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心地良い揺れが体を包んでいる。
潮の香りが鼻をくすぐり、わたしを眠りから覚ます。
目覚めたわたしを待っていたのは、怒った顔の旦那さまではなかった。
旦那さまに違いはないけれど、少し憔悴した顔をしている。
わたしは慌てて、体を起こした。長い間眠っていたのか、体は重くて動かしにくい。
寝かされていたのはアネモス王国の城の寝室ではなかった。
ハーレムの女性たちが操船する船の一室だ。
「旦那さま、大丈夫ですか? お顔の色が悪いようですが」
寝台の隣で椅子に腰かけていた旦那さまは、しなやかな腕を伸ばして、わたしの髪をくしゃりと撫でて溜息をつく。
「三日三晩気を失っていた人間が、起きるなり他人の心配をするな」
「わたし、そんなに眠っていたのですか?」
「ああ、そうだ」
両手に痒みを感じて、わたしは視線を落とした。
赤い手にはなにかが塗られていて、ネバネバする。
「掻くなよ。相性の悪い氷属性の能力を使ったせいで、凍傷になっているんだ」
「そうなのですか」
「痒いときは言え。軟膏を塗ってやる」
「ありがとうございます。もしかしてわたしが眠っている間、旦那さまが見ていてくださったのですか?」
「できるときは、だ。礼はティーンとベルカに言っておけ」
「……アネモス王国の方々には、お別れを言えませんでしたね」
眠っている間に勝手に移動してすまない、と呟くように言って、旦那さまは杯を満たす糖蜜入りのレモン水を飲ませてくれる。
眠り続けて渇いた喉が潤っていく。
レモン水は大きな水入れにも湛えられていて、水入れが置かれた小机には、宝石箱に入った紅玉の首飾りもある。
──本来なら、わたしや子どもたちを組み込んだ計画を実行する旦那さまではない。
聖女カメリアこそが不死者であるという偽装に騙された振りをしながら、本物を泳がさず一気に蹴りをつけたのには理由がある。
旦那さまは、一刻も早くファダー帝国に戻らなくてはいけなかったのだ。
「カメリア……さんは、不死者のしもべだったのですね」
「ああ。しもべになって聖女として振る舞えば、本人も言っていたように高貴な人間に見初められて幸せになれると思わされていたのだろう」
「マルガリタさんは?」
「ひとまずはアネモス王国でメイドをするらしい。母を失った娘ひとりでは、あの王子の面倒は見きれまい」
ペタロ王子はこっそり船に忍び込んで、わたしたちに同行しようとしていたらしい。
……うちの妹と気が合いそう。
いつか現世でも、ふたりが巡り会う日が来るかしら。
「最初から見つかることを見越しての行動だ。父を困らせたり、大臣である曽祖父やメイドを怒らせて、気分を切り替えさせていた。兄を亡くしたマルガリタという女も、イタズラ王子を追いかけ回していれば、すぐ城に馴染めるに違いない」
「ルルディちゃん、大丈夫でしょうか」
彼女はまだ六歳だ。
傭兵団の団長であった父はすでになく、今回の事件で母ガルデーニヤをも喪い、どんなに沈んでいることだろう。
「母親が変わったことには気づいていたようだ。……だからといって、簡単に立ち直れるわけではないがな」
そういえば、旦那さまが母君を喪ったのもルルディちゃんと同じ年ごろだ。
「旦那さま……」
わたしは尋ねる言葉を飲み込んだ。
船上ではなにもできない。
旦那さまが儚げな笑みを浮かべる。
「兄上のことか? 少しでも早くファダー帝国に戻りたくて急いでいるので、港に停まっていないんだ。あのときティーンに聞いた以上の情報は入っていない」
旦那さまの兄君、ファダー帝国のシャムス皇帝陛下は今、病床に就いていた。
教えてくれたのはティーンさま。
あの日デンドロ王が、ガルデーニヤさんの姿をした不死者への疑いを相談しに来る直前の告白だった。
陛下は友好国の各地に密偵を放っていて、ティーンさまはこの航海で港に立ち寄るたびに彼らと会い、情報を交換していたという。
ベルカが目撃した、生真面目な顔で小鳥にエサを与えていたティーンさまというのは、密偵が鳥に運ばせた伝書を受け取っていた姿だった。
旦那さまが神獣に変身できることも、陛下の耳には届いているはずだ。
「……神獣に変身できることをもっと早く明かして、俺が皇帝の座を継いでいれば、兄上がお体を酷使して寝込まれることはなかったのかもしれない」
「旦那さま……」
わたしはうな垂れた旦那さまの頭を抱き寄せた。
サラサラの銀髪は、鬣のときよりも弱弱しく感じる。
「きちんと皇帝として役目を果たしていれば、お前を嫁にできただろう」
「……はい」
頷いてはみたものの、それは無理だとわかっていた。
旦那さまが皇帝として優秀なら優秀なほど、周囲は同じ力を持つ後継者を求める。
獣化できる子どもを求めるなら、できそこないのわたしは選択肢にも入らない。
わたしはそっと、旦那さまの銀髪を梳った。
鬣よりも弱弱しいけれど、絹糸のように細く心地良い感触だ。
最悪の事態が防げたとしても、皇帝陛下は退位なさるかもしれない。
旦那さまが皇帝を継がれたとしたら、そのとき、わたしは──
「ホーフさまご夫妻も、この船に乗ってらっしゃるのですか?」
「いや、ご令嬢とサーヘルはアネモス王国に残った。『操りの虫』が消えても、患者が健康体に戻れるわけではない。魔力を奪われ弱った体は、簡単に病気になってしまう。みんながみんなサーヘルのように丈夫ではない。……アイツも、無理をしているのではないといいのだが」
「皇帝陛下のご病気の治療は」
「虎夫人がいる。それに……いっそ病気なら原因があって治療法もあるだろうが、兄上は病弱でいらっしゃる。どんな薬も対処療法にしかならないし、一番の問題は皇帝の激務だ。俺は、即位後の兄上のお顔から隈が消えたところを見たことがない」
「……マルガリタさんに届けられた、不死者の手紙にはどんな意味があったのでしょう」
思い悩む表情になっていくのが心配で、話題を変えたわたしに旦那さまが苦笑を漏らす。
「起きるなり質問ばかりだな。あの手紙は……生前のカミリヤの知り合いがアネモス王国に来たのを利用して、不死者がなにかを企んでいたのだろう。しもべのカミリヤを利用すれば、芝居に必要な人間を宿に集めるのも容易いことだしな」
「旦那さまがアネモス王国にいらっしゃることを知って、なにか計画を立てていたのかもしれませんね」
「せっかく計画を立てたのに、俺が攫われて到着が遅れたり、妖霊の加護を持ち魂の名前を知るお前が現れたりと、不死者も災難だったな」
旦那さまが神獣であることは感づいていて、こちらの戦力を確認するためにカメリアを犠牲にしたのだと、旦那さまは語る。
こちらが騙されてしまえば、そのまま逃げるつもりもあったのだろう。
名前のない魔法使いたちと会ったのは、位置的に考えてカメリアの婚家からアネモス王国へと向かう途中のようだ。強い魔力を持つ珍しい存在に『操りの虫』を寄生できれば儲けもの、その程度の気持ちだったのかもしれない。
「まあ、これ以上は考えても仕方がない。不死者はもういない。ヤツの詳しい事情など知りようがないんだ。……食欲はあるか?」
「今はそれほど」
「では眠れ。今度起きるときまでに、眠り続けて弱った体でも食べられる栄養満点のスープを作って来てやる」
「旦那さまが作ってくださるのですか?」
「ああ。フムスの礼に作ってやろうと思って、こっそり星影に習ったんだ」
「楽しみです」
「そうだ、楽しみにして眠れ。……お休み」
わたしを寝台に寝かせて、旦那さまがキスを落としてくる。
目を閉じたわたしは、部屋の扉が閉まる音を聞いた。
三日三晩も寝ていたのだから、聞きたいことはたくさんある。
質問ばかりのわたしだったけれど、聞けないこともあった。
……旦那さまが皇帝になられたとき、わたしは隣にいられますか?
それは、どうしても口に出せない質問だ。
目が熱い。
わたしは頬を伝わる涙を手で拭いた。
旦那さまに、泣いていたと気づかれたくない。
不死者『美しき蠅の女王』が滅びた以上、SRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』の知識に価値はない。
あ、だけど、妖霊の能力を借りられる皇帝の妃というのは悪くないのではないかしら。使うと気絶してしまう能力もあるけれど。
でも妖霊たちが宿っている紅玉は旦那さまのものだ。
わたしは借りているだけ。
……それに。
旦那さまの嫁のままでいられたとしても、旦那さまの子ども、獅子獣人に変身する皇子や皇女の母親にはなれないかもしれない。
もう手で拭きとれる量ではなくなったので、わたしは頭から掛布をかぶって、涙に濡れた顔を布で覆った。




