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ラ・バンバ

 黄金の魂をもつ四人の男が四人の妖女と出会った時、世界のバランス感覚がまた狂った。

 狂い加減は見るひとによってまちまちではあったが(あるひとは誤差の範囲だと主張して、あるひとは最早取り返しはつくまいという)なにかが変わったのは確かのようだ。おや、いわれてみれば、夢でみた森が跡形もなく消え去って、おだやかな小川きらめく素敵な野原に変わっているではないか! 太陽は元気いっぱい、今日をもって春とする、そんな御触れが出されたのだ。途端に生命が爆発し、小鳥のさえずりとモンシロチョウ、ミツバチにハナムグリ、ナズナにハコベ、タンポポ菜の花オオイヌノフグリ、侵略的なナガミヒナゲシ、そこかしこにノジスミレ、ひとびとは眠たげな目をしばたいてううんと伸びをした。


 春の陽光の中、テルク、アグラ、ペイシ、モルペーの四人の妖女からなるガール・グループ、シーレーネスの歌が吹き込まれた。歌自体はいつかどこかで聴いたことのあるような、ありきたりの代物だったが、桁違いの歌い手がありきたりを遥か彼方に置き去りにした。磨耗し、陳腐化していたそれは研ぎすまされ、原初の輝きを取り戻したのだ。

「超弩級だよ! 超弩級だよ!」

 有機コンピューター、アポルロンの有機的な声が響いた。こいつに歌を聴かせれば、その歌の真価がたちどころにわかる。ぱっとしないレーベルだったブルームーン・レコードが、ここ最近大躍進を遂げている秘密はアポルロンにあったのだ。しかしなんとまあ、超弩級とは驚きである。ブルームーン・レコードの創設者にして、アポルロンの開発者である岡田フィサムは、古今東西のポップスをかたっぱしからアポルロンに聴かせた自身の記憶を辿ってみたが、アポルロンが超弩級と評したのは、メンフィスのドーナッツ好きのトラック運転手が歌った「マイ・ハピネス」だけだった。マイ・ハピネスを歌ったトラック運転手のその後を考えると、シーレーネスの持つ無限の可能性には心踊らずにいられない。岡田フィサムは、シーレーネスのエージェントと称する四人組をちらり見た。怪しげな輩が元気に跋扈する音楽業界ではあるが、ここまで怪しいやつらはそうそういない。血と暴力、それに馬鹿騒ぎの臭いがこいつらからは隠しようもなく滲み出ている。ちらっと嫌な予感がしたが、こちとらとて海千山千のやり手でとおっている岡田フィサムだ。なあに、対処のしようなどいくらでもあるさ、あまりにも目に余るようなら、付き合いのある荒っぽい連中に頼んで始末してもらえばいい。岡田フィサムは決断した。あちこちに電話を掛けまくり、部下どもの尻を景気よく蹴っ飛ばした。

 シーレーネスの歌声が世界中にばら撒かれようとしていた。一大キャンペーンの投げ網が急ピッチで紡がれていた。プレス工場は不眠不休の蒸気機関と化していた。流通経路が無数の巨大なミミズとなりあちこちでのたくっていた。噂が噂を呼び、小売店は注文数をどしどし上乗せし始めた。どいつもこいつもなんだか浮き足立っていた。そわそわむず痒い衝動に突き動かされながら、どこを掻いていいのかわからず体をくねらせていた。

 初夏のある水曜日。ぐずついた天気が続いていたが、ひとびとはご機嫌だった。まだ冬の厳しい寒さが記憶に新しい。夜遅くまで半袖でうろつけるんだから、太陽がなかなか顔を見せないことくらいで不機嫌になるやつはどうかしている。

「おれは安い手にはそうそう乗らないぜ」そう主張する連中がいた。「本物にしか用はねえんだ。偽物はクソだ。二日酔いの朝にぶっ放された、悪臭芬々たるクソだ。この世は悪臭に満ちている。鼻が曲がって腐り落ちそうだぜ」連中はこんなふうに、年がら年中ぶうぶう不満を垂れていた。自分自身が放つ悪臭には無視を決め込みながら。

 連中は一筋縄ではいかないと思われていた。思われていたし、自分たち自身もそう思っていた。ヒットチャート、ランキング、ベストセラー、そんな類の言葉が大嫌いで、行列や人だかりを見かけると露骨に嫌な顔をした。連中の大好物は、身もふたもないもの、やり過ぎているもの、反抗的なもの。ゲバラ、ゴッホ、セリーヌ、などなど。

 人生は素敵なものだと思い込むことに血道を上げる連中がいた。その反対の連中もいた。風呂に入らない連中だっている。猫を殺す連中だっているし、赤ん坊にだって欲情してしまう連中もいる。まあ色んな連中がいるものだ。

 初夏のとある水曜日。シーレーネスの歌声が、連中の耳をぶっ刺した。連中は耳を疑った。とても疑い深い連中なのだ。いっぺんで夢中になった。恋に落ちた。そんな自分が信じられなかった。だって、ただの歌だぜ? 連中は間違っていた。こいつはただの歌ではないのだ。妖女の歌なのだ。

「超弩級だよ! 超弩級だよ!」

 有機コンピューター、アポルロンの有機的な声が響く。あれからずっと、アポルロンはこう叫び続けている。あれからずうっと、だ。アポルロンは狂ってしまったのか? いいや、そうじゃない。アポルロンはいたって正常だ。ただちょっとイラついているのかもしれない。アポルロンがいいたいのは、つまりはこういうことなのだ。

「超弩級の上って、なに?」

 妖女の歌声が、世の中を席巻した。ちょっとしたひねくれ者は一瞬で陥落した。筋金入りのひねくれ者でも歯が立たなかった。誰も彼もシーレーネスにはかなわなかった。努力賞すらもらえなかった。世界のたがが外れ、シーレーネス以外の歌声は一掃された。アポルロン自らの手によって、アポルロンの電源がそっと落とされた。彼、あるいは彼女、もしくはそれ、は疲れてしまったのだ。いつまでも叫び続けるわけにもいかないだろう。わかってやってくれ。彼、あるいは彼女、もしくはそれ、なりによくよく考えての行動だったのだから。


「十四ではじめて女を抱いた」メイヘム・ダッヂが吐き捨てるようにいった。「身体じゅうにピアスの穴が空いていて、その合い間合い間に挑発的なタトゥーを彫りこんだ、めちゃ色っぽい女だったぜ。だが、どうってことなかったな。世界はなにも変わらなかったし、おれはおれのままだった」

「苦みに満ちた時代よ」ザ・ブリー・ブーンがため息混じりにいった。「しかしなぜだかひとはその時代を振り返ると、甘い香りしか思い出せんらしい。あれだけ鮮烈な苦みを忘れてしまえるとでもいうのか? ありえぬ話じゃ」

「十七ではじめてひとを刺した」心ここにあらずという風にメイヘム・ダッヂがいった。「おれが物心ついた時からおれの親父だと主張して譲らなかった男だった。おれはすこしも信じちゃいなかったがね。やつぁ最後の際まで主張を覆しやしなかった。根性だけはある野郎だったよ。だが、それもどうってことなかったぜ。なにもかも相変わらずだった、もちろんおれも」

 今度は誰もなにもいわなかった。あの口挟みの達人、ザ・ブリー・ブーンでさえもだ。だがなんだろう、奇妙な優しさが場に漂っていた。笑顔こそ見えなかったものの、なんだか空気が微笑んでいるようだった。

「……そして、いまやおれは大金持ちになった」メイヘム・ダッヂが静かに、だが格別の存在感をもっていった。

「どぶの底から抜け出したのさ。いまだかつて誰も経験したことないくらい、勢いよくな」ヘップキャット・ジョーがいった。

「はみだしものが掴み取った成功の美酒じゃ」ザ・ブリー・ブーンがいった。「とくと味わうがよい。なにしろこの美酒、汲めども汲めども尽きることがない」

 ザ・ブリー・ブーンのいうとおりだった。シーレーネスの歌声によって、莫大な富のシャワーが黄金の魂をもつ四人の男たちの頭上に降り注いだ。そして、それは日に日にかさを増しているのだ。こうしている今でも。いまや四人は自分たちがどれほどの金持ちなのかもわからなかった。目で追うには数字の桁が変わるスピードが速すぎた。彼らはとうに数字から置いてきぼりをくらっていたのだ。挽回するにはちと厳しい差がつき過ぎていた。

「あんたのその顔」ムスターシュ・モウが口を開いた。「むくれてふくれて、まるで不良少年だね。あたしにゃわかるよ。あんたが次になにをいうのかがさ」

「そう」メイヘム・ダッヂが苛立たしげにいった。「そのとおりだ。どうってことねえのさ。なにもかもがどうってことねえんだよ。むかつくぜ。こうして時間だけが過ぎてゆく。おれは大人になんかならなかった。ただ醜く年をくっただけだ。そいつはいい。おれは老いや死なんかこれっぽっちも怖くねえ。だがしかし、このどうってことねえって感じ、これだけは我慢ならねえな」

 シーレーネスは世界ツアー公演の真っ最中だった。ここ南の島に、ついにシーレーネスが乗り込んできたのだ。金持ちの中の金持ち、おけらになることなど想像したこともない生粋の金持ち専用のコンドミニアムの一室に、黄金の魂をもつ四人の男が、特に理由はないが久しぶりに勢ぞろいしていた。恐ろしいほどでかく分厚い窓からは、魅惑的に輝くエメラルドグリーンの海が臨める。中庭には無理やり発情させられたクジャクが多数放たれ、素っ頓狂な声をあげたり例の羽を広げたりしていた。そのほかいろいろ金持ち気分を煽ってくれる心配りがごまんとあるが、黄金の魂をもつ男たちはそれらに目もくれやしない。火をつけたくなってしまうに違いないから。

 一方そのころ、岡田フィサムの元に四人が勢ぞろいしたとの一報が届いた。岡田フィサムはこの時を待っていた。なにしろ四人は目の上のたんこぶだった。金の面でもそう、仕事の面でもそう。なにより岡田フィサムはシーレーネスともっとお近づきになりたかった。岡田フィサムも馬鹿ではない。それなりの勘を持ち合わせている男だ。シーレーネスにあまり近づき過ぎれば、火傷では済まされないことはなんとなしに感づいていた。だが。意味ありげにシャンパングラスを合わせるくらいのことはあったっていいじゃないか。いっとき見つめあうくらいは許されたっていいじゃないか。そんなささやかな望みは連中にことごとく突っぱねられた。シーレーネスのエージェントと称する四人組に。

「時はきた」岡田フィサムはひとりごちた。「一網打尽にしてやる。絶対にこの機会を逃がすものか。だがやつら、案外はしこい連中だ。念には念を入れないとな」

 そして岡田フィサムはそのとおりにやってのけた。念入りかつ迅速に準備を整えた。こりゃちょっとやりすぎじゃないか? いいや、やっぱり岡田フィサムはなかなかに勘が鋭い。あの四人がそんじょそこらのちんぴらではないことをしっかり嗅ぎとっていた。大袈裟なくらい火力を投入したってお釣りがくるかどうか。このあたり、ちゃんとシビアな目で見ることができる男なのだ。なんてったってブルームーングループの総帥なんだから。用意は万端……か? まあいい。選り抜きの荒くれ者たちを従えて、岡田フィサムは出陣した。その表情は柔和そのもの、まるで姪っ子のバレエの発表会に向かうかの如くであったという。


 アホみたいに分厚い窓のせいで、波の音も聞こえやしない……。綺麗な海がこんな近くにあるのに、もったいないとは思わないか? だが認めよう。波の音をありがたがるのも最初のうちだけだ。そりゃまあ、詩人とか絵描きみたいに、いっつもそんなことばっかり気にしている連中もいるが、ここだけの話、やつらは少し頭のネジがゆるんでいるのだ。

 で、部屋のドアがノックされた。慎ましいが、聞き逃すことは決してない、たいへん印象に残るノックだ。それもそのはず、ノックの主の岡田フィサムはこのノックにありったけの殺意を込めた。もう殺しは始まっていたのだ。

「誰だ!」メイヘム・ダッヂが叫んだ。

「おれだよ、岡田だよ。皆に話があるんだ、入れてくれ」

「妙じゃの」ザ・ブリー・ブーンが眉をひそめた。「ここにおれたちがいることをなぜやつが知っている?」

「入れよ!」メイヘム・ダッヂが叫んだ。心なしか表情に張りが出ているようだ。

「岡田の野郎」ヘップキャット・ジョーが葉巻の煙を吐きながらいった。「碌でもないこと企んでやがるな」

「やつになにができる?」ムスターシュ・モウがせせら笑った。「妖女の太ももを眺めてもじもじしているだけの男にさ」

「入れったら!」メイヘム・ダッヂがまた叫んだ。

「まず鍵を開けてくれよ」ドアの向こうで声がした。

「それくらい、てめえでなんとかしろや!」メイヘム・ダッヂが叫ぶ叫ぶ。

 四人は手を叩き、口笛を吹いて囃し立てた。なんだかとっても楽しそう。

「まったく最後までこけにしてくれるぜ」

 岡田フィサムがそういうが早いか、ブンブンブーン! チェーンソーの起動音が不吉な音をたてた。

「おやまあ」ヘップキャット・ジョーが呆気にとられたようにいった。「やっこさん、どうやら本気らしいぜ」

「酒がいるの」ザ・ブリー・ブーンが立ち上がり、キッチンに向かった。「こんな時は慌てず騒がず、まず酒じゃ」

 ポンポンポーン、チェーンソーがドアを断ち切る恐ろしい音に負けずに、景気よく酒の栓が抜かれた。どれもこれも一級品。こんなに乱暴に扱われるいわれのない酒ばかりだが、黄金の魂をもつ四人の男たちは豪奢に野蛮にらっぱ飲みだ。こんなにうまそうに酒を飲む男たちがかつて存在しただろうか? そして歌うのだ。妖女の歌声とは比べものにならないが、野性味たっぷりの荒削りな歌を。決して売り物にはならないが、魂が震えるほど下品な歌を。

 四人が空になった酒瓶を壁に叩きつけると同時にチェーンソーの音が止んだ。だがまだドアは健在だ。なんて強情なドアだろう。だが……ズガーン! 爆発音とともに、ドアが吹っ飛んだ。さすがのドアもこいつには耐えられなかったようだ。ちょっと意固地になりすぎたかな。

 どやどやどやっと短機関銃を手に荒くれ男たちがなだれこみ、黄金の魂をもつ四人の悪党はたちまちのうちに包囲された。

「さて諸君」岡田フィサムが得意げにいった。「ごきげんはいかがかな?」

「最高だぜ」メイヘム・ダッヂもなぜか得意げにいった。「岡田の方はどうだい?」

「見てのとおりよ。おまえらはもうおしまいだ。後のことは心配するな。シーレーネスはおれがきっちり面倒みるさ」

「そりゃ無理だぜ」とメイヘム・ダッヂ。「おまえにゃ黄金の魂の待ち合わせがないからな。妖女たちは、精々がニッケルの魂の持ち主であるおまえのいうことなんて聞きゃしないよ」

「はん、なにを馬鹿なことを」岡田フィサムはあざ笑った。と思うと、みるみるうちに表情が曇りだした。「……といいたいところだが、なぜだろうな、おれにはおまえの話していることが本当だとわかってしまうんだ、メイヘム・ダッヂ。まったく腹立たしいことだがな。まあいい、人生うまいことばかりでもないってことよ」

「その意気」ムスターシュ・モウが喜んだ。「やるじゃないか、岡田。そういうへこたれない感じ、あたしはいいと思うね」

「うむ」ザ・ブリー・ブーンが深く肯いた。「その感情の切り替え、たやすいことではないぞ。いい日もあれば、わるい日もある。結局のところ、その最終決定は己にあるということよ。見違えたな、岡田」

「で?」ヘップキャット・ジョーが焦れったそうにいった。「連中が構えているのは、水鉄砲か? 撃つのか撃たないのか、そこんところはっきりさせようぜ」

「無論、撃つ。だがちょっと名残惜しいな。おまえらは史上最低のゴミクソ野郎どもだったが、いいところもあったよ、多分な。ああ、わかってる、わかってる。よくないよな、こういうのさ。やるなら早くやれって、その気持ち、すごくよくわかるぜ。でも、うう、なんだか切ないぜ、おまえらがいなくなるのはさ……オーケーオーケー、そんな怖い顔するなって。よし、これだけは聞いておこう、最期にいい残すことはあるかい?」

「ねえよ」

「ない」

「ないね」

「なし」

「そうかい……ぶち殺せ!」

 岡田フィサムの号令とともに、凄まじい銃声。マズルフラッシュ。火薬の匂い。硝煙。そして、静寂……。



 黄金の魂をもつ四人は死んじまったかって? いや、生きている。生きてはいるが、だいぶくらった。メイヘム・ダッヂなんて片方の目玉がぶら下がっているし、ヘップキャット・ジョーは右手が吹き飛んでしまった。ムスターシュ・モウは髭以外は血みどろ(どうやったかは知らないが髭は死守したようだ)で、ザ・ブリー・ブーンは(わざとらしく)びっこをひいている。

 岡田フィサムとその手下たちは残らず死んだ。さすがに相手が悪かったようだ。おや、よく見りゃ手下どもの中には見知った顔が。バレルハウス・ケロッグにジャンクヤード・マッシー、ガソリンタンク・トーミー、ハイドロジャッキ・ゲイジもいる。みんな死んだ。くせは強いが、なんとも気持ちのいいやつらだった。

「おれは決めたぞ」ザ・ブリー・ブーンが喘ぎ喘ぎいった。「これより妖女を抱きにゆく。止めても無駄じゃ。もはやこの命、長くはもつまい。どうせ死ぬのならば、本懐を遂げて散ろう」

「止めやしないよ」ムスターシュ・モウが血を吐きながらいった。「あたしだってそうしようと思っていたところさ。こちとらこのとおり、すでに身体中から血を噴き出しちまってるんだ。言い伝えどおりじゃないか、ええ?」

「そうと決まれば」ヘップキャット・ジョーが痛みに耐えながらいった。「妖女の部屋まで競走だ。負けやしないぜ。ガキのころから韋駄天でとおったヘップキャット・ジョー。いの一番に妖女にむしゃぶりついてやる。おれのテクで妖女をめろめろにとろけさしてやるぜ」

「おれはいかねえ」メイヘム・ダッヂが目玉を揺らしていった。「もうちょい粘るぜ。死ぬことなんて怖かねえが、まだ死ぬ気がしねえ」

 皆の目がメイヘム・ダッヂに集まる。だがその視線は非難の色を帯びているわけでも、驚きに満ちているわけでもなかった。

「肝胆相照らす」とザ・ブリー・ブーン。「友のメイヘム・ダッヂよ。しばしの別れじゃ。地獄で待つぞ」

「ここに火をつけるぜ」メイヘム・ダッヂがいった。「死ぬなら炎がまわる前に死にな。焼け死ぬってのはちと辛そうだ」


 当然のことながら、この一件は世界中に大騒ぎをもたらした。なにしろ人気絶頂のシーレーネスの滞在するコンドミニアムが炎上したのだ。テルク、アグラ、ペイシ、モルペー、ただの一人も遺体が発見されなかったことや、シーレーネスと行動を共にしていた謎の四人の男たちのこと、銃声や破壊的な音がしたなどの数々の証言が騒ぎを加速させた。あらゆるアプローチで捜査や報道がなされたが、真実に近づいたものは誰もいなかった。後追い自殺や追悼盤の発売(現状行方不明であるにも関わらずだ)、相次ぐ目撃情報、自称事情通によるリーク、陰謀説の流布、ひととおりの馬鹿騒ぎを飽きるまで繰り返し、やがて騒動も立ち消えとなり、シーレーネスは過去のものとなった。

 そして時間は流れる。世界は進む。そうだ。しかし時によると後ろ向きに。


 夜が暗さの絶頂に達した時、ひそやかな足どりでひとりの隻眼の男が現れた。男は老いて、小柄で痩せぎすではあったが、目つきはいやに鋭く身体も筋金入りだった。男の向かう先はヘル・ボッパー。地元の連中なら決して寄りつかない悪徳の吹き溜まり、悪魔が嗤う黒い血の流れる台所、恨みや呪いを体中に張り付けたやつらの社交場、悪名轟く魔窟、そう、あのヘル・ボッパーだ。なに? ヘル・ボッパーは燃えたはずだって? あんた一体いつの話をしてるんだい?

 男は……ああ、そうだ。そのとおりだ。こんな見え透いた茶番はやめにしよう。男の名はもちろん、メイヘム・ダッヂだ。当たり前だろう?

 さて、これからメイヘム・ダッヂはヘル・ボッパーに向かうわけだが、この男のことだ。またぞろ血生ぐさい騒ぎを起こすのだろう。愉快に不愉快なことが続くにちがいない。だがそれをここで語るのはやめておこう。その手の話はここいらじゃありふれたものだから。だからとりあえず、今はやつの背中を黙って見送ってやろうじゃないか。

 そのまま……メイヘム・ダッヂは闇の中に消えていった。耳を澄ましていてごらん。もうすぐ悲鳴が聞こえてくるだろうから。……ほら、ね?

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[良い点] ・・・阿部様。 先日は、貴重なご意見をありがとうございました。 なかなかああして、ズバッと本音を書いてくださる方も少ない世の中ですから、 はじめこそ驚きましたが、非常に感服いたしまし…
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