第3話 青金石(ラピスラズリ)の印璽 5
「ホームズ様、ワトスン様、わたくしが、フォン・トゥレンベルグ館長にお願いしたのです。ご家族の方にも、ついでにウィーンを楽しんでいただこうと思ったのですが、かえって、ご心配をおかけしてしまったようで、申し訳ありません。」しっとりと柔らかな声だった。
「この方は?」私が尋ねた。
「皇帝陛下のご友人の、カテリーナ・シュラット夫人です。」フォン・トゥレンベルグが答えた。
その時、私の頭の中に、ルドルフ皇太子の言葉が甦った。エリザベート皇后公認の愛人、清い関係・・・しかし、私には父と娘のような関係に思えた。
「どういうことか、ご説明していただきたいわ。」ホームズは穏やかに尋ねた。
「ルドルフ殿下があのような形で亡くなられてから、皇帝陛下のお苦しみは、お側で見ているのも耐え難いものでした。それに、その後は、新聞や雑誌には、ゴシップや誹謗中傷の嵐で・・・」カテリーナ・シュラット夫人は言葉に詰まった。「ゴシップ記事などには、毅然と対応される陛下なのですが、何よりも苦しめたのが、ルドルフ殿下がお父上の陛下に対し、何の遺書も残さなかったことです。自殺ではなく、情死に見せかけて殺されたと、皇后陛下はお考えになっているようですが・・・真相はわかりません。生前、殿下は皇帝陛下と話す機会が殆どありませんでした。代わりに話し相手になったのがこの、フォン・トゥレンベルグ館長なのです。」
「私は殿下の家庭教師でした。殿下はお寂しかったのです。私もできる限りのことをしました。しかし、本当の肉親の情には及ばないのです。」
「情死事件の騒ぎも一段落した後、わたくしはこの雑誌を見ました。」彼女はストランド誌の今月号を見せた。
「このお話は、英国のバーディ殿下を風刺しているように見えるけれど、本当はルドルフ殿下のことではないのかと、シャーロック・ホームズ様は、殿下にお会いして、何かお話を聞いたのではないか、それはとても大切なお話で、だからこそ、バーディ殿下のことのように胡麻化して、面白おかしく書いているのではないか?そう思ったのです。殿下の行動を調べると、今から3年前に、一週間ほど空白の時期がありました。フランスのカレーに行かれたことまではわかりました。もしかしたら、その時に、英国に渡り、ホームズ様にあったのではないか?もし、お会いしているのなら、もし、お話をしているのなら、それが皇帝陛下のお慰めになるかもしれない、わたくしはそう考えました。しかし、ホームズ様は、珍しい事件でない限り、いらっしゃらないと思い、この狂言を思いついたのです。」
「正直に言って下されば、行きましたわ。ええ、アタシもワトスン君も殿下にお会いしました。依頼人だったのです。でも、話を聞いても返って皇帝陛下を苦しめることになるかもしれませんわ。」ホームズは言った。
「たとえどのように辛いことでも、知ることで、人は前に進めますわ。」
カテリーナ・シュラット夫人は静かに言った。穏やかだが芯の強さを感じさせる。そんな所も、マリア・テレジアを連想させるのかもしれない。私は会ったこともない18世紀の女帝のことを考えていた。
結局、ホームズと私はホーフブルグ宮殿のある広大な庭園わきのシュラット夫人の館に招かれることになった。フォン・トゥレンベルグの馬車に乗り、途中、英国大使館にいるメアリーとハドスン夫人に今夜は大使館で宿泊するようにと、ホームズが伝えに行った。ホームズが戻るまで、フォン・トゥレンベルグの話し相手になったが、自分たちの任務を考えると、心臓が破裂しそうである。フォン・トゥレンベルグが何を話したかもよく覚えていなかった。
「ワトスン君、何固まってるのよ。今からそれじゃ、今夜身が持たないわよ。」そう言うホームズの顔も緊張しているのがよくわかる。
小さな私邸、とカテリーナ・シュラット夫人は言っていたが、瀟洒な二階建ての館は、豪邸としか思えず、磨かれた花崗岩の床の上を歩くときは足が震えた。
「あの方は、いつも、午後6時にいらっしゃいます。」
「そ、そうですか。」私は額に浮かんだ汗を拭いた。
ホームズも、どこまで話したらよいのか考えあぐねているようだった。シュラット夫人は、我々が面会した事実だけを確認すると、後は何も聞かなかった。自分で判断しろということか、あるいは、全て話してほしいということか、私にはわからなかった。いや、ホームズにもわからないのかもしれない。
「あら、ヴァイオリンだわ。弾いてもいいかしら?」
「どうぞ、ホームズ様はヴァイオリンの名手だとか、ぜひお聞きしたいですわ。」シュラット夫人はにこやかに言った。
ホームズが私の好みの曲を弾いた。私の緊張を溶こうとしているのだろう。彼の心遣いが嬉しかった。ひとしきり弾くと、ホームズは、シュラット夫人に楽譜を用意してもらって、新しい曲を弾いた。昨晩、ホイリゲで聞いたシュランメルンであった。
不意に、ドアの鍵が回る音がした。そして、扉が静かにたたかれた。ホームズはヴァイオリンの手を止めた。
『親愛なる夫人、珍しくお仲間もご一緒かな。せっかくのシュランメルン、どうぞ続きをひかれるように』
ドイツ語だったが、美しい発音のため、私にもしっかりと聞きとれる。
声の主の、尊顔を私は拝した。60近いと言われていたが、かつて金髪だった頭髪はほとんどなくなり、それを補うようにふさふさと生える頬髯も銀色に変わっているが、堂々たる体格、軍隊仕込みのためか姿勢も素晴らしくよい。若いころはさぞ美貌であったろうが、年齢を刻んだ顔立ちは、その美貌に威厳と品格を醸し出させ、さながら、オーディンかゼウスかと思われた。質素な空色の軍服に身を包んではいるが、威厳は少しも損なわれてはいなかった。夏の天気が時折見せる澄み切った空のような水色の瞳は、私たちを射抜き、さらに、はるか遠くを見晴るかしているようだった。
カテリーナ・シュラット夫人は、話しかけた。早口のドイツ語であるため聞き取ることはできなかった。
「突然、伺いまして失礼いたします。私はシャーロック・ホームズと申します。陛下。」
ホームズも深々と一礼した。日ごろ、権威に対し、傍若無人ともいえる態度を取れる彼としては稀有のことだろう。
「そちらは?」皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は私に言葉をかけた。クィーンズ・イングリッシュである。
「わ、私は伝記作家の、ジョン・H・ワトスンです。い、いえ、申します。」自分の小心さが恨めしい。
「どうぞ皆様、お座りになって。」
カテリーナ・シュラット夫人に促され、私は座った。
「ルドルフ殿下は、生前、ホームズ様の依頼人だったそうなのです。」シュラット夫人の言葉に、フランツ・ヨーゼフ1世は、ホームズを見つめた。
「殿下は、ある晩、依頼人として、ベーカー街221Bの私の部屋を訪れたのです。」ホームズは話し始めた。アイリーネ・アドラーとルドルフ殿下の関係、変装を見破られ、出し抜かれてしまったこと、ルドルフ殿下が手紙を焼いていたことなど、細大漏らさず皇帝に説明した。それが、フランツ・ヨーゼフ1世のためになることかどうかはわからない。ホームズにもわからないだろう。
「アイリーネ・アドラーか」皇帝はため息をついた。
「ご存知でしたか?」ホームズが尋ねた。
「いや、あれは数多の女がおった・・・」皇帝は遠い目をしている。
「あの女がどのような方かは、これを。」ホームズは手紙を皇帝に手渡した。それは、プライオニー邸で彼女がホームズ宛に残した手紙だった。皇帝は無言のままその手紙に目を通した。
「して、アイリーネ・アドラーは今は?」
ホームズは新聞の切り抜きを手渡した。かつて私に読ませたアメリカの新聞である。
「婦人運動家か。新しい時代の女性だの」
フランツ・ヨーゼフ1世は、手紙と切り抜きをホームズに返した。ホームズは意外な顔をした。
「お焼き捨てにならないのですか?」
「なぜ?そなた宛の手紙であろうが?」
「失礼いたしました。ルドルフ殿下の不名誉になることかと思われましたので」ホームズが恐縮している。
「不名誉なら」皇帝はしばらく黙りこみ、静かに加えた。「もう、十分被った。」
「焼き捨てた手紙には何が書いてあったと、貴殿らは思うか?」
「そ、それは」ホームズと私は顔を見あわせた。言って良いものかどうか。
「あれの思想か。自由主義の・・・プロイセンとの同盟を廃し、フランス・ロシア・英国と同盟せよと」
なぜ知っているのだろう?スパイでも?いや、わざわざ、下町の一探偵に帝国政府がかかわるはずもない。
「あれは、こうも言っておったのではないか?合衆国とも同盟せよと、余の統治は18世紀のもの、新時代にはふさわしくない。帝国内の民族に自治を与え、ゆるく結合した連邦政府として、ハプスブルグ帝国を再編成したいと」
「陛下。それは。」ホームズが言いよどんだ。そんな彼を見るのは初めてだった。
「図星か。そうか。」深い沈黙の後、皇帝はつぶやいた。
「余も考えた。若いころ、新しい時代のハプスブルグ帝国を・・・やはり、親子かの。」
ルドルフ皇太子は、父帝の頑迷さを嘆いていた。しかし、真実の皇帝は皇太子と同じことを考えていたのだ。父と子はすぐそばにいたのだ。私はやりきれなかった
「なぜ?」せめて、一度でも二人だけで話す時間があれば、私は思わず言葉が出た。
「なぜと問うか?今にも崩れそうに積み上げられた箱の山を崩さないためにはどうすればよいと考えるか?」私の問を誤解したのか、皇帝はそう応えた。
「それは、」ホームズが言った、青い顔で。「何もしないことです。」
「そう、ここも同じだ。」