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サウダージ

 妖女たちの美しさ、妖しさをきみにどう伝えたらいいのだろう。妖女たちはとてつもなく美しく、途方もなく妖しい。それはそのとおりだ。だが少しシンプルすぎやしないか。もっとごてごてと、過剰なくらい言葉で飾りつけしたって嘘にはなるまい。

 とはいっても、言葉が見つからないのも事実だ。きみはただひたすら美しく妖しいものを、美しく妖しい以外の言葉で表現しようと思うだろうか? 言葉を重ねれば重ねるほど、伝えたいものから遠ざかってゆくリスクを冒してまで? それでもやらなければいけないというのであれば、やってみよう。気は進まないがやってみよう。本当はこんな野暮なことはやりたくないのだ。なにも伝わらない確信があるし、どこに連れてゆかれるのかわからない不安もある。妖女とはそれくらい手強い相手なのだ。だが、やろう! すこし長くなるかもしれないが、心配はいらない。きみはただ読むだけだ。時間は永遠にある。永遠の中の一瞬、こいつを読むだけでいいし、途中で、アホくさ、と呟いて読むことをやめたっていい。さあ、休まず先を読み進めたまえ。


 ああ、妖女は淫靡だ。真夏の深夜、薄着の少女たちによる、制汗剤の匂いたちこめる、初々しくも罪深い淫靡さよりもさらに淫靡だ。ああ、妖女は妖艶だ。全身これ海綿体と化した少年を誘惑する、妙齢の人妻の毒々しい視線の妖艶さよりもさらに妖艶だ。ああ、妖女は清純だ。綿毛舞う春の野原で、兄弟たちと取っ組み合う仔猫たちの眩しいほどの悦びの清純さよりもさらに清純だ。五月の昼さがりに聞こえてくるカッコウの啼き声よりも素朴で、唐突に部屋に迷いこんできたオオスズメバチよりも恐怖に満ちている。伝説の剣に見立てたハルニレの枝を装備した少年が見つけた、クヌギに佇むコッパーの輝きを帯びたカブトムシよりも興奮をそそり、長期休み明けに突如として現れた都会からの転校生の、陽の光を浴びて柔らかな風にそよぐさらさらの髪よりもさらに憧憬を呼び起こす。

 妖女たちのシルエットは、思わず指を滑らせて舌を這わせたいほどになめらかな曲線で成り立っており、骨ばったところなどただのひとつもありはしない。稠密できめ細かな肌は、凍える寒さの中でも温もりを絶やさぬだろうし、灼熱の暑さの中にあってはひんやりと心地よい涼を感じるだろう。きみがいくら生粋の捻くれものなのだとしたって、どんなに細部に目を凝らしてみたって、粗を見つけようとするのは早々に諦めることをお勧めしたい。爪やまつ毛、脇の下、果ては尻穴にいたるまで、人工的な処理は一切されていないに関わらず、設計図でもあるかのように完璧な意匠を見せつけ、きみを圧倒する。彼女たちの凄みに気圧されないものがいるのなら、ぜひともお目にかかりたいものだ。それにしても、あの瞳といったらどうだろう? きみはあの瞳をまっすぐ見つめる勇気がおありだろうか? 透きとおった底なし沼のようなあの瞳に奥深く分け入ってゆく勇気が? 先にいっておくが、妖女の瞳は一方通行だ。呑み込まれたが最後、同じところに戻ってくるなど望むべくもない。こうもいっておこう、きみはきみでいられなくなる。そしてそれは、多くの場合……いや、生ぬるいことをいうのはやめておこう、かなりの確率で……確率? これを確率と呼ぶのか? 確実に、そう確実に、悲劇に終わる。

 もちろんそれは興味深い冒険に違いない。そして、きみほどの冒険好きは、そうそういやしない。そうだろう? 冒険好きのきみにこんなことをいっても無駄かもしれないが、きみはよくよく気をつけるべきだ。いくら気をつけても危険から逃れることは決して出来ない冒険であるとはいえ、それでもきみは細心の注意を払ってこの冒険に乗り出さなければいけない。どうせ自分を見失うにせよ、少しでも先延ばしにできるのであれば、それに越したことはないはずだ。

 さて、きみは正気と狂気の淵に立たされる。いきなりか? いきなりだ。この冒険のスタート地点がそこなのだ。一歩踏み外せば、たちまち奈落の底へと堕ちていくその場所で、きみは無理矢理ジグを踊らされる。泣き叫んだって無駄なことは、承知しているはずだ。張り裂けんばかりに心臓は波打ち、感情の針は恐怖と恍惚の極北を揺れ動き、苦痛と快感の津波が一気に押し寄せ、きみはもう二度と安定できなくなるだろう。悦楽と充足と不安と嫉妬と焦燥の渦にいとも簡単に絡め取られて、二度と浮上することはできないだろう。だけどいいこともあるんだよ。きみはようやく虚無から解放されるのだ。きみの中にいつの間にか根深く巣食っていた、あの恐ろしい虚無から。聴こえるだろう、あれが妖女の歌声だよ。あの歌声が虚無を吹き飛ばしてかき消してくれる。あれが妖女の歌声なんだよ。きみは全身が耳となり、きみの内臓は蝸牛の渦を巻く。電気信号が飛び交い、妄想が猛威を振るう。きみ自身が架空の存在であるという空想が待ったをかける。待てよ、あるいはそれも……ありえない話ではないぞ。もしかして……? ありえない話などありえないのではないか? ああ、ああ。そんなありきたりのこと考えてちゃ駄目だって。一方そのころ、内なる爆発音とともに、きみの精神は撹拌された。ありとあらゆる記憶は乱暴に放り投げられ、好ましいものも好ましからざるものも不要だと判断されて容赦なく忘却の彼方になげうたれた。中にはとっておきのものもあっただろうに、もったいないね。まあ、後生大事にしまいこんでいたきみが悪いんだけど。果てしない渦を巻きながら、きみは吸い寄せられてゆく。あの歌を発する妖女の唇へと。抗うことなどできやしないし、抗うつもりなんて毛の先ほどもないだろう? 渦だよ。永遠に続く渦。永遠に続くジグ。永遠に続くきみの人生最良最悪の瞬間。こいつは最高に気持ちいい拷問だ。さあ、涙を流し、よだれを垂らすがよい。胃の中のもの、腸にこびりついた糞、膀胱の中で揺れる尿、全てを吐き出してしまえよ。まるで噴水だ。不躾で不潔で不様な噴水だ。まったくけしからんね。なんてざまだろう。さあさあ、ぐずぐずするなよ、そろそろきみは一歩を踏み出さなければならない。いつまでもここにいたって仕方がないだろう。きみはなけなしの勇気を振り絞って、その一歩を踏み出した。でも悲しいかな、それは勇気でもなんでもなかった。それはただの現象だった。だから渦なんだったら。終着点のない渦、凄まじいスピードで渦巻くその先端が、きみの耳の中、蝸牛を突き刺し、電気を帯びて青白く光る暴れ牛に変身させる。そいつがきみの脳みその中で縦横無尽に走りまわるのだからたまらない。目から火花が飛び出て、腰が抜けそうになるけど、きみのへっぴり腰なんてはなから使いものになってなかったし、だから気にするなよ、そんなこと。ほら、またスピードが一段階あがった。細胞のひとつひとつがハイになって、それぞれが自己主張を始めちまった。きみの統治は終わったのさ。なんて乱暴なやつら。想像したこともなかっただろう、きみがなにを支配していたのか。支配していたつもりになっていたのか。連中、忠誠を誓っているフリして、こんなチャンスを虎視眈々と狙っていたんだ。だが悲嘆に暮れることなどなにもない。きみを縛りつけていた鎖は、いまやもう跡形もなく消滅した。せっかくの機会なんだから、きみも一緒にはしゃいでくればいいじゃないか。清流のせせらぎにも似たこの音の中で、不協和音ぎりぎりの複雑なメロディの織りなす奔流の中で、無数の乾いた骨を打ち鳴らすような原初のリズムの洪水の中で、きみは精いっぱい飛んだり跳ねたりすればいい。明日はきっと筋肉痛だが知ったことかよ。そもそもこの期に及んで明日なんて期待する方が間違いなんだから。そうこうしているうちに、きみはごく小さな点になったり、膨れあがった巨人になったり、それはもう大忙しだ。かすかにたゆたう記憶の残滓が、でたらめで途切れ途切れのフラッシュバック現象を頻発させる。こんな現実あったっけ? これって現実だったっけ? 現実ってなんだっけ? いま、ここの、これ、っていうかあれ、じゃなくてそれ、ってどれ?

 一旦落ち着こう。深呼吸をして、汗を拭こう。なにか異常はないか? 異常しかない、か。頭の中はどうだ? 正常に機能しているだろうか。正常ってわかるかな? 異常がわかるのなら、正常もわかるはずなんだが。それよりも、きみ。ひどい顔色じゃないか。まるでヒヤシンスだ。いや、花の方じゃなくて、球根の方だ。あのだらっと伸びた白い根なんか、きみにそっくりじゃないか。あいつをちゅうちゅう吸ってみたいって、きみ、馬鹿じゃないのか。だいたいきみはだらしないよ。きみの机の中ったら、いっつもぐちゃぐちゃでさ、お母さん恥ずかしくてたまらなかったわよ。きみは恥ずかしくないのか? なにも恥ずかしいことなどないさ! 滑稽でいいじゃないか。何度だって滑稽になればいい。滑稽に見られることをなによりも恐れる愚かな連中と同化しちゃ駄目だ。先生が怒っている……あんなに大きな人間が……怒り狂っている……。きみはなにか悪さをしたのか? 謝るべきじゃない。きみはなにも悪いことなどしていないのだから。そうだ、あんなの悪さのうちに入るもんかい。でも、先生のあの怒りようったら……。友だちを守ってやれ、いますぐに。結局きみは友だちに裏切られることになるけど、あのまま指を咥えて黙ってうつむいているよりよっぽどましだろうさ。くすくすとみんながわらう。あたたかくて、おだやかなそら、とんびがあんなにたかく、なんだかすこしほこりっぽい。ぼくはまたわすれた。せんせいはためいきをついた。いったよね? せんせいきのう、あれだけいったよね? どうして? どうして、わすれちゃうの? ねえ、どうして? どうしてだろう……どうしてぼくはわすれちゃったんだろう……。

 虚実入り交じった記憶の混濁の中……一瞬だけ、きみは妖女のことを忘れることができる。その一瞬がきみをどれだけめげさせたことか。きみはなにしろ記憶の大半を失っていたのだし、残った記憶ときみ自身を繋ぎとめていた蝶番すら破壊されてしまったのだ。自由気ままに振る舞う凶暴化した記憶たちの暴挙を、なだめることも諫めることもできぬまま、記憶のダムダム弾をもろにくらってしまったのだ。きみは思い知らされた。きみがどれだけちっぽけで、どれだけ無力だったのかを。知らず知らずのうちに、いっぱしでいる気になっていたきみの自信、そいつが砂上の楼閣であることをみごとに暴露されてしまった、他ならぬきみ自身の手によって。そんなに悲しい顔をするなよ。だってきみは最初っからそうだったじゃないか。昔っから今まで変わったふりは得意だったけど、芯から変わったことなどただの一度もなかったじゃないか。泣きまねが得意で、おしゃべりで、怒ったり喜んだり悲しんだり、ぜんぶ魂の外側の行為だったじゃないか。ああ、ひとつだけあったね。きみがかわいがっていた黒猫が死んだ時……あの時ばかりはきみは魂で哭いたんだったね。でもその記憶も、妖女の歌声にかき消されてしまったよ。きみはそれを失くしたことさえ気づかないんだね。もうきみがあの瞬間を思い出して、心が疼くことは二度とないんだ。やるせない思いにとらわれることは二度とないんだ。よかったね。おめでとう。

 おっと、ジグを止めるなよ。きみのジグは、なかなかどうして悪くない。妖女がきみを呼んでいるよ。もっとそばにおいでってさ。唇と唇が触れるか触れないか、ああ、妖女の吐息がきみのうぶ毛を揺らしているよ。まだ目を閉じないで。妖女の顔……どこか見覚えはないかい? きみの精神は、デジャヴの不意打ちをくらって吹っ飛んだ。まったく予想だにしていなかった方向からの強烈な一撃。きみが心密かに思慕していた乙女が目の前にいた。物心ついた時から夢に現れていた乙女、あるいは妖精、あるいは姫君、あるいは女神。そうだ、きみは彼女を知らない。だが憶えているのだ。だってずっと恋い焦がれていたんだもの。憧れの顕現を、きみはいま、その目で見てしまったのだ。きみは子供のように泣きじゃくり、妖女にその身を委ねようと思った。妖女は優しく、柔らかく、マシュマロのような奥深さできみを包み込んでくれる、きみはそう確信していた。にも関わらず、きみは躊躇した。二の足を踏んで、芯から絶句した。もし、拒絶されでもしたら……そんな想像が、きみを磔にした。なんて情けない顔をするんだきみってやつは。もしかしてそうじゃないかと思ってはいたが、やっぱりきみはいままで本当の恋をしたことがなかったんだ。ああ、恋! 叫んでごらん。恥ずかしいことなどひとつもありはしない。ああ、恋! ああ、恋よ! 苦しいだろう? 切ないだろう? 心が痛むだろう? でも不幸ではない、決して不幸せではない、そうだろう? きみの前には憧れの思い姫がいて、きみのために素敵な歌を聴かせてくれている。それが不幸というのなら、幸せなんて存在しないね。きみはたちまちのうちに恋に落ちた。獰猛な恋の蔦に指の先まで巻きつかれて、もう手遅れだ。恋に落ちるとひとは阿呆になる。この世界を転覆させかねないとんでもない阿呆になってしまう。きみはまったく阿呆づらしているよ。ニヒルなきみはもう存在しない。きみの目は軟焦点レンズになって、すべてが浮ついて熱っぽく映る。なにもかもが意味を持ち、きみを祝福している。きみは悦びに打ち震えながら、自分が地獄にいることをはっきりと自覚している。涙がほとばしり、歪み、ぼやける。きれぎれの呼吸、脳が揺れるようなめまい、中心からじんわり広がってゆくしびれ。気持ちいい苦痛。寂しくない孤独。冷たい温もり。真っ逆さまに昇ってゆく、どうにもならない幸せ。きみは跳ねかえるように……翔んだ。


 そしてキッス。歯が溶けるほど甘いキッス。舌がちぎれるほど激しいキッス。口蓋がただれるほど熱いキッス。血の匂いのするキッス。……匂いだけかい? まわりを見てごらんよ。といっても無理か。きみはキッスに熱中夢中。渦に巻き込まれて、ぷつん、と弾けた。ちっぽけな血だまりがぽつんとあるよね。あれがきみだよ。きみの海なんだよ。でも、そう捨てたもんでもないさ。だってちょっとだけ綺麗だもの。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 長文感想すみません。  第二話は、雰囲気的にゴッドファーザーと非常に似ている映画で、デニーロが主演の「グッドフェローズ」という映画があってそれを思い出しましたね。良いですね。夜の巷での…
2023/11/06 18:06 退会済み
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