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朝の光が窓から差し込む。
昨夜の宴ほどではないものの、寝室と続き部屋になった応接間には美味しそうな朝食が並んでいる。部屋自体は数十人の客をもてなせるほどの広さがあった。
辛みの強そうな刺激臭を漂わせるいくつかの鍋とバターをたっぷり塗った薄い焼きたてパンは、最近流行っている異国風の献立だ。せっかくのパンが冷えていくのを感じながらも、わたしたちはネムル・アルカトさまから視線を外せなかった。
昨日の会話のせいではない。同席している星影と月影も細い目で彼を見つめている。
旦那さまが口を開いた。
「ネムル・アルカト重くはないか?」
「重いですよ?」
金の髪に白い肌、緑の瞳。
触っただけで折れてしまいそうなほど華奢な体のネムル・アルカトさまは、視力を調整するメガネを指で押し上げて、怒ったような声で言った。
「もう降りなさい!」
「……」
彼の肩から頭にかけて、くるくると動き回る幼女は泣きそうな顔をしたものの、言葉は返さなかった。
金の髪に白い肌、緑の瞳。
ネムル・アルカトさまにそっくりで、虎の耳と尻尾が生えている。
五歳の妹より、少し幼い感じだ。
うちの妹もそうだが、幼い獣人の子どもは変身が制御しきれなくて、半端に獣化していることがよくあった。
「どうしたんだ?」
「この子は姉の娘、私の姪です。どこかでお聞きになったことがあるかもしれませんが、姉は駆け落ち後、夫とともに旅の薬師になりました。母の実家が独占していた薬の知識を広く世界に分け与えたいというのです」
「ああ、兄上に聞いた。立派なことだ」
「立派は立派ですが、目的が目的なだけに、どうしても行き先は病気が蔓延している土地が多くなります。今回はさすがに命が危ないということで、私に預けていったのです」
獣人の子どもは病気に弱かった。獣人でない子どもと同じだ。
獣化による超回復は、怪我を治すだけで病気や疲労には効果がない。
島王国や北の大陸の魔法も同じだった。
病気は、本人の療養と薬でしか治せない。
ファダー帝国には病院があるし、専門の医師もたくさんいる。
しかし秘められた毒や数年に一度しか発生しない病への対処方法は、長い歴史を持つ薬師のほうが優れていた。
虎夫人の実家は薬の扱いに長けていると評判だ。
彼女が護衛頭に選ばれたのは武に優れているからだけでなく、そちらの能力を期待されたせいもあるだろう。
ネムル・アルカトさまが溜息をつく。
「……まあ、余計なことをしたのは私です。孫は可愛いものという言葉を真に受けて、この子と母を会わせてしまったのです。ですが未だ姉を許していない母に冷たく当たられたせいで、この子はすっかり怯えてしまって」
「お前の頭から降りてこなくなったというわけか」
旦那さまは苦笑して、近くにあった鍋の蓋を取った。
たちまち香ばしい、空腹をくすぐる匂いがあふれ出す。
中身は緑色の──ほうれん草のカレーだ。『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』には手に入れた回復アイテムで料理を作るというやり込み要素があったので、この世界には前世あったさまざまな料理と食材が存在する。
わたしも近くの鍋の蓋を取った。
こちらは黄色いひき肉のカレーだった。
星影が赤い鶏肉のカレー、月影が海鮮のカレーの蓋を開ける。
旦那さまが言った。
「とりあえず食事にしよう。みんなが美味しそうに食べていたら、その子もお腹が減って降りてくるだろう」
「だと良いのですが」
ネムル・アルカトさまも近くの鍋の蓋を開けた。
少し色の薄い、ひよこ豆のカレーだった。
みんなでパン──ナンなのだけど、その名称はなぜか使われていない──を千切り、自分の皿に取ったカレーにつけて食べ始める。
幼女の動きが止まり、叔父の口元を見つめ出す。
「お前も食べますか?」
「……うん」
小さく切ったパンに鶏肉の赤いカレーをつけたものを差し出されて、彼女は嬉しそうに頬張った。……ん? 赤色?
「ネムル・アルカトさま!」
「奥方さま?」
「ぷへーっ」
幼女は舌を出して、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「それは一番辛いカレーです。小さい子にはダメですよ」
「え、いや、だって……辛いほうが美味しいですよね?」
「ふぇっふぇっ」
わたしは辛党文官の肩から、泣きじゃくる幼女を抱き上げた。
抵抗されるかと思ったが、素直に体を預けてくる。
故郷の妹を思い出して、ほんのり切ない気持ちになった。
ネムル・アルカトさまを一撃で倒すのは十年後、それも前世のゲームの中での話だ。今の妹は、ただの小さく可愛い子どもだった。……うん、たぶん。
旦那さまが冷水を入れた杯を差し出している。
「メシュメシュ、水を飲ませるか?」
「いえ、水では逆効果です」
妹がトウガラシをつまみ食いしたとき、辛さを紛らわせようと水を飲んで、さらに辛くなったと泣いていたのだ。
わたしは近くの皿から干したナツメヤシの実をつまみ上げた。
干したナツメヤシの実は甘くねっとりした食感で、栄養価も高い。
ただ美味しいからと食べ過ぎると、少しお腹が緩くなる。
ファダー帝国は辛みの強い料理を好む。
異国から来たカレーが流行しているのは、辛さが美味しいからにほかならない。
もちろんカレーは美味しいのだけれど、甘さ重視の味付けをするマズナブ王国で育ったわたしには、少々厳しいときもある。福神漬け代わりの干し果物が、いつもわたしを助けてくれた。
幼いころに話していたのか、旦那さまはわたしが一番好きな干し果物が、ナツメヤシの実だと知っている。婚礼の日から毎日、食卓に並ばないことはなかった。
わたしが差し出したナツメヤシを、おそるおそる齧って幼女は笑顔になる。
「……甘ぁい」
「もう辛くない? びっくりしましたね」
「うん。クークびっくりした」
「クークちゃんって言うんですか? わたしはメシュメシュです」
「んと、クークは李なの。でもクークって呼んでいいよ」
「嬉しいわ。可愛いお名前ですね」
「杏も可愛いお名前なの」
「ありがとう」
クークちゃんを睨む生真面目なネムル・アルカトさまに、わたしは首を振って見せた。
こんな小さい子に呼び捨てにされたからって、怒るようなことじゃない。
もちろん礼儀は大切だけど、頭ごなしに怒るより、ゆっくり教えていくほうがいいと思う。……とはいえ、わたしも実家では妹を怒ってばかりだったっけ。
「このひよこ豆のカレーはそんなに辛くないから、一緒に食べましょうか」
「うん」
クークちゃんを膝に乗せて、ふと思いつく。
この子はもしかしたら、ゲームの中でヒロイン候補だった子かもしれない。
妹よりひとつ年下で、虎獣人だったもの。
詳しい家庭環境はわからないものの、宮殿に保護者がいると話していた気がする。
プレイヤーであるわたしが、主人公の王子さまの恋愛よりもラスボスの旦那さまの情報を集めることに夢中だったから、彼女が主人公と結ばれたことはない。……ごめんね。
まあ妹も、三人いたヒロイン候補の最後のひとりも、主人公と結ばれたことはないのだけれど。
わたしが一番謝るべきなのは、主人公の王子さまになのかしら。