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窓の外の空が、そろそろ赤く色づき始めた。
帝都には城塞があり、海にも近いので砂漠ほどの極寒にはならないものの、それでも昼より気温は下がる。銀の樹木から水盤へ落ちる水流の勢いが弱まっていく。
仮眠を終えたのか、仕事を終えたのか、シャムス皇帝陛下が戻られて、宴の終わりを宣言した。
挨拶を交わして、大広間から人が引いていく。
旦那さまとわたしも陛下に別れを告げて、皇太子に与えられた部屋への帰路に就いた。
宮殿の敷地は広く、様々な建物が建っている。
働くものも多い。厨房では毎日千食以上作られているのだという。
前世のものとは違うけれど病院もあるし、霊廟もあった。
霊廟には、旦那さまの母君も眠っている。
奴隷でありながら宮殿の霊廟に葬られたのは、シャムス陛下の温情だ。
もっとも旦那さまは、先代皇帝と同じ墓所だということが気に食わないらしい。
「……メシュメシュ」
「はい」
旦那さまの部屋、皇太子の間は宮殿の左翼部にある。
皇帝陛下のハーレムの近くだ。
ファダー帝国におけるハーレムは獣化の能力を受け継ぐ子どもを多く得ようと作られた制度だったが、獣化できるもの同士でなければ獣化できる子どもは生まれにくいとわかってからは廃れていた。
旦那さまが奴隷の女性を住まわせているのは、皇太子の間の離れだ。
五十名ほどが暮らしているだろうか。
ゲームでも現世でも、そちらもハーレムと呼ばれていた。
百人から二百人が生活できる本来の皇帝陛下のためのハーレムは空っぽだ。
離れの庭の大きな池に浮かんだ船が、夕日に照らされ揺れていた。
旦那さまは引き取った女性たちに操船技術を教え、大陸の境にある海域に浮かぶ島王国との貿易に携わらせようと考えている。
あちらでは、獣化できないことが普通だから。
それにハーレムの中には、北の大陸や島王国から連れてこられた女性もいる。
訓練の時間は終わったのだろう。船からは人の気配がしない。
正妃のわたしはハーレムではなく、旦那さまと同じ部屋で生活していた。
ちらりと背後の星影たちを見て、旦那さまがわたしを抱き寄せる。
低い声が耳元で囁く。
「……今夜は初夜を済ませるぞ」
「毎晩そうおっしゃってます」
「そうだが……そろそろ蜜月の休みも終わるし、武術大会に向けての修行も始めなくてはいけない。一緒にいられる時間が短くなるからな」
わたしたちの会話の内容に気づいたのだろう。
後ろの月影が含み笑いを漏らし、星影に殴られたらしき音が聞こえてきた。
──初夜。
本当を言うと、少し不安だった。
わたしは十六歳。前世でも結婚はできた年齢だ。
だけどやっぱり怖かった。ずっと好きだったとはいえ、婚礼の日に再会してから、まだ半月ほどしか経っていないのだ。わたしは旦那さまのことをなにも知らない。
前世のゲームで知った知識くらいでは、不安は埋まらなかった。
それに……獣化できないわたしが産む子どもは、やっぱり獣化できないかもしれない。それを考えると、心臓が締めつけられるような気持ちになる。
そもそもわたし、旦那さまの嫁は十年後のゲーム本編にはいなかった。
旦那さまはわたしを失ったことが、不死者のしもべとしてラスボスに成り果てた原因に違いないというのだけれど──ファダー帝国のこと、不死者のこと、初夜のこと、悩みごとは尽きない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……嬉しそうだな」
拗ねた声で言う旦那さまの鬣を、わたしは優しく撫でた。
旦那さまは、今夜もキスの後で神獣の姿になってしまったのだ。
「そんなことないですよ」
「いいや、嬉しそうだ。お前、俺と初夜を済ませるのがイヤなのか?……もしかして、ほかに好きな男がいるのか」
「違います!」
わたしは慌てて、旦那さまに抱きついた。
白い毛皮はモフモフで、とっても肌触りがいい。
「旦那さまだってご存じじゃないですか。わたしはずっと……ずっと前世から旦那さまを好きだったんです」
「しかし十年前の俺のことは、女だと思っていたじゃないか。まさか! 本当は女のほうが好きなのか?」
「どうしてそうなるんですか」
「じゃあちゃんと教えてくれ。現世のお前の初恋は、だれだったんだ?」
「旦那さまです。どうして女の子だったと思い込んでいたのかはわかりませんが、あのときでなかったとしても、婚礼の日に旦那さまに恋をしました。わたしの初恋は、現世も前世も旦那さまです。初夜のことは……」
獣化できない子どもが生まれるかもしれないという心配だけは隠して、わたしは正直に不安と怯えを告げた。
白い獅子が溜息をつく。
「お前が怯えるほど、俺ががっついているというわけか」
「そういうわけでは……」
「いや、自分でもわかってる。神に認められた夫婦なのだから焦ることなんてない。なのにお前を見ていると、自分が抑えられなくなる。……お前が可愛過ぎるのが悪い」
「もう、旦那さまったら」
わたしはふざけて、旦那さまの耳を噛んだ。
「……だから、そういうことをするから、俺が興奮してしまうんだぞ」
「さっきはしていません」
「それはそうだが、でもこうしてふざけたり、俺が寝ていると思って愛の言葉を呟いたりするから、俺がどんどんお前を好きになっていくんじゃないか」
「わたしも、毎日どんどん旦那さまを好きになっていますよ」
「そうか」
青年の姿のときと変わらない青玉色の瞳が、優しくわたしを映し出す。
「せっかく熊王殿に教えていただいたのに、星影たちが来てから武術の修行は手を抜いていたからな。武術大会に向けて体も精神も鍛えて、立派な大人の男になってやる。……情けなくて言わなかったがな」
旦那さまは恥ずかしそうに言葉を続けた。
「お前が話す十年後の俺に、ずっと嫉妬していたんだ。早く大人になりたい。お前が自慢にできる男になりたいと、いつも思っている」
「旦那さまは、今でもわたしの自慢の夫ですよ」
徴税局の長官として役人から賄賂を巻き上げているのは、ちゃんと考えがあってのことだ。今の役人たちは徴税局ができる前から帝国に雇われて徴税をしていた商人たちで、制度が変わったからといって、自分たちの利益を手放すわけがない。無理に役目を奪えば、持つ力すべてを使って抵抗するだろう。
あくまで自主的に役目を放棄したのだと思わせる必要があった。
人は、強い相手には身構える。
賄賂が有効だと侮らせることで、旦那さまは徴税役人たちの油断を誘っているのだ。
「……わたしも、旦那さまの自慢の嫁になりたいです」
「最初からお前は、俺の自慢の嫁だ」
なんだか急に、蜜月が終わったら一緒にいられる時間が短くなることが寂しくなったわたしは、旦那さまに抱きついて銀の鬣に顔を埋めた。