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真珠月から紅玉月へ。
海の上で月が替わった。
今月の終わりには、旦那さまの誕生日がある。
それまでにシャムス皇帝陛下がお元気になられていたら、ファダー帝国を挙げて皇太子の誕生を祝う祭りが開催されるだろう。
そうでなければ……わからない。
船にいる間、旦那さまが初夜について言い出すことはなかった。
病床の兄君を思えばそんな気分になれるわけがないし、わたし自身の体調も万全ではない。当然のことなのだけれど、なんだか寂しくて、旦那さまが作ってくれたスープはいつも少ししょっぱく感じた。
──月が違えば風も変わる。
目的地が変われば海流も違う。
女海賊の島へ寄り道した往路より、復路には時間がかかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
帝都の港に船が着いたのは、宮殿に伝書鳥で知らせたよりも遅い時間だった。
とっぷりと日が暮れて、辺りは真っ暗だ。
人影が少ないのは皇帝陛下が病床に就かれているせいだ。
町も活気を失っている。
船を降りると、宮殿からの迎えが近寄ってきた。
鍛えられた褐色の肌、黒く波打つ髪、垂れ気味の黒い瞳。
黒豹大公だ。
「お久しぶりです、皇太子殿下」
「大公殿のお迎えとは、俺も偉くなったものだな」
「アネモス王国では疫病治療に尽力なさったとお聞きしております。正に、神の祝福を得てのご活躍だったと」
不死者のこと、旦那さまが神獣に変身できること、妖霊の加護──それらのことは秘密にされていた。関わった人間には口外を禁じている。
表向きは、アネモス王国に蔓延していた悪夢病が、ファダー帝国皇太子バドル殿下の援助を受けて一掃されたと発表された。
真実をいつ、どのように公開するかについては、これから皇帝陛下の指示を仰ぐ。
口ぶりからすると、黒豹大公は真実を知っているようだ。
各地に放たれている陛下の密偵の中には、大公にも情報を流しているものがいるのかもしれない。
「……陛下のご容態は」
「一進一退と言ったところです。この半月、寝室からお出になられていませんが、大きな催しものがなかったので、日常業務に滞りはありません」
「寝室でお仕事をされているのか。それでは休養にならないだろう」
旦那さまの言葉に首肯して、黒豹大公は顔を上げた。
垂れた漆黒の瞳がわたしを映す。
「これは妃殿下、どうなされたのです?」
「え……どこかおかしいでしょうか」
「目の下に隈ができていますよ。まさか皇帝陛下と同じご病気では」
「い、いえ、違います。これはただの寝不足です。旅の疲れで、眠りが浅くなって」
さすが虎夫人以外の女性はすべて口説くといわれている黒豹大公、女性の見た目に鋭い。
旦那さまも気づいていらっしゃるのかしら。
ベルカと一緒にお化粧を頑張って、誤魔化したつもりだったのだけれど。
旦那さまに心配はかけたくない。
これからのことで悩んだりもしたが、わたしの中では結論が出ている。
わたしは、旦那さまをラスボス『死せる白銀の獅子皇帝』にしないことを願ってきた。
現世も前世も変わらない願いだ。
その一念と旦那さまへの想いが、ふたりのわたしをひとつにしている。
たぶんこれからも分かれることはない。
だってなにがあったって、旦那さまのことを好きなのは変わらないもの。
わたしたち……わたしは目的を果たした。
黒幕の『美しき蠅の女王』を倒したのだ。
旦那さまがラスボス『死せる白銀の獅子皇帝』になることはない。
これからのことはこれから考えればいい。
現世も前世も変わらず愛することができる人と出会えただけで、とてつもなく幸せなのだと思う。
「ははあ……」
わたしを見つめて、黒豹大公は波打つ前髪を指に巻きつけた。
なんだかペタロ王子を思い出す。彼は元気かしら。
黒豹大公は旦那さまに視線を移し、意味あり気に笑う。
「そうですな。衆人環視の宮殿や訪問先の城よりも、比較的自由な船の中のほうが気楽で燃え上がることでしょう」
……ぴゃっ。
言葉の意味に気づいて、顔が燃え上がる。
旦那さまが大公を睨みつけ、わたしは俯いた。
初夜がまだだという情報までは伝わっていないらしい。
「今から宮殿へ戻ると、お休み中の皇帝陛下を起こすことになるでしょう。今晩は私の館にいらしてください。安全には気を配っていますので、護衛を離しても大丈夫ですよ。……おっと、武術大会優勝者の皇太子殿下には余計な言葉でしたかな」
「お心遣い、感謝する」
旦那さまは褐色の肌を赤らめて、忌々しそうに礼を告げた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
帝都にある黒豹大公の館は、アネモス王国の城よりも広く感じた。
調度品も豪奢で、それでいて趣味がいい。女性好み、という言葉が似合う。
いかにも彼の別邸だ。
普段の黒豹大公自身は、宮殿に与えられた一室で生活している。
今夜は彼も宮殿に戻らず、主寝室で休んでいるはずだ。
わたしは寝台に腰かけた。
ティーンさまはべつに一室を用意され、ベルカは侍女用の控えの間にいる。
ほかの女性は船で夜を明かすことになった。
「……メシュメシュ」
低く艶めいた声が、わたしの名前を呼ぶ。
なんだかとても甘く感じる。
旦那さまは、わたしの隣に腰を降ろした。
「せっかく不死者を倒したのに、俺が船中でお前を抱こうとしなかったことを、不思議に思っているだろう?」
「だっ!」
確かにその通りなのだけれど、これまで初夜という言葉で誤魔化されてきた現実が一気に押し寄せてきて、わたしはうろたえた。
旦那さまは確信犯だったようで、イジワルで色っぽい笑みを浮かべる。
前世風にいうところのセクシーだ。
わたしの髪をそっとつかみ、耳元に口を寄せてくる。
「どうしてだか、わかるか?」
「……それは、これからのことがはっきりしていないからでしょう?」
「はっきりしていない? すべては決まっている。俺は皇帝になるしかない。兄上に対する俺の疑惑が、正解でも間違いでもだ」
「疑惑……?」
「ああ、さっき黒豹大公との夕食の席で、虎夫人の話をいろいろ聞いただろう?」
わたしは頷く。
黒豹大公は、なんだか妙に興奮した様子で、旦那さまが皇帝に即位した場合の虎夫人の行く末について語っていた。そこに、なにか含みがあったのかしら。
「虎夫人の実家は、黒豹大公や兄上の母君の家の分家に当たる。本家が皇族とのつながりを深め、分家は薬の技術とほかの貴族との婚姻で隆盛を誇っている一族だ。ところで、虎夫人の夫が酒好きだったのを知っているか?」
酔っぱらって獣化すると暴走しやすくなるので、公式な場で酒が供されることはないけれど、嗜好品として嗜むものは多い。
マズナブ王国でも、私的な集まりのときは酒が出ることがあった。
ひと口で酔っぱらってしまう父さまの代わりに、いつもこっそり母さまが酒盃の残りを飲み干していたっけ。
「彼だけでなく、虎獣人は全般的に酒が好きだ。そのため腎臓を病むものが多い」
腎臓……前世どこかで習ったし、現世も聞いたことがある。
内臓のひとつで、血液をろ過する役目を持つのよね。
お酒を飲みすぎるとろ過が及ばず、腎臓への負担が増えて病気に至る、のだったかな?
「寝不足以外の隈は腎臓の病気に由来していることがある。兄上が腎臓を患っているとしたら、虎夫人の薬で治療できるはずなんだ。虎夫人の薬で及ばないほど酷いのなら、兄上はとっくに死んでいる」
虎夫人と結婚するまで酷い隈を浮かべていた虎獣人の王は、彼女との結婚後、隈が消えたそうだ。
「虎夫人が薬の効力を操作して、皇帝陛下のご病気を持続させている?」
「黒豹大公は、それを疑っているのだろうな。虎夫人は本家の血筋である兄上を廃して、自分の息子であるネムル・アルカトを腹心に持つ俺を即位させたいのだ、と。だが、兄上はご令嬢が駆け落ちする前から、あの隈だった」
「はあ……」
どういうことなのだろう。
あ、そういえば。
わたしはティーンさまの疑いを旦那さまに打ち明けた。
そうそう、あのとき旦那さまはいなかったのだ。
旦那さまが吹き出す。
「くっ……ティーンは面白いことを考えるな。それにしても、あのティーンが本当に兄上を好きだとは思わなかったぞ」
うん、それも話していなかった。
ティーンさまに内密だと言われたし、あまり重要な情報とは思わなかったから。
「しかし兄上と虎夫人が密談していたということは、俺の疑惑は本当に正解しそうだな」
「旦那さま、その疑惑とはどのようなことなのですか?……ぴゃっ」
旦那さまは笑って、わたしの耳に息を吹きかけてきた。
「……そんなことより、俺がお前を抱かなかった理由を答えてみろ」
「お、お話を途中で変えたのは旦那さまではないですか」
「そうだったな。兄上のことは気にするな。さっきも言ったように、どちらにしろ俺は皇帝になる。だが安心しろ。お前が知っている『死せる白銀の獅子皇帝』ではない。黒幕の『美しき蠅の女王』はもういない。俺は、『ラスボス』にはならない」
「……はい」
旦那さまの言葉が嬉しかった。
わたしは旦那さまにお辞儀をして、そのまま彼に背中を向ける。
「それでは旦那さま、おやすみなさい」
「ちょっと待て。俺の質問の答えはどうした」
「知りません。そんなことよりわたしは、ぐっすり眠らなくてはいけないのです。皇帝陛下の御前に、寝不足の顔を晒すわけには参りませんから」
背中を向けて寝台に横たわったわたしを後ろから抱き締めて、旦那さまが囁く。
「……皇帝になろうとも、俺の嫁はお前だけだ。俺が船中でお前を抱かなかったのは、お前に溺れてしまうのがわかっていたからだ。皇帝にならなくてはいけないとわかっていても、一度お前を抱いてしまったら、すべてを忘れてふたりで逃げてしまいたくなる。本当の初夜は、俺が皇帝になった日だ。ふふ、我ながら我慢強い男だな」
本当は、できそこないのわたしが皇帝の妃になるには、さまざまな壁が存在するだろう。
妖霊の加護を持ち、不死者を倒すのに少しだけ関わったといっても、それはもう過去のものだ。大切なのはこれから、ファダー帝国の未来なのだもの。
それでも──
……俺の嫁はお前だけだ。
旦那さまのその言葉だけで、生まれてきて良かったと思う。
「……いや、皇帝になったら毎日忙しいだろうから、初夜は今夜のうちに済ませておこうか?」
旦那さまのその言葉は聞かなかったことにして、わたしは眠った振りをした。




