、オーストリア・ハンガリー帝国、ハ、ハ、ハ、ハプスブルグ家の。こ、こ、こ」
「何焦ってるのよ。コカインなんてどこにもないわよ。」
「ご、ご無礼仕りました。皇太子殿下。」
「何ビビってるのよ、ワトスン君。みんなサルから進化したんでしょう。ダーウィンを読んでないの?」ホームズは平然と言った。
「いかにも、余は皇太子ルドルフだ。よくぞ見破られた。もう、仮面はいらぬ。」ルドルフ皇太子は静かに仮面を取った。
「あなたの、口元を見ればすぐわかりますわ。『ハプスブルグの唇』、代々の皇帝陛下はみなその唇をしていらっしゃいますもの。ヨーロッパの背骨と言われるハプスブルグ家のお世継ぎが、こんな下町にお忍びでいらっしゃる。当然、女性に絡んだスキャンダルと推理しましたが、いかがかしら。」