マンボ
夜が暗さの絶頂に達した時、ひそやかな足どりでひとりの男が現れた。小柄で瘦せぎすではあったが、ごまかしのない筋の通った体つきは、男がどう猛な獣であることを証明していた。鋭く飢えた目は、満足というものを知らないらしく、そいつを求めてもいないようだった。
狼でさえ外出をためらう不吉な夜に、うろつくこいつは泥棒か? そうかもしれない。盗れるものがそこにあるならば、この男は根こそぎ盗ってゆくだろう。
梟でさえ遠慮がちに歌う険しい夜に、さまようこいつは殺し屋か? それもありうる。毛の先ほどの苛立ちを覚えれば、この男は刃物を出すことも厭わない。
男のゆく道の先に、地元の連中なら決して寄りつかない悪徳の吹き溜まり、悪魔が嗤う黒い血の流れる台所、恨みや呪いを体中に張り付けたやつらの社交場、悪名轟く魔窟、ヘル・ボッパーがある。男の両親、兄弟、親友、恩師、なんでもいい、誰か親しい者がここにいたならば、両足にすがってでも男を先には進ますまいとしただろうが、ただただ冷たい風が吹いていただけだったし、男の両手の指に刻まれた罰当たりな刺青が、そんなやつらは存在していない、するわけがない、ということを雄弁に物語っていた。
悪漢ひしめくヘル・ボッパーにも規律はある。明文化されているわけではないが、逆らう者を決して許しはしない、厳格な規律がある。規律は三人の男からなっていた。
鋭いラメ入りストライプが目にも眩しい、チェーンだらけのズートスーツに身を包んだ名うての女衒、増田“ヘップキャット”ジョー、ここいらで唯一の警官でありながら、天才的な詐欺師でもある横田“ムスターシュ”モウ、一撃で相撲協会を壊滅せしめた偉大なる横綱、雲をつく大男で喧嘩の達人の清田“ザ・ブリー”ブーン。
今夜も三人の規律は、ヘル・ボッパーの奥の奥のテーブル席で、静かにぜいたくな食事をとっていた。
「喧嘩か?」ほんの少し片眉を上げ、ヘップキャット・ジョーが退屈そうにいった。カウンター席の方ではどでかいネズミが暴れに暴れているような音がしていた。
「今夜は一層ど派手だな」自慢の髭に付着したグレイビーソースをナプキンで執拗に拭きとりながら、ムスターシュ・モウがいった。
「賭けてもいいが」ザ・ブリー・ブーンが歯をせせりながらいった。「この音の主は、なかなかの腕前だ。無駄がない、ためらいがない、なにより慈悲がない」
「おやまあ」ヘップキャット・ジョーが素っ頓狂な声をだした。「いまの悲鳴はピッチフォーク・バンじゃないか。やつをぶちのめすとは、こりゃ相当だぜ」
そう、石田“ピッチフォーク”バンは大した男だった。右腕の障害もなんのその、その凶暴さは隣町までも知れ渡っていた。いまそのピッチフォーク・バンが、首からドクドク血を流し口をパクパクさせていた。悔恨と懺悔の言葉を呟きながら、間もなく彼は死ぬだろう。だがなにも自らの人生が悪徳にまみれていたことを悔いていたわけではない。ピッチフォーク・バンはそんなにやわじゃない。彼が悔やんでいたのは、なぜ最初のパンチを避けきれなかったのかということ、彼が許しを乞うていたのは、相手が痩せっぽちのちびすけだとたかをくくっていた自らの傲慢であった。
「ピッチフォーク・バンがやられたとすると、次はあたしたちか?」ムスターシュ・モウがいたずらっ子の笑みを浮かべながらいった。実際、それはまったくの冗談だったのだ。
「まだまだ。フュリアス・ハマーがいる。ブッチャーナイフ・チャドがいる。ガットボーイ・サドルもいるし、ナックルヘッド・ソニーもいる。やつらが束になってかかれば、さしもの謎の暴れん坊とてひとたまりもあるまいて」ザ・ブリー・ブーンが愉快そうにいった。
「連中ならくたばったぜ」小柄で瘦せぎすの男が背後で応じた。いつの間にかここにたどり着いていたのだ。「おれがやった。やってやった。おっとまだ動くなよ旦那方、鼻の穴ひとつでも動かしてみな、目にもとまらぬ早業でぶすりといくぜ」
今夜のヘル・ボッパーは一軍メンバーフル出場というわけにはいかなかった。確かにピッチフォーク・バンはいた。浜田“フュリアス”ハマーも元気いっぱいだった。だが安田“ブッチャーナイフ”チャド、武田“ガットボーイ”サドル、本田“ナックルヘッド”ソニーらはしこたま酔っぱらっていて、本領を発揮できたかどうか疑わしい。そのうえ成田“バレルハウス”ケロッグは商売女の尻を追ったままどこかにいったっきりだったし、金田“ジャンクヤード”マッシー、金田“ガソリンタンク”トーミー、金田“ハイドロジャッキ”ゲイジのオイルステイン三兄弟はブタ箱に放り込まれたままだった(もちろん三兄弟をとっ捕まえたのは、ムスターシュ・モウである)。
そのあたりを差し引いたとしても、この目つきの鋭い小柄な男は大したことをやってのけた。この結果に不満があるやつは、どうかしている。当然、卑怯な手も使ったことだろう。あらかじめ要注意のやつの弱みを調べあげて、精神的に揺さぶりをかけたりしたかもしれない。もっともっとえげつない、言葉にすることもはばかられるような行為におよんだ可能性だって大いにありうる。だからどうした? ここはヘル・ボッパーだ。
ヘップキャット・ジョー、ムスターシュ・モウ、ザ・ブリー・ブーンの三人は身じろぎひとつしなかった。男に動くなと命じられていたからか? それもあるだろう。こいつはたいへん危険なやつだ。ぶすりといく、こいつがそういうのなら、ぶすりとくるのだろう。だがこの連中がそれだけの理由で、動けないとは到底思えない。それを証拠に三人の悪党は余裕しゃくしゃく、いまにも鼻歌まじりに足の爪でも切り出しそうな雰囲気をたたえていた。では、痩せぎすの男の方はその空気に呑まれていたのか? いやまったく。落ち着きはらって表情は穏やかそのもの、全身の力は抜けきっていて、緊張感のかけらもなかった。まるでガキのころから付き合いのある仲間たちとの年に一度の会合に、少々遅刻して参じたような趣きだった。
優雅な沈黙が続いていた。店内のスピーカーからはのんびりとした調べのカントリーソングが垂れ流されていた。アルコール中毒の中年男が、萎縮した脳みそをほじくり返して小ちゃなころに食べたアイスクリームの味を思い出す、そんな歌詞だ。
「で?」優雅な沈黙に優雅な穴を穿ったのは、ヘップキャット・ジョーだった。「おまえは一体なにものだ?」
「おれは山田ダチト——」
「ダメだ!」ムスターシュ・モウが吐き捨てるようにいった。「そんな名前じゃのれないよ。あんたは腕っこきのワルどもをなぎ倒してここにたどり着いた。その偉業は賞賛に値する。なんとなればヘル・ボッパーができて以来、そんなことをやってのけようと考えるやつすら皆無であったからだ。いいか? あんたはどてらい男であるはずだ。そんな野郎の名前が、山田ダチト? ありえないな!」
「ありえねえといわれてもな」山田ダチトが眉をひそめた。「おれは生まれてこのかたずっと山田ダチトで、それ以外のもんになったことがねえ」
「ならば生まれ変われ」ザ・ブリー・ブーンが厳かにいった。「混沌と混乱の混血児よ、たったいまから汝の名は、山田“メイヘム”ダッヂだ」
メイヘム・ダッヂはしばらく面食らっていたが、なにか美味いものでも食べたあとのように唇をなめてつぶやいた。「メイヘム・ダッヂ……よくわからんが、悪くねえ」
ピューウ。ヘップキャット・ジョーが長い口笛を吹いた。ムスターシュ・モウとメイヘム・ダッヂの間で固い握手が交換され、ザ・ブリー・ブーンはメイヘム・ダッヂの両肩に手をまわし、抱擁した。抱擁はとても力強く、長いものだった。ザ・ブリー・ブーンの怪力に関しては伝説めいた逸話が山ほどある。それこそヘラクレス、サムソンもかくやあらむと謳われるほどであった。そんな剛力で締めつけられたのだから、これはたまらない。たちまちのうちにメイヘム・ダッヂの身体はみしみしと悲鳴をあげた。
「ちくしょう、やられたぜ」息も絶え絶えに、歪んだ顔を紅潮させながらメイヘム・ダッヂが声を搾り出すようにいった。「おれとしたことが、気を抜いちまうとは情けねえ。あんたら三人がいかに一筋縄ではいかないか聞きおよんでいたにも関わらずよ。おっとどこでそいつを耳に挟んだかは聞いてくれるな。おれはスジだけはとおす男だ。てめえが助かるためにぺらぺらおしゃべりするくらいなら、このまま身体がばらばらになるまで締めつけられるほうを選ぶぜ。だが覚えておけ、そうなったとしても、おれは根性で身体を継ぎ接ぎして、あんたらに必ず復讐してやる。余ったおれの骨でナイフを作って、そいつでゆっくりと時間をかけて切り刻んでやるから、楽しみにしているんだな」
「おいおい、熱くなるなよ。こいつはザ・ブリー・ブーンの最上級の親愛の示し方なんだぜ」
ヘップキャット・ジョーのいうとおりだった。ザ・ブリー・ブーンはにっこり笑って締めつけをゆるめた。唐突に解放されたメイヘム・ダッヂは、たまらず崩れ落ちた。どうやら全身ががたついて自由がきかないようだ。そこにムスターシュ・モウの鋭い蹴りがとんだ。この蹴りがまたもの凄いやつで、まともにくらったメイヘム・ダッヂは吹き飛んで壁にしこたま叩きつけられた。
「熱く固い握手と、とてつもない蹴りの二段構えか」とめどなく流れる鼻血を乱暴に拭いながら、メイヘム・ダッヂがいった。「まったく油断も隙もねえな。だがこれしきでおれの心を萎えさせられると思うなよ。そこらのさんぴんやっこなら尻尾を巻いて逃げだすところだろうが、おれはこのとおりぴんぴんしてら。覚悟しておきな、いまの蹴りは高くつくぜ」
「だから熱くなるなと。こちとら好みのやりかたであんたに歓迎の意を表明しただけなんだから」
「なるほど大きにそうだろうよ。ならばおれなりの作法で貴様らに親愛の情を示したり、歓迎の意を表明したって文句はあるまいな」
「いや、それにはおよばんぞ」ザ・ブリー・ブーンが懐を探りながら、メイヘム・ダッヂを制した。「ここに取りだしたるは一枚の写真。まずは見てくれ。メイヘム・ダッヂよ、おまえの目にはどう映る?」
「醜く老いぼれたババアだ。性根が顔から滲みでているな。パズズみたいな顔してやがる」
「おまえ、なかなかさといな。人相学の心得でもあるのかね。そう、おまえのいうとおり、彼女は決して善の人でも徳の人でもなかった。今際の際まで強欲の風呂に首まで浸かり、まだ足りんまだまだ足りんと騒いどったわ」
「おい、いい加減にしておけよ!」メイヘム・ダッヂが叫んだ。「てめえらはおれをからかって痛めつけてそれでごきげんかもしれねえが、おれにとっちゃクソおもしろくねえ気分が天井しらずのうなぎのぼりよ! 百倍千倍にして返してやろうと気勢をあげても、ババアの写真でそいつをそがれる始末! おれはなんのために、ヘル・ボッパーにきた? なんのために、立ちふさがるクソ野郎どもの首にナイフを突き立てた? こんな悪ふざけのためじゃねえや!」
「悪ふざけだと?」ザ・ブリー・ブーンが気色ばんだ。「彼女をなんと心得る、彼女こそおれの最後の身内、おれの名付け親、おれが唯一殴れなかった女、悪魔のごときおれのおばあちゃんよ! おまえはおれのおばあちゃんを愚弄するのか? 昨夜遅くに息をひきとったおれのおばあちゃんを? おれはいまからおばあちゃんとの思い出ばなしをおまえにとくと聞かせようと思っていた。どれもこれも、ろくでもなく胸くその悪い、珠玉のごとき思い出ばなしばかりよ。それが悪ふざけとな? いきり立つおまえの心をなごませる、せめてものよすがになればとのおれの心づくし、そいつが踏みにじられた気分だ! おお、おばあちゃん、なぜ死んでしまった! あなたにとどめを刺すのはおれだと思っていたのに! 友よ、なにもいってくれるな、いまはただ泣かせてくれ! 我が涙の最後の一滴が流れ落ちるその時まで!」
ザ・ブリー・ブーンは泣いた。男泣きに泣いた。その場にいる誰もが、思わず涙を誘われるほどの泣きっぷりだった。しかし、永遠に続くのではと心配になるほどの勢いだった慟哭も次第におとなしくなり、しばらくの遠慮がちなしゃくりあげを経て、やがては潮が引くようにザ・ブリー・ブーンの涙も消えていった。
「やや、これはどうしたことか。一週間ぶっ続けでも泣いてやる、そんな心づもりでいたのだが。どうやらおれの涙の根は、期待したほど潤っていなかったようじゃの」
「気が済んだようでなによりだぜ。あんたのような孫がいて、ばあさんもさぞ地獄で喜んでいるだろうよ」メイヘム・ダッヂが目を真っ赤にしていった。「さて、おれの通過儀礼はこれでしまいかな? それともまだまだ続くのかい? そこのゴージャスな旦那、そちらからの熱烈な歓迎をおれはまだ受けていないが、さっきの口笛がそれだと思ってよいのかな?」
その言葉を受けてヘップキャット・ジョーが口を開いた。「おれはおまえを祝福したが、歓迎なんてした覚えはないぜ。むしろおまえなんぞお呼びじゃないと思っている。いまのところ、おれたち三人はとてもうまくやっているんだ。おまえがなにをしにきたのかは知らんが——そう、そこよ。おれが知りたいのは。おまえは一体なにをしにきたんだ? 招待状の届いていないパーティーに強引に潜り込んだ理由は? もしも、おまえがおれたちと敵対したいのならば、おれたちは全力でおまえを叩き潰そう。手足の指を一本残らず切り落とし、内臓をぶちまけてやろう。引っ張りだした腸で縄跳びをしてお嬢さんお入んなさいを歌ってやろう。おまえの皮で作ったベストを着てそこいらじゅうを練り歩いてやろう」
「そう、そこよ」ヘップキャット・ジョーの口調を真似て、メイヘム・ダッヂがいった。「話が早くて助かるぜ兄さん。おれはさっきからそこんところを話したくってうずうずしてたのよ。つまり、おれはなぜこんなところに、ヘル・ボッパーの奥深くまでわざわざきたのかってことをさ。もちろん、あんたら三人を同時に相手にしたって、おさおさひけをとるつもりはねえが、いまのところはそのつもりはないと思ってくれていい。なるほどおれはいささか乱暴にことを進めすぎたかもしれん。ここまで大量の血を流さなくたって、ここにたどり着く方法もあるいはあったのかもしれん。だがおれはこういうやり方しかしらねえんだ。余計なまわり道をすっとばして最短距離をつっきるやり方しかな。そりゃおれだって面倒くさがらず、正式な手順を踏んで生きてこれたら、いくらか素敵なことになってたと思うぜ。でもよ——」
「話が長いぜ!」たまらずヘップキャット・ジョーがぴしっと口を挟んだ。「人生相談なら他をあたってくれや。おまえのやり方とやらでいこうじゃないか。乱暴でもかまわん、最短距離で頼むぜ」
「おっと、すまんな。では本題に入らせてもらうぜ。おれがここにきた理由は他でもねえ、つまりは金、儲け話よ。まさかその手の話が好みじゃねえとはいうまいな?」
「嫌いじゃない」ヘップキャット・ジョーが表情を変えずにいった。「嫌いじゃない、が。身を乗り出して聞きたいって話でもないな。なんとなればおれたち三人、その手の話には困っちゃいないからよ。おれの手元には、おれのためなら寿命を削ってでも夜な夜なブルースを歌おうって女がいくらでもいる。ムスターシュ・モウの頭ん中には古典新作ありとあらゆる詐欺の秘術がぱんぱんに詰まっている。ザ・ブリー・ブーンの拳と強面は、兵隊とそれに付随する金をじゃりんじゃりん積み上げてゆく。おまえが持ってきた儲け話に乗る必要がどこにある?」
「勘弁してくれよ!」メイヘム・ダッヂが天を仰いだ。「おれのとっときの儲け話を、そんな辛気くせえシノギと一緒くたにされちゃ困るんだよな! ツキのない連中の涙の上前をハネてまわる陰気なシノギとよ! おれの手土産はごっついぜ。商売相手は全世界、あっちもこっちも大満足、トんだりハネたり大騒ぎ、完全無欠、超弩級のキラキラよ。こいつは乗らんと損するぜ、お三方」
「さっぱりわからん」髭をいじくりながらムスターシュ・モウ。「あたしの耳と記憶に間違いなけりゃ、余計なまわり道をすっとばすのがあんたのやり方だと聞いたんだが、どうもそのあたりに矛盾を感じるぞ」
「そこはそれ、演出効果ってやつさ」
「だが熱意は伝わった」ザ・ブリー・ブーンが急に大声を出した。「あれだけ冷静に冷酷な喧嘩をするおまえが、ここまで興奮するのだ。まったき空前絶後の儲け話に違いあるまい。おれは乗ったぞ! この話、いの一番に乗った乗った!」
「実際のところ、あたしもやぶさかではない」ムスターシュ・モウが静かに深みのある声でいった。
一同の目がヘップキャット・ジョーに集まった。沈黙が訪れた。ただし決して重苦しい沈黙ではなかった。その沈黙には浮き上がるような熱があった。複雑なうねりがあった。少々の茶目っ気と、残酷なまでの稚気があった。盛り上がり、膨れ上がり、張り詰めていた。そして突然、それは破裂した。
「ひとつ問題がある」集中する視線を多分に意識しながら、含み笑いでヘップキャット・ジョーがいった。