カンドンベ
夢でみた森はこじんまりとした森だ。だが見た目によらず、底しれない奥深さがあった。見れない像、聞こえない音、嗅げない匂い、触れないもの、そんな怪しさに満ち満ちていたので、分別のついた大人は誰も足を踏み入れようとはしなかった。自殺志願者でさえおののいて他を当たった。山菜採りのおばあさんなら近くの穴場に向かった。ナチュラリストは見ないふりして通りすぎた。だが子どもたち、道路脇に放置された猫の礫死体を、飽きることなく日暮れまでじっと見つめているような子どもたちだけは、森の中で自由気ままに遊びまわった。どんな遊びをしていたかは、子どもたちだけの秘密。
こんな話もある。大抵の人間は子どものころ、夢でみた森の夢をみるという。大抵の場合、それは悪夢の形で現れるそうだ。血走った目をした狂犬の群れに追われる夢だったり(追いつかれたら最後、きっときみは引き裂かれちまう)ずだ袋を被って大鎌を振り回す怪人に襲われる夢だったり(ありふれたイメージだが、だからこそこいつは恐ろしい)。きっときみも、小さいころに夢でみた森を全力でつっ走ったことがあるはずだ。木の根っこに足がつっかえたり、とびだした木の枝に目玉をつっつかれないように気をつけながら。しかしまた大抵の人間は、大人になる過程のどこかで、そのことを忘れてしまう。おっと、だからといって記憶の底をほじくり返してはいけない。大人はあの恐怖には耐えられない。思い出した途端、ひきつけをおこして、きみはひっくり返ってしまうだろう。場合によっては、二度と目を覚ますことができないかもしれない。だから決して思い出そうとはしないことだ。大人しく今夜も、仕事に遅刻しそうな夢をみたり、難しい試験に頭を抱える夢をみたりするんだよ。いいね?
四人が夢でみた森に到着したのは、真夜中すぎだった。うっすらと霧が漂い、指で弾けば、ちん、と音が鳴りそうな冷気が四人の鼻孔をつらぬいた。天気のいい夜ではなかった。月も星々も、分厚い雲の向こうに隠れていた。にもかかわらず、光源不明の青白い光が、森をほのかに照らしていた。
「ゆこう」メイヘム・ダッヂが決意を固めたように呟いた。「妖女がお待ちかねだ」
四人が森に分け入った途端に、木々がざわめきはじめた。そこかしこで枝を踏み鳴らす音がした。ぐえーっとなにかが呻いた。さらに強度を増した冷気が四人の耳をちりちりと刺した。
「ぞっとしないね」ヘップキャット・ジョーが気持ち声を落としていった。「歓迎するならするでもっと朗らかに、お呼びでないならないでもっとど派手にやってもらいたいもんだぜ」
「しかし寒いぞ」震える声でムスターシュ・モウがいった。「温もりがほしくてたまらん。妖女をみつけたら、あたしは有無をいわさず抱きついちまおう」
「それだけでは済ますものか」ザ・ブリー・ブーンが鼻息荒くいった。「先程からずっと、おれの頭の中からぺろぺろ・スペシャルが離れてくれんのよ。おかげでたぎること、たぎること!」
「盛り上がっているところすまんが」メイヘム・ダッヂが足を止めた。「妖女とヨロシクやるのは御法度だぜ。言い伝えによると、妖女とおっぱじめたその瞬間、身体中から血が噴き出して、そいつはへにゃへにゃにしぼんじまって使いものにならなくなるそうだ。そんなわけだから、妖女には指一本触れねえことをおすすめするぜ」
「なんと!」ムスターシュ・モウが、そういって絶句した。
「あんまりではないか!」ザ・ブリー・ブーンが怒りと悔しさを滲ませた。「完璧な美しさをもつ妖女を前にして、なにもせずに指を咥えていろと、そういうのか! この燃えたぎるものに無理やり蓋をしろと、そういうのか、メイヘム・ダッヂよ! 吹きこぼれても知らんぞ!」
「あたしは信じないぞ! やらずぶったくりのたわけた言い伝えなんぞくそっくらえだ!」ムスターシュ・モウが悲痛な声を出した。
「おい、待て待て待て。おれたちは言い伝えを信じて、夢でみた森くんだりまで来たんだろ。いるかどうかもわからねえ妖女を捕まえによ。ならば、最後まで言い伝えを信じるのがスジだろう。おれはスジをとおすぜ。黄金の魂を維持するには、頑なにスジをとおすことこそが鍵だと、おれの勘がそう告げてんだ」
「静かにしろ」ヘップキャット・ジョーが三人を制していった。「なにか変な音がするぞ」
「耳がとれていたのか? この森に入ってからというもの、妙な音が途切れたことはないわ」ザ・ブリー・ブーンがせせら笑った。
「そうじゃない。こいつはもっとフィジカルな音だ。まるで木の幹に頭を思い切り叩きつけているような」
「いい加減に素面になれよ、ヘップキャット・ジョー」ムスターシュ・モウが諭すようにいった。「あたしたちはもうずいぶんの間(といっても半日ではあるが)酒もルーシーもやってないだろうに」
「おれは素面だよ、ムスターシュ・モウ。だが素面ってのはわびしいな。こんな世界じゃ頭ん中でいたずら小僧がぎゃあぎゃあ大騒ぎしてるくらいが丁度いい」
「ヘップキャット・ジョーはいい耳してるぜ」メイヘム・ダッヂがそういって、前方を指さした。
そうだ。ヘップキャット・ジョーはなにも間違っていなかった。メイヘム・ダッヂが指さした先には、ぼろをまとった女が、ねじくれた巨木にひたすら頭を打ちつけていたのだ。四人に背を向けて行為に勤しんでいたため顔はみえなかったが、ざんばら髪とだぶついた身体は男の期待をそそる魅力に欠けているようにみえた。
「あれが妖女でないことを祈るよ」メイヘム・ダッヂがつぶやいた。
「可能性は無限大じゃ。とはいえ、その線は外してもよかろう。妖女は男という男を狂わすというが、おれのみたところあの女の方が先に狂ってしまっておる」
「滅多なことをいうもんじゃないよ」ムスターシュ・モウが、ザ・ブリー・ブーンを咎めるようにいった。「事情も身の上もひとそれぞれさ。食事も喉を通らず、まんじりともできず、なんともかんともたまらず、狂態を演じる夜があったっていい。だがあたしは警官でもある。このあたりは管轄外ではあるけれど、あんな危険な行為を見逃すわけにはいかん。
おーい、そこの御婦人! そのへんでやめにしたらどうだね。あんまりやり過ぎると、脳みそがこぼれ落ちちまうぞ」
ムスターシュ・モウの呼びかけに、女は行為を止めることで応じた。なぜだろうか、その瞬間に森の中に響いていたあらゆる怪しげな音も鳴りやんだのだ。唐突に訪れたずっしりと重苦しい静寂に、四人は困惑した。女の背中がうつろにみえた。音もなく冷たい風が吹き、いやな臭いを連れてきた。しかし森はその風に無関心を貫き、枝を揺らすことすらしなかった。凍りついたように、全てが止まっていた。
「なぜかは知らんが緊張してきたぜ」
ヘップキャット・ジョーのその言葉がひとつの引き金だった。少なくとも、女は動きだした。ゆっくりと、スローモーションさながら、女が四人の方に顔を向けようとしていた。純粋な好奇心で、四人はそれを見守った。女の頭は無事なのか?
「あちゃあ」
メイヘム・ダッヂが思わず漏らした感動詞が、惨状を物語っていた。無事ではなかったのだ。女の額からばっくり裂け目が頭頂部まで続き、そこから血と脳みその混合物が赤黒い糸を引いて垂れ落ちていた。女の目も一同の目を惹くものだった。虹彩と白目の境目も曖昧なまま灰色に濁ったそれは、なかなかみかけることのない珍しさがあった。
そして女は、なにがおかしいのか、にたあ、と笑ったのだ。口は大きく開かれ、手入れのゆき届いていないとびとびの歯が、真っ暗闇の口腔に浮き上がった。
「自重せよ」ザ・ブリー・ブーンが憤慨した。「思い出し笑いは人を落ち着かぬ気分にさせる」
ザ・ブリー・ブーンの警告が届いたのか届かなかったのか、深手を負った獣の叫びに似た、胸を締めつけるようなけたたましい笑い声を女はあげ、そのまま頭を木の幹に打ちつける作業に戻った。
「どんなつらいことがあったにせよだ」ムスターシュ・モウが肩をすくめていった。「あたしは彼女がいつかそいつを乗り越えてくれることを願うよ。まあ、あの脳みそのこぼれようからしたら、つらい思い出が土のシミに変わるのもそう遠くない未来だとは思うが」
四人は深くため息をつき、女に思い思いの慰めの言葉を投げかけ、先を急いだ。
ずいぶんと歩いた。それぞれの細かい思惑は色々と多岐にわたったが、それが四人の共通の見解だった。だが森は代わり映えしなかった。歩けど歩けど、どこまでも森だった。
「なにかがおかしい」ヘップキャット・ジョーが喘ぎ喘ぎいった。「ここまで大層な深さの森にはみえなかったがな。ぺてんの臭いがぷんぷんするぜ。ムスターシュ・モウ、あんたぺてんの専門家だろう? ぜひあんたの見解をうかがいたいね」
「この件についちゃ、あたしの鼻はぴくりとも反応しないね。よってこいつはぺてん以外のなにか、もしくは想像を絶するような壮大なぺてんだといえる。どっちにしたってあたしの手には負えん代物だ」
「こんな時は地元の連中に聞くに限るぜ。土地勘のあるやつは、よそものには見えんものが見えるというからな」
「そんなやつがどこにいるんだ、メイヘム・ダッヂ。真夜中の森、ましてや決して評判がいいとはいえない、夢でみた森なんかにいる物好きがどこに?」ヘップキャット・ジョーが投げやりにいった。
「ほれ、あそこ」
メイヘム・ダッヂが差し示す方には、とりたてて注目に値するものはなかった。ただ木々が鬱蒼と生い茂るのみ。メイヘム・ダッヂ以外の三人は、首をひねって訝しんだ。
「よく見ろよ、あそこだよ」
三人はメイヘム・ダッヂの視線を追った。その目は木々を通り越して、暗闇の先、そのまた先、世界の果てのその向こうあたりを凝視していた。三人は顔を見合わせ、うなずき、メイヘム・ダッヂに倣ってそのあたりを見てみた。若干、眠たそうな顔をするのが重要であるらしかったので、それもとりいれ実践した。
「お、おお? あんなところに人間が? ふむ、ちょいと光ってちょいと透けてる、なんとも風変わりなやつだが、親切そうではあるな」一番はじめにコツを掴んだのはムスターシュ・モウだった。
「なあるほどね。一旦見つけてみれば一目瞭然ではあるが、さすがは地元民、うまく隠れやがるもんだ。この森の特性を知り尽くしてるんだな、まったく大したもんよ」程なくしてヘップキャット・ジョーもそれに続いた。
「むむむ……」ひとりザ・ブリー・ブーンだけが遅れて、藪睨みにうなっていたが、突然、天啓を得たように顔を輝かせて大声を張り上げた。「やや! 見えた見えたぞ! ほほう、これはこれは。まっこと奇妙奇天烈奇っ怪な御仁じゃ。腰から下がないわりに、しっかりと屹立しておる」
暗闇にひとりぼうっとたたずむ男、確かにその男の下半身はなかった。少なくとも、目には映らなかった。にもかかわらず、彼は直立不動の姿勢を崩さずにいる。ザ・ブリー・ブーンが困惑するのも無理からぬことだった。
「見上げたもんだぜ」メイヘム・ダッヂが感心していった。「両脚を失くしたってのに、ああやって立ってられるなんざ並の根性じゃねえな。仮におれが両脚失くしたら、がっくりきちまって立つどころじゃねえかもしらん。一寸先は闇というぜ。両手両脚、目玉に金玉、いつなにが失くなるかもわからん時代よ。やつのように涼しい顔でばりっとはきめられねえかもしれんが、なにを失くすにしても心意気はかくありてえもんだね」
「いわれてみれば」ザ・ブリー・ブーンが引きとった。「そのとおり。そいつを瞬時に見抜くおまえもまた大したものよな、メイヘム・ダッヂ。おれの目は節穴だったわ、称賛さるべき不屈の男に対して、奇妙奇天烈奇っ怪などとたわごとを、よく恥ずかしげもなくしゃあしゃあと歯垣から洩らしたものよ。かくなる上は、我が蒙昧なる頭蓋を地べたに擦りつけて、かの御仁に許しを乞うしかあるまい」
「まあまあ落ち着いて」ムスターシュ・モウがなだめるようにいう。「そこまで自分を卑下するほどのことではないだろう。両脚がないって特徴を、とりたてて目立たせない彼の立ち振舞い、そいつに目をつけるメイヘム・ダッヂの目端が利きすぎるのさ。彼にしたって両脚の件は触れられたくないかもしれんし、あたしたちもそのていでいった方が、彼の心に余計な波風を立たせなくて済むってもんじゃないか」
「つまるところ」ヘップキャット・ジョーが冷たくいい放った。「ザ・ブリー・ブーンは黙ってろってこった。ここは超一流のピンプであるおれに任せな。どんな頑なな女だって口八丁で夜の蝶に変えちまうおれだ。たとえ相手が男だろうと、妖女の居場所を尋ねるなんてわけないぜ」
「そうはいかんぞヘップキャット・ジョー!」先回りして、雲龍型にてせりあがりながら、眼光鋭く待ち伏せるザ・ブリー・ブーン。「妖女の居場所、おうなるほど本筋はそこにあるわ。だがな、男一匹ザ・ブリー・ブーン、手前の過ちをしっかりと自覚しておきながら、なかったことで素通りするほど心根は腐っておらんぜよ! 先ほど友のメイヘム・ダッヂがこういった、頑なにスジをとおすことこそが黄金の魂を維持する鍵だとな。その言葉、我が脳髄に電撃を見舞い、我が眼から鱗、滝のように流れ出でたり。然り、然り! おうさ、このスジ、きっちりとおさずいらりょうか! いな、断じていな! おれは貫きとおすぞ、一本のスジ! そいつを邪魔だてするものは、三途の渡し賃を用意しておけい! 我が友ヘップキャット・ジョー、貴様とて例外ではないわ!」
ザ・ブリー・ブーン、猛り、おらび、額に青筋浮き立つ憤怒の形相はヘクトール追いまわすアキレウスさながら。ヘップキャット・ジョーの人中に狙いを定め、かつて土俵上を血に染めあげた黄金のてっぽうを二度三度。まともに喰らえば、唇は破裂し、歯は砕け、舌を裂くこと必定の攻撃なればこそ、ヘップキャット・ジョーも反射神経研ぎ澄まし、すんでのところで身をかわす。
「血迷ったか、ザ・ブリー・ブーン!」
煌めくズートスーツの懐から、ヘップキャット・ジョーが取り出したのは、愛用のボウイナイフ。幅広の、やや流行遅れのデザインながら、禍々しく光る刃は、確かに強者の血の味を知っている、求めている。左右前後しなやかにステップを踏み、間合いをはかるヘップキャット・ジョー。どっしり腰を落とし、全身の筋肉を隆起させ、一撃のもと葬り去らんと待ち受けるザ・ブリー・ブーン。両者ともに歩み寄る気持ちなど毛頭なかった。長年の友情も、もはやこれまでと思われた。
そのときであった、乾いた銃声が、薄暗い森をつんざいたのは。いままさに組し合わんと殺気だっていた両者は、ともに虚をつかれ、拍子を抜かれた。
「くそくだらない仲間割れはいい加減にやめろ、さもないと」硝煙たなびく拳銃を構えたムスターシュ・モウ、こめかみをぴくぴく震わせながらいうには「有無をいわさず頭をぶち抜くぞ。あたしの射撃の腕は、あんたらふたりがよおく知っているはず。まずはおたがいあやまれ。あやまるんだよ!」
「わかった、わかったよ」とヘップキャット・ジョーがいう。「すまなかった、おれとおまえの仲だからこそ、おまえの気持ちに配慮した物言いを心がけるべきだった。勘弁してくれ、ザ・ブリー・ブーン」
「いや、おれのほうこそ」ザ・ブリー・ブーンが神妙な面持ちで。「我を忘れて、ほかならぬおまえに手を出してしまった。どうか許してくれ、ヘップキャット・ジョー。そして誓おう、もう二度と仲間には手を上げぬと」
それを聞いたムスターシュ・モウは満足げに深くうなずき、西部の荒くれもののような鮮やかな所作で、拳銃をホルスターに納めた。
「結構。まことに結構。これにて一件落着、おたがい含むところなく、きれいさっぱり水に流せたな。よろしい。まことに結構。では気を取り直して、やつから情報を引き出そう。この役は聞き込みの達人であるあたしが適任だと思うんだ……む、むむむむう?」
「やつぁ消えたぜ」あくびを嚙み殺しながらメイヘム・ダッヂ。「夏の思い出みたいに、すっと消えちまった。おれの思うところをいわせてもらえりゃ——」
「いやそれは考えすぎだぞ、友のメイヘム・ダッヂよ。彼はあれだ、ただただ人一倍奥ゆかしい御仁なだけよ」
「——ありゃあ、この世のもんじゃ——」
「先を急ぐぜ。うー、なんだかいっそう寒気が増してきやがった。こんなときは体を動かすに限る。走るぞ、ほれ、おいっちに、おいっちにぃ、なにをつっ立ってやがる、置いてゆくぞメイヘム・ダッヂ!」
かくしてなにも起こらなかった。気づけば、ちらほらと雪が降り出していた。四人は白い息を盛大に吐きつつ、やみくもに邁進した。しかし、いくら黄金の魂の持ち主といえども、無尽蔵の体力があるわけではない。疲労は限界を迎えつつあった。軽口飛び交っていた旅路も、ここにきて翼ある言葉はめっきり聞こえなくなり、無言の行進が続いた。いまだ真夜中。妖女の姿はみえず。それでも四人の気持ちは萎えちゃいなかった。黄金の魂の輝きは褪せちゃいなかった。確実に夜明けは近づいていたのだ。