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「……メシュメシュ」
旦那さまの低い声が、わたしの名前を紡いだ。
「“彼女”の魂の名前を呼んでくれ」
「は、はいっ!」
返事をしながらも、頭の中を疑問が渦巻く。
名前のない魔法使いは、魂の名前で呼ぶ前に不死者が纏っている魔力を削るべきだと言っていたのに、旦那さまはなにを考えているのだろう。
とはいえ、今のわたしにはほかにできることがなかった。
胸に紅玉の首飾りはあるけれど、『氷の鎖』は使ったばかりだし『雷の矢』に威力はない。
妖霊たちの残りの能力は、攻撃に適したものとは違う。
わたしは旦那さまに従って、その名前を口にした。
「蠅・臆病・恐怖・嘘つき・椿・芥子・骨」
前世プレイしたSRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』の中で見つけた、ななつの言葉。
ラスボス『死せる白銀の獅子皇帝』は魂の名前を知らない限り自己再生能力を発揮し続けるので倒すことはできないが、不死者『美しき蠅の女王』の魂の名前を知る必要はなかった。
ラスボス戦後の不死者戦はイベントのようなもので、主人公のペタロ王子が魔法の矢を放つことで決着がついたのだ。
彼女の名前は、旦那さまのものと間違えることを期待して散りばめられていたのだろう。
「うっ……」
デンドロ王が自分の口を押さえる。
押し寄せる腐臭と死臭のせいに違いない。
わたしも鼻が曲がりそうだ。
不死者の魂の名前を口にした瞬間、カメリアの体は溶け落ちた。
纏っていた魔力が消えたのだ。
膨らみを失い、着ていた服が床に滑り落ちている。
そこには、腐りかけた肉がこびりついた骸骨がいた。
びっしりたかった黒い蠅が、耳が痛くなりそうなほど羽音を響かせている。
ゥゥウウウオオォォォッ!!
アネモス王国すべてを揺るがすような、獅子の咆哮。
わたしの名前を呼んだ直後、旦那さまは神獣の姿に変身していた。
悪しきものを浄化する咆哮に黒い蠅は霧散して、後には腐肉に埋もれた骸骨が残った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
カメリアの言葉通り、旅装束の女性の名前はマルガリタだった。
旦那さまのハーレムからカメリアが嫁いだ商家に、代々住み込みで勤めていたのだという。
両親はすでになく、たったひとりの兄も数日前に亡くなっていた。──カメリアのお付きを殺した犯人とされた状態で。
密かに腐肉と骸骨を片づけた部屋で、マルガリタさんは語り始めた。
二階の騒ぎに駆けつけてきた宿の女将には、事情を話していない。
神獣姿への変身が解けるのには時間がかかるので、旦那さまはテーブルの下に隠れている。わたしはときどき手を伸ばして、銀の鬣を撫でていた。
「……ファダー帝国のハーレム出身といっても皇子さまのお手つきではないし、ハーレムで教育も受けている。しっかりしている反面気が強いのも、おっとりした若旦那さまには似合いだと、みんな思っていたのですが」
商家に嫁いだカメリアは、夫の死後息子が代を継いでも実権を振るい続ける姑と上手くいかなかったらしい。
「とはいえ大奥さまも、その、お年ですし、すべては時間が解決するだろうと。でもあの女、いえ、若奥さまは若旦那さまが仕事で出られた隙に男を連れ込んで、しかもその相手が兄さんだなんてウソをついて!」
マルガリタさんの兄はカメリアの夫の幼なじみで、親友だった。
彼女ははっきり言わなかったものの、おっとりしていたという主人よりも使用人である兄のほうが有能だったのではないだろうか。
嫉妬に怒った主人によって一度は店を追い出された兄妹だったが、主人の母親のとりなしもあって店に戻ることが決まったらしい。カメリアの浮気相手が町の遊び人だとわかって、誤解も解けた。
「若奥さまがお亡くなりになったのは、その矢先でした」
熱が出て昏睡状態になり、悪夢にうなされるかのような様子を見せた末に亡くなる。
悪夢病だ。
マルガリタさんは、そっと自分の両肩を抱いた。
黒い瞳に恐怖の色が浮かんでいる。
「結局、私と兄さんはお店に戻れませんでした。戻る前に、お店の人間がみんな死んでしまったんです。たった一夜で、化け物に襲われたかのように全身を引き裂かれて。近くの住人が死んだはずの若奥さまが血まみれで歩いているのを見たというので、役人が墓を確認しました。……空っぽでした」
店で働いていたころの人脈を頼り、兄は島々を巡って行商を始めた。
兄の帰りを待つ彼女の元に一通の手紙が届いたのは数日前だ。
アネモス王国の役人からで、兄が女性を殺して自殺したので、宿屋まで遺品を取りに来いというのだ。
「そんなことあるわけないと思いました。でも知らない土地での話だし、なんの後ろ盾もない私がなにか言ったって聞いてもらえないだろうし……もう若旦那さまも大奥さまもいらっしゃいませんし……遺品を返してもらえるだけありがたいと思って」
マルガリタさんが差し出した手紙には、アネモス王国の紋章が刻印されていた。
今も扉の外に立っているガルデーニヤさんは、これを見て彼女を城からの使いだと思って部屋に通したのだ。
お茶を持って戻ってきたベルカも、給仕の後で扉の外に行っていた。
デンドロ王が手紙を手に取る。
「この字は……マルガリタ、あなたは亡くなったカメリアのお付きは知らないのだね?」
「はい。大きな商家の若奥さまでしたからお店のものがお世話してましたけど、みんな死んでしまって……こちらに来る途中で知り合った方じゃないですか? 兄さんも知らなかったと思います」
「すまない。疑っているわけではない。ただ、この手紙の筆跡が彼女のものだったので、驚いただけなんだ」
デンドロ王の言葉に、マルガリタさんの顔から血の気が引いた。
「し、死んだ人が私に手紙を?」
「届いた日付からすると、殺される前に書いたものだ。もしかしたら彼女は、偶然会ったあなたの兄に話を聞いてカメリアに疑いを持ったのかもしれない。だがそれをカメリアに気づかれて、自分になにかあったときのことを考えて、あなたに手紙を書いたのだろう」
カメリアはアネモス王国の城で暮らしていた。
お付きの女性も一緒だ。
「生前の彼女は私と親しかった。執務室に招くこともあったから、こっそり紋章の刻印を捺すこともできたと思う。カメリアは、彼女の死の悲しみに沈む私を慰めてくれた。悪い女性ではなかったと思うのだが」
「俺たちが魔法で幻影を見せたとでも?」
「いいえ、バドル皇太子殿下。カメリアは生きた人間ではなかった。それは事実です。精霊の水晶玉を光らせる以上のことはできない私でも、さっき起こったことが幻影ではなかったことくらい感じていますから。ただ……いえ、なんでもありません。不死者はきっとカメリアの姿を借りて、生前の彼女を真似ていたのでしょう」
「そうだな。もう貴殿の中に『操りの虫』はいない。彼女が不死者で間違いはないようだ」
「え……っ?」
「俺には悪しきものの気配がわかるんだ。本体が消えて、ほかの悪夢病患者も回復しているのではないかな。悪夢病は病気ではない。不死者が自分の魔力を蠅に変えて他人に寄生させ、相手の魔力を奪っていたんだ」
「だから薬師にはなにもできなかったんです」
「薬師さま……そうでしたか。私は、そんなことすら気づいてなかった……」
いくつかの事後処理を相談して、旦那さまの変身が解けたころに、わたしたちは城へ戻った。マルガリタさんも、しばらく城に滞在することになった。
彼女の兄の遺品と遺体は宿屋ではなく城で保管されている。
──どうしてカメリアのお付きは、デンドロ王に相談するのではなく、マルガリタさんを宿屋に招いたのだろうか。殺されるとまで思わずに、以前のカメリアを知るものを集めようとしていたのだとしたら、今度は手紙の文面がおかしくなる。
わたしに魂の名前を呼ばせた旦那さまの行動も腑に落ちない。
まだなにも終わっていない、そんな気がした。




