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……ふぇっく、えっく。
子どもの泣き声で目が覚めた。
ここはアネモス王国の城、客室の寝台の上。
旦那さまとわたしの真ん中で、ペタロ王子が泣いている。
体を丸めて、声を殺して。
「……王子さま?」
声をかけると、ビクッと体を震わせて、おそるおそる顔を上げる。
「ココ姉上……」
「怖い夢でも見ましたか?」
王子は無言で首肯する。
わたしは彼の頭に手を伸ばし、そっと撫でた。
金髪の巻き毛は柔らかく、手のひらに心地良い。
少しだけ逡巡して、王子は口を開いた。
「……僕が発見したんです」
なんのことかわからなかったけれど、聞き返すのはやめた。
その代わり、彼の言葉の続きを待つ。
「朝、みんなでカメリアのお付きを捜してて、変な匂いがしたから行ってみたら、黒焦げになった死体があって……それから毎晩、夢に見ます。追いかけてくるんです」
「それは怖いですね。お父さまに一緒に寝ていただいたりはしないのですか?」
「父上は忙しいのです。毎晩遅くまでお仕事をなさってて。だから早く、楽隠居してもらおうと思ってるんです。僕ならもっと早くできるかなって」
子どものこの、根拠のない自信はどこから来るのだろう。
でも根本にあるのは父親への愛情だ。
ペタロ王子が唇を尖らせる。
「前は……カメリアのお付きがいなくなるまでは、怖い夢を見たり寒かったりする夜はルルディの母が、母上の話をしながら添い寝してくれたんです。ルルディも一緒です」
少年は溜息を吐いた。
「でも今はべつのお仕事をしているし、僕とルルディがふたりだけで寝ると彼女の名誉を傷つけるかもしれませんし……父上がカメリアと一緒に楽隠居してくれたら、父上は休めるし、カメリアに新しいメイドをつけて、ルルディの母に僕のところへ戻ってもらうこともできるし、良いと思うのですが」
「……お城はいろいろな決まりがあるから、なかなか難しいですね」
「そうなのです! 確かに僕はまだ十五歳じゃないですが、こないだこっそり精霊の水晶玉に触ってみたら、ちゃんと光りました。即位してもいいと思うんですよ」
そこまで言って、小さな体がブルッと震えた。
最近おねしょが多いらしい。
旦那さまが、寝る前に彼をからかっていたっけ。
「一緒にお手洗いへ行きましょうか?」
「い、いえ、悪いです。……だって、廊下の隅の暗闇とかから、あの黒焦げの女が現れるかもしれませんから!」
「それじゃあ、絶対についていかなくてはね」
わたしは首飾りの紅玉を持ち上げて見せた。
ちょっと肩が凝るのだけれど、こちらにいる間は肌身離すなと旦那さまに言われている。
蒼い瞳が丸くなった。
「そっか。獅子さんや熊さんがいたら安心ですね。そういえば、ファダー帝国には蛇の人もいるんでしょう? 蛇さんの妖霊はいないんですか?」
「いますよ。でも彼は、満月のとき以外は眠っているの」
「ネボスケさんですねえ……くすすっ」
ペタロ王子の笑顔に、なんだか胸が温かくなる。
「……ココ姉上」
「なんですか?」
「あの、暗闇の近くを通るときは、どうするのが一番いいと思いますか? もちろん今夜は狼さんや虎さん、豹さんもいますけど……ココ姉上はいつか帰ってしまいますし」
「そうですねえ。ランプを持って歩くのが一番いいのではないですか?」
「それだとランプの周りは明るいですが、暗闇はさらに濃くなりませんか?」
「なるほど。王子さまは頭が良いですねえ」
「そ、そんなことないですけど。……それに、暗闇に背中を向けたとき、後ろからなにかがついてくるような気がすることがあるんです」
「背中にもランプを背負うのはどうでしょう?」
本気で言ったのに、ペタロ王子はぷふーっと吹き出した。
あら? わたしたちに背中を向けている旦那さまのほうからも、同じような笑い声が聞こえてきた気がする。
旦那さまがこちらを向いた。いつから起きていたのだろう。
「メシュメシュ、それは火傷する」
「そうですよ、ココ姉上」
「王子、素直に部屋の外にいる衛兵に同行を頼めばいい。メイドだっているだろう? 怖いくせに見栄を張っても、おねしょ王子の噂が広がるだけだぞ」
「もー! ココ姉上の前で悪評を流さないでくださいよ」
「まあいい。とりあえず今夜は、俺もつき合ってやろう。妖霊の解放者と、砂漠から来た獅子の皇太子が一緒なら、なにも怖くはないだろう?」
旦那さまが体を起こすと、王子も立ち上がった。
寝台から降りた旦那さまは、ぐるりと部屋を見回すと、テーブルに飾られていた白百合を一輪引き抜いて、王子に渡す。
「今度からは武器を持て。暗闇が気になるときは突いてみろ」
「向こうから引っ張られたら、どうしましょう」
「少し引っ張り合いをして、相手が本気になったら離してやれ。勢いあまって転んでしまうから、しばらく追いかけてこれないぞ」
「ふむふむ」
ペタロ王子は頷きながら、受け取った百合の花を振り回す。
「暗闇にいるのは迷い猫の可能性もある。確信できないときは武器よりも、こういうもののほうがいいかもしれないな」
「猫の鳴き真似の上手い衛兵かもしれませんしね」
「ああ、そうだ」
視線を交わして笑い合うわたしたちを、ペタロ王子は不思議そうに見ていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
少しホコリのついた白百合を花瓶に挿して、わたしたちは寝台に戻った。
旦那さまとわたしの間に横たわり、ペタロ王子が安堵の息を吐く。
「今夜の暗闇には、なにもいませんでした」
「良かったですね」
「ココ姉上と皇太子さまのおかげです。僕、次からはちゃんとひとりで行けます」
「無理をするなと言ったぞ? 怖いときはちゃんと、周りに助けを求めろ」
「みんな忙しいですから」
旦那さまは笑って、王子の頭を撫でる。
「未来の国王陛下より優先するものなどないだろう?」
「だからって、甘え過ぎてはいけません」
「王子さま」
「なんでしょう、ココ姉上」
「おねしょした布団や服を洗うのも大変なことですよ? 一緒にお手洗いに行くのなら、あっという間じゃありませんか」
ペタロ王子は、蒼い瞳を見開いた。
「その発想はありませんでした! 確かにそうです。僕、考えたつもりで、なにもわかっていなかったのですね」
「五歳なんだから当たり前だ」
「でも僕、ちゃんと……ちゃんとしないと。アネモス王国の王子として」
「ペタロさまはもう十分、ちゃんとした王子さまですよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
わたしは彼に頷いて見せた。
少年は、ホッとしたような顔であくびを漏らす。
「ココ姉上、皇太子さま、眠くなってきました」
「おやすみなさい」
「おやすみ。また行きたくなったら、遠慮なく俺たちを起こすといい」
「もう大丈夫です」
ペタロ王子が瞼を降ろす。
そのまま眠るのかと思ったら、彼は薔薇色の唇を開いた。
「……僕、お付きの死体を見つけたとき、カメリアが犯人かと思いました。ふたりは一ヶ月ほど前アネモス王国に来たんですけど、父上は温和で優しいお付きのほうを気に入っていたんです。それで嫉妬したのかなって。でも犯人はべつの人だったので、僕、疑ったのが申し訳なくて。カメリアは自分も辛いでしょうに、悲しみに沈んだ父上のことを慰めてくれました。だから……すう」
ひとり言のような呟きが唐突に、寝息に変わった。
旦那さまが微笑んで、ペタロ王子を見つめる。
「この年ごろの子どもは、いきなり眠るから驚くな。お前の妹もだった」
砂糖きびの圧搾所へ行った日、宮殿に帰ってもファラウラは興奮していて、熊の耳と尻尾を出して部屋中を駆け回った。最後は旦那さまの頭によじ登り、そこで眠りに就いた。
「頭上で眠られて、どうすればいいか混乱したぞ。俺の髪を握り締めていたしな」
「……ご迷惑をおかけしました」
「まあいい。俺とお前の子どもを育てるときの練習だと思えば楽しいものだ」
「旦那さま……」
「もっと情報を集めて、早く初夜を済ませよう。ティーンとベルカに知られてしまったからな。……同情の目を向けられているのが辛い」
同情というか、心配してくれているのが伝わってくるので、わたしも少し辛い。
旦那さまはペタロ王子の上に手を伸ばして、わたしの頬を指で辿る。
「おやすみ、俺のメシュメシュ」
「おやすみなさい、旦那さま」
目を閉じて、ぼーっと考える。
ゴーレムの見た夢で、ゲームの主人公が見たと言っていた女の幽霊とは、さっき話していたお付きのことだったのかもしれない。
SRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』本編へ向かう道筋は、今も変わっていないのだろうか。
そうでないことを祈りながら、わたしは眠りの淵へ落ちていった。




