5
「皇太子殿下」
シャムス陛下が宴席を離れてしばらくして、ひとりの男性が近寄ってきた。
黒く波打つ髪を肩のところで切った、鍛えられた褐色の肌の持ち主だ。
垂れた漆黒の瞳の奥は、浮かべている表情ほどにこやかでない。
陛下の母君の弟で、先ほどの虎夫人の従弟に当たる男性、豹獣人の黒豹大公だ。
ファダー帝国の重鎮であり、去年の武術大会では三位の座に就いた。
ちなみに一位はわたしの父である熊王アルド、二位は虎夫人。
狼獣人の姉弟は、虎夫人の留守を守って出場しなかったという。
『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』では結構重要な役どころだった黒豹大公だが、わたしはいつもべつのルートを通っていたので、彼の詳細はよく知らない。
「今日は驚きました。すっかり活躍の場を奪われてしまいましたよ」
「大公殿、偶然だ。いや……我が妃のおかげだよ」
「妃殿下の?」
「ああ。我が妃は熊王アルド殿の愛娘。熊王殿の狩りに同行していたので、魔獣の特徴や弱点を見抜く力を身につけているんだ」
旦那さまの青玉色の瞳に映されて、わたしは微笑み頷いた。
そういうことにしておくのが、一番いいだろう。
「なるほどなるほど。ところで皇太子殿下、来月の武術大会はどうなさるのです? 去年と一昨年は、まるでわざとかのように体調を崩されていらっしゃいましたが」
戦いの興奮で神獣に変身してしまってはいけないと、旦那さまはこれまで武術大会には出席していなかった。狩りのときも片隅に隠れていたらしい。
今日はわたしとの結婚を祝う狩りだったので、積極的に参加されていたけれど。
旦那さまと黒豹大公の視線が絡み合う。
「そうだな……今年は出席したいと思っている。体調は崩さぬよう気をつけるよ」
「ほう。それは楽しみ。……妃殿下?」
「大公閣下?」
「あなたさまの目の前で、皇太子殿下と熊王陛下を倒したとしても、私を嫌いにならないでくださいね。愛らしい女性には嫌われたくありません」
黒豹大公は独身で、女性と見れば口説き文句をかけることで有名だ。
彼が口説かないのはこの世でただひとり、ファダー帝国最強の女性虎夫人だけだといわれている。
すっと、大公の腕がわたしの頭に伸びてきた。
旦那さまが体を起こしかける。
「皇太子殿下、このくらいで熱くなっていたのでは、武術大会は勝ち抜けませんよ? 妃殿下、ご結婚おめでとうございます。これは私からのつまらぬ贈り物です」
彼の手がわたしの髪に落としたものを、旦那さまが取り上げた。
宝石でできた花の髪飾りだ。
ピンクから真紅まで、さまざまな色合いの紅玉を削って作られた薔薇を水晶の水仙が取り囲んだものを、黄金の葉と茎でまとめている。
わたしの瞳の色を意識してか、青みの強い紫がかった紅玉が中心に据えられていた。
どれも傷ひとつない見事な宝石だ。
冬の夕月生まれのわたしなら紫水晶の護り石を持っていると考えて、青みの強い紅玉を選んでくれたのだろう。
紅玉は夏の昼月を意味する。
旦那さまが生まれた月の護り石だと思うと、とても輝いて見えた。
「大公殿、感謝する」
「皇太子殿下、そちらは妃殿下に差し上げたものです。姫君の愛らしいお声での感謝を聞きたいものですな」
「あ、ありがとうございます、大公閣下」
へらへらと笑って、だけど瞳の奥は相変わらず底知れぬ色のまま、黒豹大公は自分の席へ帰っていった。
旦那さまは座り直し、わたしの髪に花飾りを戻す。
「得体の知れない男だが、趣味はいい」
黒豹大公は、旦那さまが皇太子になることに反対しなかった、数少ない帝国貴族のひとりだ。
甥であるシャムス皇帝陛下の考えを尊重したのだと思われるが、真意はわからない。
不死者の覚醒がなかったとしても、帝国にはいろいろな火種が隠れている。
わたしは旦那さまに寄り添った。
「……武術大会にご出席なさるのですか?」
「ああ、そうしようと思っている」
「変身は大丈夫ですか?」
「今日の狩りでわかった。……お前の可愛らしさに比べたら、戦いの興奮など少しも怖くない」
「なっ! なにをおっしゃっているのですか」
「本当のことだ。……メシュメシュ」
旦那さまのからかうような口ぶりが、急に真面目な空気を帯びた。
低く艶やかな声を潜めて、旦那さまは語り始める。
もっとも小声にならなくても、宴の喧騒の中では隣にいるわたし以外には聞こえない。
銀の木から流れ落ちる水音も内緒話の味方だった。
「俺は、表舞台に出ようと思う。徴税局の長官になったのをいいことに役人たちから賄賂を巻き上げて私腹を肥やし、ハーレムに女奴隷を囲う役立たずの皇太子──そう見られているのが、帝国のためであり兄上のためだと思っていた」
だが、と旦那さまは言葉を続ける。
「状況は変わった。不死者に対抗するために、俺は発言力を持たなくてはならない。今の俺がなにか言ったところで、不安を煽るだけだからな。兄上は真面目に聞いてくださると思うが、それはそれで周囲から異母弟に甘い皇帝と侮られてしまう」
それに、と逞しい褐色の腕がわたしの肩を抱いて引き寄せた。
「……お前が、役立たずの皇太子の嫁だとバカにされるのはイヤだ」
「旦那さま……」
「徴税局のことは考えがあるので、すぐには変えられないが、とりあえず武術大会で優勝して、お前が自慢できる夫になってみせる」
「父さまに勝てるとお思いなのですか?」
「……ひどいな」
「ご、ごめんなさい。でも……我が国の周囲のオアシスが、毎年増えていることはご存知ですよね?」
「ああ。マズナブ王国は神に愛されているな」
「オアシスを作っているのは、父さまなんです」
旦那さまが、十七歳の少年らしい笑みを浮かべた。
「俺をからかう気だな?」
「違います。ほら、雨が降ると花畑が出現するでしょう?」
「珍しいことではないな。砂漠は広いから、どこに現れるかの予測はできないが」
「花畑の報告があると、父さまは王宮の庭に植えてあるナツメヤシの木を抜いて、植えに行くんです。ナツメヤシの葉は日陰を作って花畑を守り、根は一時的に溜まっている地下水を固定します。すべてではないですが、多くはそのまま定着してオアシスになります」
銀色の細い眉が、不思議な形に歪んだ。
反応に困っているのだろう。
マズナブ王国の住人には当たり前のことが、ほかの地域では普通でない。
それに気づいたのは、かなり最近だ。
「ひとつ確認させてくれ。樹齢何年のナツメヤシだ?」
「どれも五年は越えています。高さは、大人の男性を縦に二十人ほど積み重ねたくらいでしょうか。父さまはそれを、ひとりで持っていくんです。まずは実をつける雌株を持って行って、定着したら雄株も植えます」
野生の熊も二足歩行をする。
熊獣人の父さまは獣化していても、ほかの種族の獣人より器用だ。
旦那さまは俯いて、絞り出すような声で尋ねてきた。
「……武術大会で二位の夫でもかまわないか?」
もちろんわたしは頷いた。
うちの父さま熊王アルドは、前世でいうところのチートキャラなのだと思う。どうせならその力、わたしが欲しかった。でも旦那さまは、そんな嫁イヤかしら。