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旦那さまの皇帝即位計画を煮詰めるのと、家族水入らずで話し合いたいということで、ほかの人間は部屋から出ることになった。
わたしは……旦那さまに肩を抱かれたままなので動けない。
皇帝陛下を見つめると、軽い感じで頷かれた。
残っていてもいいのだろう。
確かにわたしは陛下の義妹だから家族で間違いない。
護衛のティーンさまやベルカ、星影たちが扉へ向かう。
獣化していなくても、ティーンさまの耳や尻尾がうな垂れて、皇帝陛下から離れるのをイヤがっているのが感じられた。
少し心配なものの、扉の外には控えていてくれるのだし、そもそも獅子獣人がふたりいれば戦闘力は十分だ。わたしの首飾りもある。
わたしは妖霊たちが宿った紅玉に目を落とした。
皇帝陛下の母親代わりだったと言っていたけれど、虎夫人は出ていくようだ。
陛下の叔父に当たる黒豹大公はどうなのかしら。
大公は、虎夫人の背中に呼びかけた。
「待ってください」
「……どうしました?」
虎夫人が立ち止まり、振り向く。
黒豹大公は皇帝陛下を見た。
「皇帝陛下、畏れながらお聞きいたします。陛下の退位後、虎夫人はどうなさるのでしょう。そのまま護衛頭としてバドル殿下にお仕えするのでしょうか」
皇帝陛下が虎夫人を見る。
「どうする?」
「……あたくしは、陛下とともに引退したいと思っております」
「おおっ」
黒豹大公の瞳が輝く。
彼は虎夫人の前へ駆け寄ると、大公という身分ゆえに皇帝陛下に対してもしたことがないと思われるほどの深いお辞儀をして、その右腕を差し出した。
「虎夫人! 子どものころ、初めてお会いしたときから好きでした。護衛頭の職を退かれるのなら、私の妻になっていただけませんか?」
「あたくしには夫がおります」
「もうお亡くなりになられているではないですか」
「それがなにか?」
「いえ、その……失礼いたしました」
大公が気にしていたのは、虎夫人が皇帝陛下に害を成しているかどうかではなく、護衛頭を辞めた後の彼女の行く末だったらしい。
そもそも彼が虎夫人は口説かないという噂自体が間違いだったのだろう。
虎夫人を口説いても相手にされてないだけのようだ。
「……メシュメシュ」
「旦那さま? どうなさいました?」
わたしの耳に口を寄せて、旦那さまは囁くように尋ねてきた。
「大公殿の骸は、いつも『ラスボス』の俺に混ぜ合わされていたんだな?」
「はい、たぶん。大公閣下のご支援をいただくことがありませんでしたので」
「……いや。彼に支援者になってもらっていても、結果は同じだっただろう。……同盟の一員だったのだからな」
「なんのお話ですか?」
旦那さまの口から、聞き覚えのない単語が出てきた。
小声で早口だったからよくわからなかったけれど、『好きな…………にされ……男同盟』?
「なんでもない。ただの想像だ、気にするな」
なんだろう、気になる。
ともあれ、話がそれだけなら、と虎夫人は部屋を出て行った。
死人のような顔色で、黒豹大公も後を追う。
廊下に出た大公に皇帝陛下が声をかける。
「大公。決まったことは後でちゃんと報告するから、今日はこのまま館に帰ってもらったのでいいよ?」
「ありがとうございます、陛下」
頭を下げる黒豹大公の目の前で、部屋の扉が閉まる。
「さて……」
皇帝陛下がわたしを見た。
「その紅玉のことなんだけど」
わたしは首飾りの紅玉を握り締めて俯いた。
これはもともと旦那さまの護り石で、陛下から贈られたものだ。
妖霊が宿っているといっても、いいえ、宿っているからこそ、できそこないの皇太子妃が持っていていいものではないのかもしれない。
でもさっきは、妖霊の力を使うとか話していたっけ。
わたしがお願いしないと、彼らは動いてくれないんだけど。
大丈夫だ、と言うかのように、旦那さまが優しく肩を叩いてくれる。
わたしは顔を上げて、皇帝陛下のお言葉を待った。
「実は僕が用意したものではないんだ」
「兄上?」
「それはね、バドル。お前の大嫌いな父上とお前の大切な母君が、生まれてくるお前のために用意したものだよ」
「なっ……あの男がそんな……」
「おふたりは愛し合っていたんだ。僕の母上が亡くなられた後だったから、なんの問題もない。むしろ僕の母上は気の弱い父上を心配してたから、愛する女性ができたことを喜んでいたと思うな。……ふたりは、僕が即位したら正式に結婚する予定だった。いくら愛し合っていても、獣化できない皇帝が獣化できない奴隷と結婚するなんて、周囲が許すはずがないからね」
当時皇帝陛下は十歳を過ぎたところで、十五歳の成人の儀はまだ先だった。
しかし帝国貴族や属国の王たちは、先代が獣化できないことに気づいていた。
民の間にも噂が広まり始めていたという。
次々と起こる内乱を未然に防ぐためにも獣化できる皇帝が必要だった。
「おふたりがあんな結末を迎えてしまったのは僕のせいだ。ごめんよ、バドル」
「兄上?」
「僕はね、ちょっと生意気過ぎたんだ。父上みたいに重臣たちの傀儡になるつもりなんか全然なかった。母上が亡くなったとはいえ、母上の実家は力を持っているし、叔母である虎夫人の婚家は虎獣人の王家だ」
獣化できてもできなくても、これから生まれてくる子どものほうが扱いやすいと踏んだのか、重臣たちは旦那さまの母君を攫って無理矢理麻薬を与えた。
お腹の旦那さまもろとも中毒にするつもりだったのだろう。
先代の重臣は自治領を持たない、ファダー帝国直属の貴族文官たちだった。
今は力を奪われて、閑職に回されている。
「身重の女性に麻薬を与えるなんて、貴族だろうと奴隷だろうと許されない真似をしておきながら、実行犯の貧民にすべてを押しつけることでヤツらは逃げ延びた。もっと罰してやりたかったんだが……」
「麻薬? でもお袋は、そんな……」
「父上がずっと彼女を支えて、中毒症状から解放したんだよ。幸い生まれたお前にはなんの問題もなくて、僕たちみんな、とても嬉しかった。だけど」
旦那さまが獣化できることを知られたら、また重臣が近づいてくるだろう。
「だからお前は、獣化できない奴隷の子として育てられた。ヤツらを刺激しないよう、僕の即位も延期された。父上は彼女を愛していない、ただの気まぐれで手を出しただけだと思わせるための演技を始めた。でも……重臣たちの魔の手から彼女を守りきれなかった罪悪感もあってか、父上はいつしか心を病んでいき、本当に暴力を振るうようになった。最後にはほかの奴隷にまで」
「……」
わたしの肩から降りた旦那さまの手を、わたしは両手で包み込んだ。
旦那さまの顔色は青白く、その手は氷のように冷たい。
「父上を許せなんて言う気はないよ。どんな理由があるにしろ、父上がお前の母君に暴力を振るって殺してしまったのは本当のことだ。ただ僕は、知ってほしかったんだ。お前は愛されて生まれた子どもだと。暴力ではなく、愛によって生まれてきたんだってね」
「そんなこと言われても……」
「もっと早く、義妹殿との結婚前に言っておけば良かったんだろうけど、お前、父上の話は聞いてくれなかったから。……お前が自分に自信が持てず、義妹殿との初夜を済ませられていないのは僕のせいだね」
俯いて押し殺した嗚咽を漏らしていた旦那さまが、真っ赤になって顔を上げた。
「いえ、それは違います。神の祝福のせいです」
「そうなの? まあ、それならそれでいいよ。獣化できようとできまいと僕が周りに認めさせてあげるから、早く子どもを作りなね? この前武術大会で会ったファラウラ姫が面白かったから、甥や姪と遊ぶのが楽しみなんだー」
「ご自分の子どもと遊んでください。ティーンとでも結婚したらどうですか? 兄上がお元気だと気づく前は彼女を怖がっているのだと思ってましたが、本当は面白がってるんじゃないですか?」
「うん。ティーンは感情的で予測がつかなくて面白いよ。でも子作りとか面倒くさいじゃない」
わたしの手を握り返して、旦那さまは溜息を漏らす。
そんな旦那さまを見つめて、皇帝陛下は愛おしげに微笑んだ。
「バドル怒ってる? 怒ってるよね? ふふ、初めての兄弟ゲンカだ。僕、お前とケンカするのが夢だったんだ。なのにお前は遠慮して、どんな無茶を言っても怒らないから」
「遠慮なんかしてません。……というか兄上、普通の家の兄弟でも十二歳も離れていたら、そうそうケンカなどしないと思いますが」
「そう? そうかな? ケンカはないかもね。でも抱っこしてほしいとか、僕のお菓子を分けて欲しいとか、ワガママくらい言ってほしかったな」
「……ワガママなら、いっぱい叶えてもらいました」
「え、そうだった?」
皇帝陛下に首肯して、旦那さまがわたしを見る。
わたしの手が痛くなるほど強く握り返してきた旦那さまの手は、とても温かかった。
「そうか、そうだね。うん、お前が熊王殿のところへ行って義妹殿と出会ったのも、彼女と結婚できたのも、僕のおかげだもんね。なんだ、我ながら良い兄上だ」
「あの男……ち、父上とお袋のことや本当はお元気なことを、もっと早く教えてくださっていれば、文句なしに良い兄上でしたけどね」
「なかなか上手く行かないもんなんだよ。ちょっとしたことでも、ときと場合によっては善にも悪にもなるだろう? ねえ、義妹殿」
お義兄さまに言われて、わたしは頷いた。
これまで皇帝陛下として雲の上の方のように感じていたのが、なんだか急にお義兄さまとしての実感が湧いてくる。
そう。どんなこともなかなか上手くは行かない。
行かないけれど、わたしたちは生きていく。
前世も現世も精いっぱいに──




