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「……まさか聖女のお力なしに悪夢病を完治してしまうとは、さすがファダー帝国の薬師さまであらせられますな」
訪問者はアネモス国のデンドロ王だった。
サーヘルさんの病気が治っていることを知って、黒い瞳を丸くしている。
ホーフさまが微笑んで、手のひらでわたしを示した。
「いいえ。残念ながら豹獣人の母から受け継いだ薬学では、悪夢病に効く薬を作り出すことはできませんでした。夫を治してくださったのは、こちらの皇太子妃殿下でいらっしゃいます」
宿屋のテーブルを囲んだ人々の視線を浴びて、わたしは縮こまった。
ホーフさまご夫妻が借りている部屋だが、今は旦那さまとわたしが上座にいる。
駆け落ちされたときに、ホーフさまは帝国貴族の地位を捨てた。取り上げられたのだ。
わたしたちのつぎに地位の高い座席には、デンドロ王が座っている。
デンドロ王の隣に腰かけたもうひとりの訪問者、カメリアの青い視線が鋭い。
今日はお忍びということらしく、国王はカメリアのほかにひとりの護衛しか連れていなかった。ルルディちゃんの母親のガルデーニヤさんだ。彼女は侍女であると同時に優れた戦闘能力を持つ護衛で、亡くなった夫は傭兵団の団長だったという。
ルルディちゃんによく似た銀髪のガルデーニヤさんは、扉の外に控えている。
わたしたちの護衛のティーンさまは旦那さまの隣に立ち、ベルカは一階の厨房に追加のお茶をもらいに行っていた。
「それは素晴らしい」
デンドロ王の称賛に、旦那さまが苦笑を漏らす。
「妖霊の加護を受けているとはいえ、俺の嫁に治療できるのは一日ひとりがいいところだ。しかも治療した後で寝込んでしまう。聖女の力には到底及ばない」
カメリアの表情が明るくなった。
旦那さまは言葉を続ける。
「聖女を遣わされたのは、アネモスを思うデンドロ殿の想いが神に届いたからであろうな。……いや、魔法使いとしてのお力の賜物か?」
デンドロ王の顔色が曇る。
彼は首を横に振って見せた。
「私の魔法使いとしての力など、即位のとき精霊の水晶玉を光らせたことで終わりました。近海に出没する魔獣退治も傭兵団を雇って行わせています」
「彼らの武器に魔法属性を与えていらっしゃるのだろう?」
「気休めのようなものです」
「謙遜することはない。島王国の王が優れた魔法使いだということは、最初から知っている。今さら脅威に感じたりするものか。ファダー帝国とアネモス王国は友好国なのだからな」
「いえ、あの……はい」
デンドロ王は反論を飲み込んだ。
旦那さまの言葉の真意に気づいたのだろう。
一国の王が正直過ぎるのは問題だ。他国の代表に実力を打ち明ける必要はない。
しばらく言い淀んでから、彼は再び唇を開いた。
「……援助もいただいた身で図々しいお願いですが、皇太子妃殿下と薬師さま、悪夢病の治療に協力してもらえないでしょうか? もちろんご無理のない範囲で結構ですので」
「どういう意味ですの!」
立ち上がったカメリアが、デンドロ王を見つめて叫ぶ。
「わたくしにご不満でもおありなのですか?」
「違う。あなたには感謝している。感謝しているからこそ、あなたにも幸せになってほしいのだ」
「……国王陛下?」
苦痛に満ちた表情で、デンドロ王はさっきわたしたちがホーフさまから聞いた聖女伝説を語った。
患者を癒せなくなった聖女は、残った患者とともに海へ出る──
知らなかったのか、カメリアの顔色が一瞬で青白く変わった。
旦那さまが鼻で笑う。
「散々利用された後は水葬されるというわけか。そんな扱いに耐えられるとは、聖女とは慈悲に満ちた無私の存在だな。最後の患者を始末する役目まで受け持ってくれるのだしな」
わたしは彼を睨みつけた。
役立たずの皇太子の演技を続けていらっしゃるのだろうけれど、命のかかった話で、人をバカにするような態度を取るのは良くない。
「そんな……」
カメリアが、ぺたんと椅子に腰を落とす。
デンドロ王は慈愛に満ちた瞳で、彼女を見つめた。
「そうならないようお願いに来たのだ。あなたのお力を信じている。だが、すべての患者を癒すことのできた聖女はいない」
金の髪を揺らし、カメリアが首を横に振る。
デンドロ王の言葉を否定しているのではなく、耳に入っていないようだ。
俯いた彼女の青い瞳は、なにも映していない。
「……そんなバカな。おかしいわ。だってわたくしは聖女になって、今度こそ幸せな結婚をするはずよ? そうよ、邪魔ものはもういないわ。わたくしはこんなに美しいんですもの。高貴な方に見初められて、いつまでもずっと……あの女っ!」
ブツブツと呟いていたカメリアは、不意に立ち上がり部屋の扉を睨みつけた。
「わたくしを騙したのね! イヤな仕事をやらせておいて、わたくしがいなくなった後ですべてを手に入れるつもりだったのだわ!」
ふっと、扉が開く。
ベルカがお茶を持ってきたのではなかった。
見知らぬ女性がそこに立っていた。
茶色い髪に黒い瞳、白い肌は日に焼けている。島王国の女性だ。
アネモス王国の住人ではないのか、旅装束に身を包んでいた。
陰鬱な表情でうな垂れていた彼女は、室内に足を踏み入れて顔を上げた。
部屋の様子を見て、怪訝そうな表情になる。
「あ、あの……アネモスのお役人さまですか? 私は、この宿屋で亡くなったという兄の遺品を引き取りに来た……」
わたしたちを見回しながらお辞儀を繰り返していた彼女の黒い瞳が、カメリアのところで止まった。カメリアも訪問者を瞳に映して止まっている。
茶色い髪の女性は、やがてふるふると震え始めた。
ふたりの動きに合わせて時間が止まったような気がしていたが、実際は一瞬だったのだろう。
女性がカメリアを怒鳴りつけた。
「こ、この毒婦っ! 兄さんが女の人を殺して自殺しただなんて、おかしいと思ったのよ。またあんたの仕業ね。若旦那さまを誤魔化すために誘惑されたなんてウソをついて、兄さんをお店から追い出しただけじゃ足りないわけ?」
「黙りなさい、マルガリタっ!」
ふたりは顔見知りのようだ。
「黙るもんですかっ! あんたが浮気してた相手は兄さんじゃなくて……え?」
マルガリタと呼ばれた女性の黒い瞳が丸くなる。
彼女は後退し、閉まっていた扉に背中をぶつけた。
「なんで? なんであんたがここにいるの? カメリア、あんた死んだじゃない。若旦那さまや大奥さまたちが殺される前に病気で……お店の人たちを殺したのは、噂通り墓から蘇ったあんただったの?」
「黙れと言ってるのよ!」
カメリアは椅子を倒して立ち上がり、マルガリタにつかみかかった。
ほかの人間はだれも動けないでいる。
ふたりの会話は耳に入っていたものの、それがなにを意味しているのかがわからない。
「いやあぁ、化け物っ!」
女性に突き飛ばされて、カメリアの体が床に転がった。
カメリアの唇から、黒い塊が飛び出す。
──蠅の群れだった。
数百匹はいる。
黒い蠅の群れが、怯えた顔で硬直している女性へと襲いかかる。
ティーンさまが身構えた。しかし小さな虫の群れに、獣人の攻撃は効くのだろうか。




