第3話 青金石(ラピスラズリ)の印璽 終
ルドルフ殿下とアイリーネ・アドラーの一件を説明した後、ホームズと私は、シュラット夫人の家庭料理のもてなしを受けた。しかし、畏れ多くも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世同席である。緊張のあまり、せっかくの料理の味もわからなかった。シュラット夫人の勧めでホームズがシュランメルンを弾いた。おそらく事情を知らぬ他人から見れば、くつろいだ皇帝陛下の私生活のワンシーンでしかなかったろう。
シュラット夫人の馬車でホテルまで送られたが、その間中、我々は一言も口を聞かなかった。
「パリって本当に素敵ね。」
「ウィーンは古い都って感じでしたけど、ここはホント、花の都って感じで若返りますよ。」
メアリーとハドスン夫人ははしゃいでいる。帰りは、二人の希望をカテリーナ・シュラット夫人に頼み、3等車にする代わりに、チロルからパリへの汽車に変えてもらったのである。メアリーはシャンゼリゼに遊びに行くそうだ。メアリーはフランス語は堪能なので、ハドスン夫人も安心している。
「すりに気を付けるんだよ。」私はそう言いながら男二人で、お茶を楽しむことにした。
買ったばかりのタブロイド紙を手に、ホームズの据わっているカフェのテーブルに戻る。ホームズは行きかう人々を見ながら、ひとりごとを言っている。
「また、観察かい?」
「そうよ。」
「それより、あのアイリーネ・アドラーの手紙とか、よく持ってきたね。あのとき。」
「ああ、あのこと。最初は、もっと別の依頼かと思ったの。本当にムッシュ・ルパンの予告状でもあるとか、でも、ワトスン君の奥さんまで招待してるじゃない?おかしいなあって思ったの。アタシたちをおびき寄せるつもりじゃないかって。どんな相手かわからないし、メアリーさんやハドスン夫人をおいて行って、アタシたちがいない間に何かあったら困るじゃない?で、一緒に来てもらったのよ。だからウィーンでも大使館に預かってもらって、今回はアタシの考え過ぎ、マイクロフト兄に笑われそう。」
「そんなことないよ。心配してくれてありがとう。ホームズ君。」
「ウィーン、つまりオーストリア・ハンガリー帝国がアタシに関心があるとしたら、ワトスン君の書いたあの伝記しかないと思って、アイリーネ・アドラーの手紙を取り返したいんじゃないかって、思ったんだけど、まさか、カテリーナ・シュラット夫人が皇帝陛下のために、あんなことまで、全く想定外だったわ。」
「愛は偉大だからね」と私が言うと
「愛は盲目よ」ホームズがニヤリと笑った。
「ああ、それよりこの新聞、面白いことが書いてあるんだ。」
「なによ。フランスのゴシップ誌じゃない。お金の無駄よ。ワトスン君。」
「いや、違うよ、ここだよ。ここ。」
「なあに、『快盗紳士ウィーンに現る?』なにこれ?『先日、ウィーン市内の警察長官ケルペン氏自宅で、当氏が下着姿で昏倒せりしを下僕が発見。・・・さらに、当氏のそばにはA.L.なるカードが置かれ、かつ、ヘルマン・シュミットなる若き警官行方不明になれり。なお、ヘルマン・シュミットなる警官は同市内に5名おれど、みな、ケルペン警察長官が面会せし青年とは全くの別人なり ゆえにこれは、ヘルマン・シュミットおよび、発見さるるまでのケルペン警察長官は、我がフランスの誇る快盗紳士アルセーヌ・ルパンの変装なりと、我が新聞は考えるものなり』って、憶測のゴシップ記事じゃない。必要なのは事実よ事実。」ホームズはそっけない。
ホームズは、煙草をふかし始めた。むっつりと押し黙っている。
「機嫌が悪いなあ。どうしたんだい?」
「うん?ちょっと考えてただけ、」
「何を?」
「皇帝陛下のことよ。」
「フランツ・ヨーゼフ陛下。のこと?あの方のオーラは凄かったねえ。神々しいというか、王権神授説なんて誰も信じてないけど、あの陛下だけには、信じてもいいような気がする。」
「そうね。あの陛下は、オーストリア・ハンガリー帝国そのものなんだわ。」
「ヴィクトリア陛下だって、そうだろう。大英帝国の象徴さ。」
「わかってないわねえ。ワトスン君。」
「何で?」
「ヴィクトリア陛下がお亡くなりになったら?」
「縁起でもないこと言うなよ、ホームズ君。まあ、おばあ様だからなあ。バーディが即位するだけだろ、ちょっと頼りないけど。」
「バーディが亡くなったら?」
「息子のエディかジョージが着くだけだよ。誰がなってもあまり変わらないさ。」
「そう、大英帝国はそうよ。でも、オーストリア・ハンガリー帝国は、違うわ。」
「へ?」
「オーストリア・ハンガリー帝国はね、」ホームズは真顔で言った。「フランツ・ヨーゼフ陛下でなければだめなの。もう、あの帝国は、崩れかかって、いえ、もう崩れているのよ、バラバラと積木が崩れていくのを、フランツ・ヨーゼフ陛下があの大きな手でしっかり押さえているだけ、それで、なんとか、国の形を成しているだけよ。ルドルフ皇太子殿下でも、フランツ・フェルディナンド大公でもダメだわ。あの帝国を、持たせられるのは、フランツ・ヨーゼフ陛下しかいないのよ。」
「おいおい、ホームズ君。冗談ゆうなよ。それは偉大な方だろうけど、神様じゃあるまいし。いつかはお亡くなりになるだろう。まあ、あのご様子だとずっと先だろうけど、そうなったら、オーストリア・ハンガリー帝国はどうなるっていうんだい?」私は吹きだした。
「消滅するのよ。消えてなくなるの。」
「まさか、消えてなくなるって、煙じゃあるまいし。アハハ、あそこには、5000万人の人間が暮らしてるんだぜ。ホームズ君。それが消えるって、じゃあ、そこにいる人たちは」そこまで言って、私も気がついた。ホームズの言っている意味に
「まさか、どうにかならないのか?ホームズ。」オーストリア・ハンガリー帝国のあった地域が真空になり、凄まじい嵐と共に周辺の国々や人々を飲み込む様が浮かんでくる。
「アタシは探偵よ。探偵はせいぜい、失せ物をみつけるだけよ。」
「そんな。どうすればいい?」
「どうにもできない。人に寿命があるように、国にも寿命があるのよ。寿命の尽きてしまった国をどうにかできるのは、神しかいないわ。」
「じゃあ、我々は。」
「そう、神に祈るしか、ないのよ。」
ホームズは眉間に手を当てた。