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ワトスン博士の回想録   作者: 涼華
2/13

第1話 スぺクルド・バンドの真実 (前)

1883年、4月初めのことであった。

まだ薄暗い中、何かの気配を感じ眼をあけると、ホームズの顔が間近に迫っている。私は仰天した。

「わ、わ、わ」

「うふふ、おはよ。ワトスン君。」

「ホ、ホ、ホ、ホームズ、き、き、き、君は」

「何勘違いしてるの。いやあねえ。アタシは、ジェントル・ゲイなのよ。ストレートの男が、女に無理矢理いたすような、品の無いこと、アタシ、しないって言ったでしょう。」

「あ、ああびっくりした。」

ジョン・ワトスンのルームメイトである、かの名探偵シャーロック・ホームズが、ゲイであることは、おかみのハドスン夫人と私だけの秘密である。風紀厳しい大英帝国においては、ゲイであることだけで即投獄になるのだ。稀代の名探偵が牢獄入りなどすれば、社会の損失も甚だしい。

「なにぼんやりしてるのよ」

見れば、ホームズはすっかり正装をしている。

「いったい何が起きたんだい?こんな朝早くから。」

「依頼人よ。それも若い女みたい。アタシ、女は嫌いだけど。何かさし迫ったことみたいだから、面白そうじゃない。早く着替えてよ。ワトスン君。ね。」


軍隊仕込みの素早さで、1分以内に身を整え、1階に降りていった。

ホームズはもう女性と話している。といっても、喪服姿に、黒いベールをかぶっているため、顔立ちは全く分からない。寒さのためか、小刻みに体を震わせている。

「随分震えてらっしゃいますのね。熱いコーヒーをどうぞお飲みになって。」ホームズが愛想よく話しかけた。

「いえ、寒いのではなく、恐ろしいから震えているのですわ。」か細い声が耳に入ってきた。

「お嬢さん、この人は、ルームメイトで伝記作家のワトスン君です。ご一緒にお話を聞きますが、お気になさらないでね。」

「私はヘレン・ストーナーです。ファリントッシュ夫人の紹介でこちらに伺いました。」ベールをあげながら、依頼人が言った。30前後だろうが、髪の毛が半ば白くなっているのは、心労のためだろうか、怯え切った眼が事態の深刻さを表していた。

「ファリントッシュ夫人?」私が聞くと

「まだアタシが一人でこの部屋を借りてた頃の事件なの。」

「どうかホームズさま、お助け下さい。」唇まで真っ青なストーナー嬢は、絞り出すように言った。


「じゃあ、初めから、全部詳しく、お話ししてくださいな。」

それは、奇怪な事件だった。

ストーナー嬢の母親はインドでロイロット博士という零落した旧家の末裔と再婚したが、本国に戻ったのちに、事故死し、2年前、大嵐の晩に双子の姉のジュリアが不審な死に方をしたという。

「スぺクルド・バンド」

それが死に際の言葉だったという。


「ワトスン君は医者の立場から、ジュリアさんの死をどう考えるのかしら?」ホームズに水を向けられて、私は仕方なく答えた。

「ひどい痙攣の発作から、毒殺の可能性は考えられるがねえ。」

「何人ものお医者様が調べたのですが、何もわからなかったのですわ。」

「スぺクルド・バンド。まだらのバンドね。う~~ん、ミステリアス。」ホームズが独り言を言った。

「ホームズさま、やっぱり庭にいるジプシーの集団バンドと関係があるんでしょうか?」

「先入観は厳禁よ。ストーナーのお嬢さん、アタシたちに、現場を見せてちょうだい。御継父上がお留守の時に、できれば今日がいいんだけど。遅くなればなるほどあぶないわ。それに」

ホームズはストーナー嬢の袖口をさっとめくった。白い手首に5つ紫色の斑点が浮かんでいる。

「ひどいわ。ロイロット博士の仕業ね。」ホームズが静かに言った。

「はい。」ストーナー嬢は、涙をぽろぽろとこぼした。

見えないところにはもっとひどい痣があるのではないだろうか、私は彼女に同情した。はやく、婚約者との新生活に踏み出して貰いたいものだ。しかし、アーミテージ家の次男坊も、随分のんきな男と見える。私はひそかに憤慨していた。

「ロイロットは、今日は遅くまで帰りませんわ。ロンドンに用事があると申しておりましたから。」

「じゃあ、ちょっと用を済ませてから、お昼までにお屋敷に伺うわ。ワトソン君、お嬢さんを門まで送ってあげて。」

私は、ストーナー嬢をエスコートした。

「あのぉ、Dr.ワトスン」ストーナー嬢が小声で話しかけた。「ホームズさまって、ファリントッシュ夫人も言ってたんですが、あのう、やっぱり少し」

「彼は天才です。天才は全て、風変わりな者じゃありませんか?」私は慌てて言った。

「そうですわね。」ストーナー嬢は2輪馬車に乗って帰って行った。


「ホームズ君!」

「どうしたのよ。そんな苦虫を噛み潰したような顔して?」

「ゲイだとばれたら、どうするつもりなんだ?」

「どうもしないわよ。いいじゃないの。カミングアウトすべきだわ。ワトソン君。アタシのヤク中まで、伝記で暴露アウティングしているくせに、ゲイのどこが悪いのよ?」

「悪くはないよ。ヤク中よりずっといい。でも、」

「なによ?」

「逮捕される。君は仕事ができなくなるぞ。」

「それは困るわ。」

「頼むから、もっと男っぽい言葉遣いをしてくれよ。依頼人の前だけでは」


私の言葉を聞いているのか、ホームズはソファに体を沈めて、独りごとを言い始めた。推理が始まっているのだ。

「スぺクルド・バンド。口笛。金属音。姉が死に、妹にも死が迫っている。まだらのバンド、紐か集団か・・・スぺクルド・・・」

しかし、その思索も中断することになった。急にドアが荒々しく開けられると、大男が飛び込んできた。

「どっちがホームズだ!!」

フロックコートを着た野蛮人という雰囲気で、礼儀も何もあったものではない。

「アタクシよ。」と、にっこりと笑いながらホームズが答えたものだから、野蛮人の怒りが沸騰した。

「娘がきたろう!何を話した!」どうやら、この野蛮人がロイロット博士のようだ。

「すうすうして寒いわねえ。ドアをお閉めになってくださいな。」

「き、き、き、貴様、ゲイなんだろう!」

「クロッカスがもう咲きますわ。」

「け、けがらわしい。わしの屋敷になんぞ来てみろ。八つ裂きにしてやるぞ。こんな風に、ええい!」

火搔き棒をL字に曲げると、ドアも閉めずに、足音荒く帰っていく。失礼な男だ。


「なんて失礼な男だろう。まるで野蛮人、いや、ネアンデルタール人に服を着せたようなものだ。」あまりの無礼さに私も思わず紳士にあるまじき罵りの言葉が出てしまった。

「いやあねえ。だからマッチョって嫌いよ。」そういうと、ホームズは苦も無く、曲げられた火搔き棒を元に戻した。「力技を見せなきゃならないなんて、おお、野蛮。ストーナーのお嬢さんが、あの野人にいじめられないといいんだけど。」

細身の体によくこれほどの力があると、私は感心した。

「何、見ているの?早く仕度して、駅で落ち合いましょう。アタシ、ちょっと登記所に寄ってから行くから」

「登記所?なぜ?」

「あの様子から、あの野人がジュリアさんの死にかかわってることは間違いないわ。問題は動機よ。亡くなったストーナー夫人の遺言がどうなってくるか確かめるの」

そう言うと、ホームズは飛び出していった。私はハドスン夫人の作った朝食を食べ、夫人にホームズのためのお弁当を作ってもらった。

「行ってきます。ハドスン夫人。」

「ホームズさんに、きちんと食事するように言って下さいよ。」

ハドスン夫人は、またかと言いたげに、眉をひそめた。


辻馬車に乗ると、ほどなく駅に着いた。待合室で1時間ほど待った頃か、ホームズがやってきた。

「思った通りだったわ。説明は汽車の中で」

汽車はもうホームに入ってきている。私達は乗り込んだ。重々しい振動音が伝わり、車輪がゆっくりと回りだす。

「文明の利器か、便利になったもんだねえ」思わず私が言うと

「文明がどんなに進んでも、人の欲って変わらないものよ。」

「遺言書はどうなってたんだい?ホームズ君。」

「ストーナーのお嬢さんが放していた通り、娘さん2人が結婚すると、あの野人の取り分は1/3になってしまうのよ。あの野人にとっては、2人が結婚しないでずっと屋敷に居てくれないと困ったわけ、だから結婚する前に」

ハドスン夫人お手製の弁当を食べながら、ホームズが説明した。

「始末した」私は声を潜めた。

「そう、多分、ワトスン君の考えたように毒殺ね。」

「ジプシーが毒でも使ったのかなあ、でもなんでまだら(スぺクルド)なんだろう。」

「それを確かめるため、アタシたち、来てるんじゃない。」

それきり、ホームズは黙ってしまった。

私は彼の思索の邪魔をしないように、車窓からの景色を見つめた。

早春でまだ肌寒いが、一面の草原だ。うっすらと緑がかってきている。春の息吹が感じられ、馬を走らせれば、さぞ気持ちが良いだろうと思う。このような怪奇な事件の探索でなければ、素晴らしい休暇になれるだろうにと、私は思った。


レザーヘッド駅に着くとすぐ、停車場に控えている2輪馬車を捕まえることができた。

ホームズは終始無言で、瞑想にふけっている。私は代わりに行先を馭者に告げた。

「ストーク・モーランですね。へえ。」

馬車は軽快に走り出した。道は悪いが、とても良い天気だ。景色に見とれていると、ホームズが急に声をかけた。

「あそこに、ストーナーのお嬢さんが来ているわ。」

道端に女性がそわそわしながら、立っているのが見える。

「ああ、ホームズさま、お待ち申し上げておりましたわ。継父はまだ戻ってきてません。」

「ロイロット博士とは、下宿でお会いしましたのよ。」

ホームズの言葉に、ストーナー嬢は可哀想に真っ青になっている。

「大丈夫ですよ。ストーナーさん。」私は慰めた。

「ストーナーのお嬢さん、申し訳ないけど、急いで屋敷を見せてちょうだい。あの野人、いえ、ロイロット博士にお嬢さんの依頼がばれてしまった以上、ことは一刻を争うわ。」

ストーナー嬢は気丈にも頷き、私たちを屋敷に案内した。


寝室には、頑丈な鎧戸がつけられ、内鍵をかけると、完全な密室になった。これではジプシーたちが入ることは不可能だ。ホームズはベットの周囲を丹念に調べ、呼び鈴の紐に目を付けた。紐を引っ張ったが、何の音もしない。

「鳴らないわ。」紐の付け根を除いている。「鳴らないはずよ。通気口の先で止められてるんだから、呼び鈴というよりバンドね。通気口が何で、外じゃなく、ロイロットの寝室とつながってるの?ベットもおかしいわ。なんで床に固定されてるのかしら?」

ひとしきり調べた後、今度は隣のロイロット博士の部屋を見た。

「触っちゃだめよ。」ホームズが注意した。

「大丈夫ですわ。掃除はいつも私がしておりますから。」ストーナー嬢が答えた。

「そう、よかったわ。おや?ネコを飼ってるの?」

「いいえ、豹だけです。」

「ミルクの入ったお皿があるわ。豹には小さすぎるし」

「狒々のでしょうか?」

「狒々だったら、コップを使わないかな?」私がつぶやき、ホームズの顔が曇った。

「これは?」ホームズが見つけたのは、犬用の鞭だったが先が丸く結んである。

「犬用の鞭だ。でもなんで先が結んであるんだろう?」この私の問にも、ホームズは無言であった。


庭に出るとすぐに、ホームズはストーナー嬢に話しかけた。

「今夜が勝負だわ。ストーナーのお嬢さん、アタシの言う通りにしてね。そうしないと、死んでしまうかも。」

ストーナー嬢は、青ざめた顔でうなずいた。

「ロイロット博士が帰ったら、部屋に具合が悪いって引きこもって、そして、ロイロット博士が隣の部屋に入ったら、鎧戸をあけて窓からアタシたちの泊まってる旅館にランプで合図して、そしたら、アタシたちは、庭を突っ切ってお嬢さんの部屋に窓から入るから、お嬢さんはその間に工事中の部屋にそっと入るの、いいわね。」

「はい、わかりました。」

「必ず、窓を開けておいてよ。絶対よ。」

ストーナー嬢はしっかりと頷いた。


旅館の部屋からロイロット博士の屋敷は丸見えだった。

「ワトソン君。アタシ、あなたを巻き込みたくないわ。」ホームズが暗い顔つきで言った。

「迷惑かい?私がいると?」

「いいえ、どんだけ心強いか知れないわ。でも、命が危ないのよ。」

「そんなことはまえもあったじゃないか?」

「でも、今回は特別よ。眠ったらそれでお終い、永遠に目がさめないかも」

「いや、君の役に立てるなら、喜んで同行するよ。」

「嬉しいわ。」

「いや、それより、ストーナー嬢は大丈夫だろうか?」

「大丈夫よ。とても、しっかりした、そして頭の良いお嬢さんだわ。さあ、夜のために、少し昼寝でもしましょうよ。」


1時間近く眠っただろうか、馬車のわだちの音で目がさめた。ホームズはすでに起きていて窓の外を見つめている。ロイロット博士の馬車が帰ってきたのだ。下働きの少年が門の戸を開けるのに少し手間取ると、あの野蛮人は、少年を鞭で打ちすえた。これでは、召使たちが誰も居つかないわけである。ストーナー嬢の扱いも似たようなものだろうと思うと、私は気分が悪くなった。


教会の鐘が9時を打ったころ、窓辺に明かりが見える。

「いいわね。いくわよ。」ホームズが声をかけた。

足音を忍ばせて、屋敷の庭を通る。いつ狒々や豹に出くわすかとひやひやしていたが、幸いにも出あわず、ストーナー嬢の寝室にはいれたときにはほっとした。

「明かりもダメよ。声もダメよ。全部通気口越しに筒抜けなんだから。」ホームズが耳元で囁いた。


その夜の徹夜の恐ろしかったこと。地獄の苦行だった。音も立てず、身動きもならず、ベットの端で待ち続けなければならない。唇が渇き、のどはカラカラになった。眠ったらだめだとホームズは言ったが、恐怖で頭がさえわたって、眠気どころではない。教会の鐘が3時を打ったあとだった。不意に通気口から光が漏れた。隣の部屋でロイロットがランプをつけたらしい。しばらくするとシューシューと夜間のお湯が沸くような音が天井の方からし始めた。

不意にホームズはマッチをすると、呼び鈴の紐を鞭で打ちすえた。

何をやったんだろうと、不思議だったが、声をたてることはできない。

すると突然、恐ろしい叫び声が聞こえた。隣のロイロットの部屋からである。叫び声は次第に大きくなり、まるで地獄の拷問にあっているような声だった。あの大声では、村中に響き渡っているだろう。

しかし、その声も次第に小さくなり、消えていった。

「ホームズ君?」

「終わったのよ。全部ね。行きましょう。」

「どこへ?」

「隣へ、あの野人の部屋へ」

震えているストーナー嬢から鍵を貰って、恐ろしい叫び声のした部屋に入った。

ロイロットは私たちを睨み付けていたが、微動だにしない。死んでいるのだ。見ると、ロイロットの頭には、まだらの紐がまかれていた。紐はするりと動き出し、鎌首をもたげた。

「沼毒蛇よ。」ホームズの顔は真っ青だった。「あれが、スぺクルド・バンドの正体だわ。」

ホームズは犬用の鞭の先に蛇の頭をひっかけ、腕をできるだけ伸ばしたまま、空いている金庫に蛇を放り込むと、扉をガチャリと閉めた。

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