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天国のラジオ

作者: 守宮やもり

初投稿でシステムがよくわからないままですが、よろしくお願いします。

  ⒈


 火葬場に植えられた桜は、眩しい緑の葉を風にそよがせていた。

 三日間ついに眠れず、真っ赤に腫れあがった目には、五月の午後は、汚れなくきらきらしていた。澄んだ高い空に伸びた煙突からゆっくりたなびく白い煙りが、ゆらゆらと、目眩にも似た眠気を誘った。

 世界は、静かに、輝いていた。

 こんな、こんな日に、何故僕は、借り物の礼服を着て、ぼろぼろ泣いているんだろう。

 そう思ったのを、覚えている。


「ななー、もう寝るよ、テレビを消して」

 はーいと返事をしてテレビを消し、3歳の娘が布団の中にもぐり込んできた。僕は部屋の明かりを消して、布団に横になる。

「おとうしゃん、みてみて、オムライスのかたち」

 娘の声が、布団の中から聞こえてきた。布団をめくると、丸まって毛布にくるまっている。

「オムライスか、上手じょうず」

「きょうね、きょうね、トキばあちゃんがオムライス作ってくれたの。おいしかったよ」

 トキばあちゃんというのは同じアパートに住むご老人だ。時々娘の面倒を見てもらっている。

 もぞもぞとオムライスが動いて、娘の顔がぴょこんと出てきた。アパートの前にある防犯灯の明かりで、部屋の中はほの明るい。娘の顔が笑っているのが薄闇の中で見える。

「あ、なな、おかあさんにおやすみ!」

 娘は布団から這い出て、サイドボードの上にある小さな仏壇に向かって手をあわせ、ちーん、と鉦を鳴らすと、おかあさんおやすみなさい、と唱えて布団に戻ってくる。ごろーんとでんぐりがえしで飛び込んでくるので、パジャマの上に着せているスリーパーのボタンがはずれた。僕ははずれたスリーパーのボタンを止めなおし、「もう寝ないと保育園に行けなくなるぞ。お友達に会いたいだろー?」と娘を布団の中に抱き入れた。

 娘はちょっと黙り込み、それから「保育園って、来年からじゃダメ?」と小さな声で言った。

 僕は、やれやれまたかと思いながら言った。保育園のことになると必ずこの問答になる。

「ダメ。ななが保育園に行ってくれたら、トキばあちゃんが助かるんだよ。トキばあちゃんが腰の病院に、午前中に行けるようになるからね。保育園は楽しいぞー。お友達みんなで給食食べたり、お歌うたったり、動物園に遠足に行ったりするじゃないか。ななは動物園に行くの好きだろう?」

 しかしそのとき、娘は唐突にこう言ったのだ。

「…ねえおとうしゃん。おかあしゃんのおうちは、おぶつだんの後ろ? おかあしゃんはいつも、ベランダとおぶつだんの間にいるの? ななのおかあしゃんって、そんなに小さいの?」

 突然のその言葉は僕を絶句させた。

 ごまかしや言い逃れを一切はねつけるような、切実さがあった。

 娘は、妻のことを今まで一度も僕に聞いてきたことがなかった。その方が都合がよかったので、僕も妻のことを、娘の母親のことを話して聞かせたことはなかった。これまでは理解するのには幼すぎたし、お義母さんが折々に妻の話を娘にしていたから、それでいいと思っていた。

 僕は妻のことには答えず、保育園に行くためには早寝早起きできなきゃダメだぞ、とだけ言った。

 娘は無表情に「うん」と言って、目をつぶった。手が口元にいき、やがて、人さし指の爪を噛みながら娘は寝入ってしまった。

 

 妻の三回忌が終わり、お義父さんお義母さんが一旦郷里に帰ったあとから、娘の様子が少しおかしい。

 「抱っこして食べさせて」と僕の膝にのったり、自分の髪の毛を強くひっぱったり、夜中に泣きながら目覚めたあとも、目を凝らすように暗闇を見つめて眠ろうとしない。単純な赤ちゃん返りとは少し違うように思う。

 僕は父として娘のこんな様子を見ているのが辛い。どう考えても娘は寂しがっているのだと思う。

 その度に僕は、良心の呵責にさいなまれる。妻は娘を産んで2ヶ月目に死んだ。僕は今でも何故妻が死ななければならなかったのかわからない。

 28歳だった。

 それが天寿だというのか。そんな馬鹿なことがあるか。

 僕は、産院のベッドの上で、産まれたばかりの娘におっぱいを飲ませるために、赤い顔をして汗だくになっていた妻を思い出す。初めての授乳だこれはいい記録だぞとビデオカメラを向けると、いやだこんな場面撮らないでと言って恥ずかしそうに笑っていた。

 僕ら家族。しあわせな3人。しあわせな3日間。

 そう、神様は僕らに3日しかくれなかった。

 その翌日から妻は突然意味もなく泣くようになった。不安がり、心配がり、なにかに怯え、食事も摂らず、寝ている間に赤ちゃんに何かあったら嫌だからといって眠らなくなった。僕は心配になり、医師に妻の様子がおかしいと告げると、ベビーブルーですよ、ホルモンのバランスが急に変わるから情緒不安定になったりするんです、一過性のものですよ、という答えが返ってきた。

 そうか、しばらくの間だけなんだな、と納得したが、退院して自宅に帰ってから妻の様子はどんどんおかしくなっていった。床上げまでは妻の郷里からお義母さんが世話をしに来てくれていたが、横になって休むように言っても妻は娘の傍から離れようとしない。

 眠らず、食事せず、青白い顔をして、一日中寝間着で過ごし、一ヶ月健診のころには妻はまるで幽霊のようになっていた。

 心配になった僕は保健士に妻のことを相談した。紹介されたのは心療内科で、そこで産後うつという診断が下された。

 それからは改めて、長期間の覚悟で、お義母さんに手伝いに来てもらった。

 妻が眠らないとは言っても、時折うとうととすることはある。その間はお義母さんが娘のめんどうを見ていたのだが、妻は目覚めた時に娘が見えるところにいないと、悲鳴を上げながら震えてしまうというパニック発作を起こすようになってしまった。

  僕は長期の産休・育休が取りたかったのだが、運悪くこの直前に退職者があったので休むのは無理だった。上司は同情し、残業がでないように、毎日定時に帰れるように計らってくれた。同僚からは白い目で見られたが、実際どんな立場でも僕にはそのことが有り難く、計らってくれた上司にも報いたくて、出来るだけ仕事を残さないよう、昼休みもこっそり働いた。

 会社に気持ちを残したままもどかしい気持ちで急いで家に帰る。お義母さんと交代して、妻と娘のめんどうを見る。お義母さんも腰が痛むのだ。

 妻は処方された薬を飲むことで授乳が出来なくなることを嫌がっていた。どうしても母乳で育てるのだ、薬など飲めない、そう言い張る。僕は、娘はミルクで十分栄養をとれるのだから、自分の体調を整えるのが先だ、薬は必ず飲め、と念を押す。

<嫌なの、だってこの子は私の赤ちゃんなのよ、私が育てるのよ>

<そんな調子でどうやって世話が出来るんだ、俺の子でもあるんだぞ、言うことを聞け>

<母親は私なのよ、私の子なのよ>

<いい加減にしろ、俺は仕事で疲れているのに、帰ってからまたお前に振り回されるんだ、俺の身にもなってみろ>

 言ってしまって、あ、と思った。しかし口から出た言葉は戻せない。その日の夜から、妻は青白い顔で、私は母親失格だ、妻としても失格だ、お願いです私と別れてくださいと繰り返すようになった。2時間おきのミルク、夜泣き、眠らない妻。僕も後悔で眠れない日々が続いた。

 だが、妻は出産から67日目、二度と目覚めなくなった。

 それまでの睡眠不足を取り戻すように。

 

 ⒉


 ところで上司というのは、僕より一回りばかり年上の女性である。貫禄のある、肝っ玉かあさんというイメージの人で、我が家が父子家庭になってからは、残業がしにくいハンデを埋めるための方策をあらゆる方向から考えてくれたりと、いつも気にかけてくれている。彼女自身、息子と二人暮しの母子家庭なのに、いやそれだから尚更かばってくれるのか、ありがたく僕は頼りっぱなしだ。

 そんなわけで僕はまた頼って、休憩時間に、夕べの娘の言葉の真意が何かを「親業の先輩」でもある上司に相談した。

「そうねえ、君が言うように、やっぱりお嬢さんは寂しいんでしょうね」

 ああやっぱりそうか、と僕は心の中でしんみりと思った。

「……といっても妻が生き返るわけでもありませんし、僕だって一生懸命愛情もって接しているつもりです」

「うん……それはわかるわよ」

 上司は『いい?』と喫煙スタンドを指差した。

「うちも離婚してすぐの時は息子のことが心配だったからね」言いながらたばこに火を点けて深く吸い込み、溜息をつくように煙を吐いた。

「うちは生き別れだから、元ダンナと話し合って、息子が会いたい時には自由に行き来をさせる約束をしたのよ。そうしたらじきに落ち着いてきたわ。でも君の所は事情が違うから……」

 上司の語尾は、吸煙機のファンに静かに吸い込まれ、僕はそれを黙って見ていた。

 突然僕の方を向いて、上司はこう言った。

「君、彼女とかはいないの? お見合いの話とか来ないの?」

「ええっ、いや、そういう女性はいませんよ」

「……奥さん、忘れてないのかな?」

 答えられず、僕はまた、煙の行方を目で追った。

 上司は煙りにむせて笑いながら、危ない危ない、ハラスメント案件よね、とあわてたように言葉を継ぎ足した。

「ごめんなさいね。ただ、『お母さんの代わり』になるものが要るんじゃないかって思っただけなのよ」

「『お母さんの代わり』ですか?」

 上司は煙が吸い込まれていくのを目で追いながら、静かに言った。

「なんでもいいのよ、まくらでも毛布でもぬいぐるみでも、極端な話、おしゃぶりだって有効かもしれない。まあそれはアレだけど、君のお嬢さんに必要なのは、安心感なのよ、多分。欠けているパズルのピースを、代用品で埋めるというか……無条件に、甘えて、独占できて、自由に出来て……多分そんな物なのよ」

 上司はまた深く煙草を吸うと、溜息のように煙を吐き出した。煙は宙にとどまらず、そのまま音もなく吸煙機に吸い込まれていった。

 

<えーっ、今時ラジオってその趣味は何さ?>

 世の中がデジタルに移行しようとしている時期に、可奈子が手に持っているのは、小振りの辞書ほどの大きさの、ポータブルラジオだ。にこにこしながら加奈子が言う。

<便利なのよこれ。いつか海外に移住する時がきたら持っていくの。短波放送も聴けるものだから>

 いつかっていつなんだ、という問いは飲み込んで、僕は適当に話を聞く。

<短波って、海外で聴けるもんなのか?>

<そうよー、例えばカリブ海で日本語放送が聴けちゃう。国内にいる時は、株式もわかる、競馬中継もある>

 僕には正直なところ興味のない分野の話だ。適当に相づちを打っていると、可奈子は面白いいたずらを見つけた子どもみたいな顔を、ぐっと僕に近づけて言った。

<あのね、外国語の放送を聴くのも面白いのよ。中国語みたいな、ロシア語みたいな、何言ってるか分からないんだけど、聴いてると何かの音楽みたいで楽しいの>

<それで、わからない言葉をずーっと聴いてるわけ?>

<うん。適当に、今日の中国はいいお天気でした、とか脳内アフレコするの>

<変だお前。おかしいよそれ絶対。お前は不思議ちゃんか>

<変かな。うふふ。変かな。でもたのしいよ。だって世界中の言葉が、この小さいスピーカーで聴けるんだよ。国境を幾つも幾つも超えた電波が自分の手の中に届くのって、ロマンチックじゃない?>

 変わったことを言い出す。加奈子はこういうコだったろうか。

<ロマンねえ……ちょっとじゃあ、聞かせてよ>

<いいよ>

<んん~? 何語だこりゃあ。脳内アフレコではなんて言ってるとこなのさ>

<これはね、『晴臣くんは可奈子さんと付き合うと絶対いいことがあるでしょう』って言ってるところ>

 僕は思わず可奈子を見た。可奈子は照れ隠しなのか、僕に向かって『イー』という顔をしている。頬が赤い。僕はその面白い顔を、不思議に『可愛い』と思う。

<……へえ、ロシアだか中国だかのアナウンサーも、結構いいこと言うじゃん。そうか……じゃあ付き合ってみる?>

<うん。そうしてくれる? 絶対いいことあるっていうしね>

 きらきらと目を輝かせて可奈子が笑った顔で、胸がいっぱいになった。温もりのある感情、これはなんだ?

 

 そこで目が覚めた。

 

「来てごらん、なな」

 娘はクレヨンで絵を描いていた途中だったのだが、僕が手に何か持っているのに気付くと、ぴゅーっと駆けてきた。

「なになに? おとうしゃん。それなあに?」

「これはね」

 僕は電源のスイッチを入れた。聞き慣れない言葉が、耳慣れない抑揚で流れ出す。

「これはね、ななのお母さんのお話しが、ひょっとしたら聞こえるかもしれない機械」

 娘は僕の言葉を聞いて、戸惑った顔をしたが、瞳だけはきらきらと輝いている。

「ななのお母さんは、遠い国にお引っ越しをしたんだ。その国の放送が入る、かもしれない、ラジオだよ」

「らじお?」

「この機械の名前。ラジオって言うんだ。なながやたらに触ると壊れるかもしれないから、触っていいのは」僕は黄色い電源スイッチを指した。

「このスイッチだけ。でもこのラジオは乾電池で動くから、つけっぱなしにしないように。できるね?」

 僕の手から娘の手にラジオを渡した。小振りの辞書ほどの大きさで、黒い色をした、可奈子の短波ラジオを。

「これ、おかあしゃん?」

 ラジオからは、いずことも知れない国の言葉が、女性の声で流れてきている。

「これはちょっと違うんじゃないかな。これはね、きっとアナウンサーの声だよ。お母さんの声は、もう少し……」

 ……可奈子はどういう声をしていただろう……。

「お母さんの声はもう少し元気だし、茶目っ気のあるしゃべり方をしてたし、もう少しななの声に似ていたかな」

「ふうん……」娘は手の中のラジオをじっと見つめている。

「貸してごらん。この長い棒がアンテナだよ。これの向きで音がきちんと入るからね。……出窓のここに置こうか。聴きたい時とか、音がよく聞こえない時とかは、お父さんに言うといいよ」

 娘は顔を上げ、僕を見て言った。

「おかあしゃんの放送は、いつはじまるの?」

「お母さんの放送?」

 僕はちょっと考えてから言った。

「そうだなあ……ななが寝る前、お布団に入って電気を消すくらいの時間じゃないかな」

 見る間にぱあっと娘の顔が輝いた。

「今日の夜、おかあしゃんの放送、なな聴きたい!」


 ⒊


『……、……』

「おとうしゃん、これはなんていってるの?」

「『今日の天国はいいお天気でした』って言ってるんじゃないかな」

 娘を寝かしつけるために部屋の電気を消し、枕元でラジオを聴いている。

 思いつきで買ってきた短波ラジオだったが、娘は驚くほど気に入ったようで、何語だかわからないつぶやくような放送を、聞き漏らすまいと眠い目をこじ開けている。

『……、……』

「おとうしゃん、いまのは?」

「『天国から見えるお月様は、とってもきれいです』って」

「それから?」

「『天国からは、ななちゃんが元気なのも見えます』って」

「えええ! おかあしゃん見てるのお!」

「見てくれてるよ、きっと。でもお母さんなら、ななと一緒にお布団に入ったら、ななより先に寝ちゃうだろうな」

「おかあしゃん、もう寝てる?」

「うん、そうかもね」

 そこで、アナウンサーが変わった。次の番組に移ったのか、ふわふわした音楽のあと、女性の声が流れてきた。

「このひと、おかあしゃん?」

『……、……、……! ……!』

「いや、このひとは、ななのお母さんからの伝言を読んでくれてる。『お母さんが一緒に眠っていると思って、夜更かしはしないでね。ななちゃんのことは天国からよく見えます。一緒におやすみ』だって。さあそれじゃあラジオを消そうか」

「ななが消す!」

 娘はふとんから這い出すと、ラジオの黄色いスイッチを押した。そして無音になったラジオに向かって、おかあしゃんおやすみなさい、と言った。

「ねえ、おとうしゃん」

「なに」

「おかあしゃんのいる天国はどこ? おぶつだんの後ろ?」

 僕は娘の額をなでて言った。

「お仏壇の後ろよりももっと遠いし、それよりも近いのかもしれないね」

「でもななが見えるんだよね?」

「そうだよ、お母さんはななといつも一緒にいるんだよ。だから見えるんだ。おりこうさんにしてないと、悪いことした時もお母さんに見えちゃうぞ。お母さん泣いちゃうぞ、きっと」

「ふーん」

 薄闇のなかで、娘が目をつぶったのがわかった。そして目をつぶったまま微笑んだ。

「いまもいっしょに寝てるんだあ」

 僕が額をもう一度撫でると、やがて、寝息が聞こえだした。

 

<晴臣さん、わたしのことどうだっていいんでしょう!?>

<何でそんなこと言うんだ、どうだっていいとか、そんなわけないだろう!>

<だって、だって、わたし……>

<どうしちゃったんだよ、一体……言ってくれよ、本気で心配してるんだぞ>

<だって、どうしたらいいの?>

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした可奈子は、しゃくりあげながらバッグを探り、引っ張りだしたティッシュで顔をごしごしと拭うと、一つ深呼吸して、僕の目を見た。

<こないの。もう2ヶ月になる。試験スティックの結果も……ねえ、どうしたらいいの!?>

 髪の毛が逆立つ感じって、こういうことか。全身がざわっとした。

 どうしたら? どうしたら?

<……でもまだ決まった訳じゃないし……明日にでも病院に行ってみて……>

 可奈子はまなじりをつり上げて、僕に詰め寄った。

<ほら! どうだっていいんでしょう! そんな人ごとみたいにして!>

 でもそれは、まだ決まった訳じゃないし……ああ、可奈子になんて言ってやったらいいんだ……


 そこで目が覚めた。

 隣を見ると、ななが布団からはみ出して寝息を立てていた。

 僕はななを見ながらあの後に言った言葉を思い出した。

「結婚しよう、可奈子」


 ⒋

 

『……、……』

「おとうさん、いまのは?」

「『ななちゃんは今日何をして遊んだのかな』って」

「ななはねえ、きょうは、トキおばあちゃんとお絵かきした。おばあちゃんが上手ねって」

「そうなんだ。よかったね」

『……、……』

 そこでふわふわした音楽がかかり、違うアナウンサーの声が聞こえてきた。

「あ、もう天国の放送はおわりだね。さあ寝ようか」

 娘は布団から出てラジオのスイッチを消し、おやすみなさいを言ってから布団に戻って、僕の腕枕に頭を載せて、言った。

「おとうさん」

「なに」

「ななのことをおかあさんは聞いてばっかりね。ななからおかあさんにはどうすれば聞いてもらえるの?」

 僕は言葉に詰まった。母親からの放送というのは、可奈子風に言えば僕の脳内アフレコだ。僕からの質問イコール可奈子からの質問なのだ。どうすればいいのか、思いつくまでの時間を稼ぐために、どうすればいいか調べておくね、というと、娘は安心したように目をつぶった。

 

 可奈子が大きいおなかをさすりながら、神妙な顔をしてぽつりと言った。

<ねえ晴臣さん、この子が生まれたらきれいなものだけ見せて育てよう。温室栽培とかそんなつもりはないけど、世界は美しくて正しくて光に満ちているってことを教えてあげたいの>

<なんだかそれ宗教臭いなあ。そりゃ聞こえはいいけどさ、きれいごとばっかりで人生は渡っていけないよ>

<うん、そうだね。でも、赤ちゃんの間だけでも…。おかしい? やっぱり宗教臭いかな?>

 可奈子が本当に困ったような顔をして僕に言うものだから、僕は吹き出しそうになる。

<まあ悪いことじゃないから、いいんじゃない。歌でもお話でも、たくさんしてあげるといいよ>

<そうだね。おーい赤ちゃん、早く出ておいでー>

 可奈子はとても嬉しそうに笑うと、歌うような声で大きなおなかに呼びかけていた。とても、とても嬉しそうに。それから何かの童謡を歌い始めた。僕の知らない童謡だ。朗らかで優しい抑揚で、可奈子は歌い続ける。

 そこで目が覚めた。どんな歌だったかは思い出せなかった。


 ⒌

 

 昼休み時間に、上司が僕の所にきて、夕食を一緒にしないか、と言った。

「お嬢さんを連れていらっしゃいよ。うちもいつも二人きりだし、ちょっと賑やかに食事したいのよね。付き合ってくれない?」

 珍しいことだが、そう言う訳で、僕は仕事が終わってから一旦家に戻り、娘を着替えさせると、また街中へと向かった。

 賑やかに食事、といっても聞かない盛りの子どもが一緒なのだから、高級な場所へ行けるわけではない。大人が食べてもそこそこのファミリーレストランで、上司親子と落ち合った。

 上司の息子は小学2年生で、おとなしい雰囲気の子どもだった。少しばかり目元に険があると思ったのは僕の思い過ごしだろうか。過去に上司から、学校でいじめられている風で、それが悩みの種なのだと言うことを聞いたことがある。僕は彼を見て、いじめられても黙って耐えてしまいそうだな、という印象を持った。

 上司はビーフシチューを、僕はダブルハンバーグステーキを、上司の息子はカルボナーラを、我が娘はお子さまランチをオーダーし、賑やかに食べた。……と言いたいが初対面同士、実際は話し始めても話しの接ぎ穂がなかったり、話題自体についていけなかったりと、少々ぎくしゃくした雰囲気での食事になった。

 メインの皿が下げられ、デザートや飲み物が来ると、上司の息子が言った。

「ママ、ぼく今度の日曜、パパと会いたいけどいい?」

「今度の日曜? ママは行けないけどひとりで行けるよね」

「行っていいの?」

「いいよ。パパに会っておいで」

 娘はそのやり取りを見ていて、

「おとうしゃん、ななもおかあしゃんに会える?」

 と聞いた。ああやっぱりそうきたか、と腹をくくり、ぼくは切ない気持ちで言った。

「ななはお母さんとは会えないんだ。会えない代わりに、毎晩ラジオでお母さんのお話しを聞いてるだろう?」

「なに、ラジオって?」

 上司の息子が不思議そうな顔をしてななに聞いた。

 娘は胸を張り、

「てんごくの放送が入るラジオだよ! ななのおかあさんのお話が聞けるの」

「なにそれ。天国の放送って、宗教放送?」

「大介っ」

 上司が息子を制するよりも早く、上司の息子が言った。

「お前んちのママは死んじゃったんだろう? 天国の放送なんてあるわけないじゃんか」

「そんなことないよ! なな、毎日てんごくの放送きいてるもん!」

「なんだよ、どうやって聞いてるんだよ。見せてみろよ」

 娘は背中にしょってきたリュックを探ると、驚いたことに中から短波ラジオを取りだした。持ってきていたのだとは知らなかった。

 子ども達の応酬は僕ら大人が間にはいるより速いテンポで進んだ。

「これで聞いてるんだよ! おかあしゃんのおはなしがきけるんだよ!」

「なんだよタダのラジオじゃん。貸してみろよ」

 あっと思う間もなく、上司の息子は娘の手からラジオを奪うと、スイッチやダイヤルをがちゃがちゃといじり、机の上へ放り投げた。

「なんにも聞こえやしないじゃん。お前、うそつき」

 そういって笑った。

「君はどうしてそんな」

 ぼくの大声と、上司が息子の頬を叩くのが重なった。

 上司の息子は驚いた顔をして大人二人を見上げている。

 目の前が真っ暗になり、全ての音が遠ざかった。何も見えず何も聞こえないぽっかりした空間にほうり出され、倒れそうな強烈な目眩を感じた。一瞬、きらり、と葉桜が揺れたのが見えた。

 はっ、と我に返ると、店中が僕らの方をみていた。僕は立ち上がっていた。

 娘はこわばった顔をして、テーブルの上のラジオを見つめている。

 僕は大きくひとつ息をして重いものを飲み込んでから財布を出し、なかから5千円札を出すと、上司に差し出した。

「これで払っておいてください。今日は帰ります」

 上司は札を僕の方に戻そうとした手を止め、一度肯いた。

「ごめんなさいね。こんな風になるんなら誘うんじゃなかったわ。お釣りは明日返すから」

 それからまだこわばった表情をしている娘に優しい声で、

「ななちゃん、ごめんなさいね。お兄ちゃんにはもうこんなこと言わせないからね」

 それからまだ何か言い足そうとしたが、詰まったように黙り込み、僕にもう一度、ごめんなさいね、と言った。

 僕は娘の手を引いて店を出た。振り向くと僕らのいた喫煙席で、上司が煙草を手にぼんやりしているのが窓の外から見えた。

 僕はその夜、無表情なままの娘と風呂に入り、無表情なままの娘に腕枕をして寝かせつけた。娘は黙って暗闇を見つめていたが、ごそごそと布団からはい出ると、仏壇に向かい手を合わせて、布団に戻ってきた。

 ぎゅっと強く閉じた目尻から、ぽと、ぽと、と涙が落ちた。

 久しぶりに、ラジオのない夜だった。

 泣きながら娘が寝入ったあと、静かな居間で、僕は妻へ手紙を書いた。長い長い手紙だった。

 娘の現在の身長を書き、来年から保育園に行くことを書き、好きな絵本の題名を書き、新生児期に着ていた妻の手縫いのベビードレスは大事に取ってあることを書き、お絵かきで僕や妻の顔を描いたりできるようになったことを書き、ブロッコリーが苦手であることを書き、トキばあちゃんと昼食にギョウザをつくるのが好きなことを書き、ブランコに上手に乗れるようになったことを書き、三輪車は買ってやったのにあまり喜ばなかったことを書き、1歳の誕生日の様子、2歳の誕生日の様子を書き、日曜にはたまに図書館でおはなしを聞くことを書き、スーパーに行くと必ずペコちゃんの絵のついたお菓子を一個買うことを書き、おなかに少し湿疹があることを書き、粉薬が妙に好きであることを書き、ままごとでは必ず目玉焼きを作ることを書き、春が来て、夏が来て、秋になって、冬が来る、その時々の娘のうたう歌を書き、娘が妻を、母を求めていることを書き、君なしで僕はどう生きていけばいいのかわからない、と書いた。

 それから便せんを畳み、封筒に入れ、切手を貼った。

 分厚い封筒は、宛先を書かれず、テーブルの上にぽつん、と置かれた。

「……天国のラジオ局は、宛先はどこなんだろうな……」

 寝室に目をやると、細く開けたふすまの向こうから、娘の寝息が聞こえた。


 ⒍

 

<晴臣さん、わたし、お薬飲む。奈々美はミルクで育てる。もういいの>

 疲れた笑顔で可奈子が首を振る。不穏な空気に僕は怖くなる。

<本当にいいの? あんなに母乳育児にこだわってたのに>

<こだわってたのは育児書にその方がいい、って書いてあったからなの。もういいの。泣いてばっかりのお母さんじゃ奈々美が可哀想だものね>

 嘘だ嘘だ、嘘っぱちだ! 可奈子、処方された薬を一度に全部飲むなんて、馬鹿なことをするな!

 重たい息苦しい、胸がつぶれそうだ。

 僕を残して何処に行くんだ、行くな可奈子、一人で行くな!

<大丈夫よ、心配しないで>

 ……そこで目が覚めた。最後に、可奈子の笑顔が胸の中いっぱいに残った。自信に満ちた笑顔だった。

 ラジオのない日は一週間ほど続いた。

 僕はその間も会社に行き、上司と顔を合わせ、直接の謝罪の言葉も聞いた。あれほど頼りにしていた上司だが、今の僕にはその彼女の声が、ぼんやりと遠くから聞こえる気がしていた。

 毎日が鉢かぶりになったように、何も見えず、聞こえず、ぼんやりと世界は僕から遠ざかっていた。

 娘はときおり爪を噛むようになった。テレビを視ている時など、いつの間にか癖が出ている。

「なな、爪を噛んじゃだめでしょう」

「かんでないもん」

「噛んでたでしょう。ごまかしてもダメ」

「かんでないもん!」

「噛んでたでしょう! お父さんの言うこと聞きなさい!」

 僕があげた大きな声に驚いたのか、娘はびくっと身を縮めた。泣くのをこらえるような、こわばった顔をして僕を睨んでいる。

 僕らが睨み合ったそのとき、電話が鳴った。

「なな、電話だからテレビを消して。それから爪を噛んじゃダメだ」

 受話器を取った。ななはこらえた顔をしているが、もう涙が落ち始めている。黙って僕を睨んだまま。

「……はい、そうです、僕ですが……は? 本当ですか? ……いえ、それは、はい……いいんですか。お願いできますか? はい、はい……そうですね、その方が…ええ、はい。お願いします。……いえ、ありがとうございます! はい……いえ、本当にありがとうございました」

 僕は娘を振り返った。娘は顔をくしゃくしゃにして声をあげまいとこらえていたが、涙が次々に溢れてきていた。

「なな、ごめん。お父さんが悪かったよ、大きな声出したからびっくりしたね。……悪かった。もう泣かないでくれ。ごめんよ」

 すると、娘はしゃくり上げるように息を一つ吐き、わあーと大きな声で泣き出した。

 僕は黙って娘を抱き、背をさすっていた。泣き声は、娘の小さな体から、わき上がるように長く、長く続いた。

「えっえっ、おっ、おとう、しゃん、おこらない、で。なな、わるいことして、ないよう」

「うん、うん。今のはお父さんがやりすぎたんだ。ななは爪を噛み過ぎちゃうから、指が痛くならないか心配なんだお父さんは。だから、噛みすぎないでね、痛くなるからね」

「うううう」

 娘は声が出ず、抱かれたままうなずいた。

 娘が少し落ち着くのを待って、僕は言った。

「ね、なな聞いて。今の電話ね、天国のラジオ局からだったんだよ。今夜ね、お母さんからのお手紙を放送してくれるって、ななにもわかるように、日本語で」

 娘ははっとして明るい表情になった。目も鼻も赤いが、瞳が輝いた。

「おかあさんがしゃべるの?」

「いや、アナウンサーのひとがお母さんの代わりに読んでくれるんだ」

「今日の夜?」

「そう、今日の夜。寝る前にラジオを聴こう」

 

 ⒎


 夜、僕は久しぶりにラジオをつけた。いつもの外国語放送ではなく、日本の短波放送局にチューニングをあわせた。

「日本語だ!」

「今日はね、ななにもわかるように、日本語で放送してくれてるんだよ」

 ラジオからは音楽が流れ、女性アナウンサーが季節の話題や、天気のことなどを喋っていた。

『ここで、お便りを紹介します。ラジオネーム、ななちゃんのお母さん、から』

 僕も娘も息をのんだ。

『ななちゃん、元気でいますか。お母さんは今、とても遠い国に住んでいます。ななちゃんや、お父さんと離れて暮らすのはとても寂しいけれど、お母さんはななちゃんのことをいつも気にしているし、お父さんからも時々ななちゃんの様子を教えてもらっていますよ。お母さんはななちゃんと会えないけれど、それを悲しいと思わないでね。ななちゃんのことがよく分かるように気持ちはいつも傍にいます。だって、お母さんは、ななちゃんのお母さんだからね。お父さんと力を合わせて毎日を過ごしてください。元気で大きくなってね。お母さんはいつも見守っています』

 ラジオはそれからまた話題を変え、クラシック音楽を流し始めた。僕はラジオの電源を切った。

 ななはひとつ息をついて、うわあーい! と大きな声を上げた。

「どうだった?」

「おかあしゃんからななへのお手紙だった! てんごくのラジオが読んでくれた!」


 そして僕は思った。

 ああそうだ。僕は娘が成長して、母親の幻影を必要としなくなるまで、世界一の詐欺師にならなくてはいけない。そのために精一杯のことをしよう。なんだっていい、どんなことだっていい、僕のできることを一つずつ。

 ななが聞いた。

「ねえ、おかあさんのいるとこって、遠いんだね」

 僕が答えた。

「そうだね、遠いって言ってたね。お父さんもよく知らないところなんだ、遠すぎて」

 ななが暗闇の中で、僕を見た。

「お父さんも行ったことないの?」

 僕がまた答えた。

「遠いんだ。目に見えないくらい遠いんだ、そこは。でもね、その国に行くと、人はみんな優しい気持ちになって、大切な人を見守ることができるんだ。どこにいても、大切な人のことが見えるんだ。ななのお母さんもいつも傍に居てくれるし見守っててくれる。お母さんはいつも一緒だ。お父さんとお母さんとななの3人は ずーっと家族で親子なんだからね」

 見ると、ななはいつの間にか、眠っていた。

 ……加奈子、僕も眠っていいか……。

 

<了>


初稿は2005年で、当時開催されていた「うおのめ文学賞」というweb文学賞に別名義で投稿した作品です。


読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とてもやさしいお話でした。なんとなく、個人的な感情に刺さって眠る前なのに鼻が詰まってしまいました。 少しだけ家族のことを思い出せました。 ありがとうございます。 [一言] おやすみなさい。…
[良い点] 全体に一貫して流れている喪失感と後悔の念のお陰で、感情移入しやすくて読みやすかったです。 [一言] たまたま流れてきたツイートから見ました。 運良く触れられてよかったです。
[良い点] 読みやすく、また感情移入がしやすい書き方でした。特に妻への手紙を書いている主人公の感情が、まるでポタポタと、紙にゆっくりと染み込ませているような、そんな気がしました。 妻との思い出やトラウ…
2018/04/07 10:16 もんきーさん
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