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最後まで魔法使いが名乗らなかったことを、別れのときジャズィーラが謝ってくれた。
自分の名前も覚えていないほど幼いころ悪い魔法使いに売られた彼は、その後も人間としてではなく実験体として扱われたため名前がなく、水賊時代も『兄貴』『親分』と呼ばれていたのだ。
そして『かんらん石』はソーバーン王女の想い出が詰まり過ぎていて、ほかの人間に呼ばせたい名前ではなかった。
会ったとき口に出したり、妖霊の名前にしたりして悪かったかしら。
妖霊は、今のところ名前を付けたわたしの頼みしか聞く気がない。
名前のない魔法使いは今後も宝石に魔力を注ぎ込んで、守護者の作成を続けていくつもりだという。
旦那さまとわたしが不死者を倒すことを確信しているのではなく、彼の体から『操りの虫』がいなくなったからだ。
残念ながら、洞窟に響いた旦那さまの咆哮で浄化されたのではない。
魔法使いの言った通り、旦那さまの咆哮は悪しきものがなにかに覆われていると効かないようだ。
あのとき旦那さまが咆哮したのは、もちろんわたしのためもあるが、自分の力を確かめるという目的もあったと思う。可能なら、偶然を装って魔法使いも救いたかったのではないかしら。
悪い人間でないとはいえ、彼は誘拐犯だ。
簡単に許して、あっさり助けるわけにはいかない。
そういえばゲームの中でジャズィーラが使っていたサイコロ、もしかしたらあれは父親の創った守護者だったのかもしれない。話したりはしなかったけれど、出目によって不思議な現象を巻き起こしていたのだもの。
──紅玉に宿った七体の妖霊の能力を借りるには、さまざまな制約があった。
一番制約が厳しいのは『かんらん石』の影走り。
満月によってできた影を通って、血族や心の通じた相手のところへ行く能力だ。
当然満月の夜にしか使えなかった。
でも旦那さまのところへ行けるから便利かも。
『翡翠』の影纏いは逆に、満月の夜は使えない。
影を纏って姿を変えられる代わり、影がなくなるので不自然この上なかった。
頭に新月とつけられて語られるのが定番だが、満月でさえなければ使うことができるようだ。
『青玉』の遠見と『瑠璃』の未来視は、妖霊の感覚で語られるので、どういうことなのかわかりにくい。
後になって、ああ、このことだったのか、と思うのだろう。
『紫水晶』の泥中の花は、一番わたしと相性が良いらしい。
良いらしいのだけど、周囲に怪我人がいないので、まだ試していなかった。
泥中の花はその名の通り、魔力の泥から花を生じさせる能力だ。
その花は怪我を癒してくれる。
『紅玉』とは一番相性が悪い。
わたしは泥属性の魔力が強いらしくて、彼の雷の矢を弱らせてしまうのだ。
指の先を火傷するほどの雷しか放てなかった。木版に焼き目を付けて、一か月くらいかけて一枚の絵を作り上げるときにいいかもしれない。
そして『金剛石』──
妹の護り石と同じだからか、彼の能力は役に立った。
相性は悪い。紅玉とは逆に、氷の鎖を使うとわたしのほうが疲れてしまう。
けれど疲労を受け入れて損はないほどの利点があった。
氷の鎖は相手の影に触れて、そこから魔力を送り込んで動きを止め、相手の魔力を引き出す能力だ。
不死者相手では使えないだろう。素直に影を触らせてくれるとは思えない。
わたしと金剛石の氷の鎖には、『操りの虫』一匹を捕縛して引きずり出す程度の力しかないし……でも、それで十分だった。
魔法使いの体内から『操りの虫』を駆除したのは、わたしなのだ。
外の光を浴びて、『操りの虫』は溶けた。
蠅にはならなかったので、不死者の元へは戻っていない。
「いろいろありがとな、お客人」
「ありがとう」
「「ありがとうございます」」
魔法使いとその娘、ふたりの侍女が船を見上げて頭を下げる。
一ヶ月ほど前、魔法使いがジャズィーラの『操りの虫』に気づいた時点で、不死者は四人が住んでいた町から姿を消した。魔法使いはそれを機に、娘が成人したら移住して研究に励もうと思っていた、当時無人のあの島へやって来たという。
彼らの島は、水晶洞窟に封じられていた妖霊を解放したために、霧とゴーレムの護りを失ってしまった。
ゴーレムはもう動かない。
両手を打ち合わせているときに止まらなくて良かったと思う。
防御がなくなって危険なので、彼らはわたしたちの船に乗り、近くの島の港で降りた。アネモス王国への航路の途中にあり、ほかの土地へ向かう航路もある、海の交差路のような島だ。
彼らは船を乗り換えて、旦那さまの書いた手紙を手にダルブ・アルテッバーナのアフアァ女王に会いに行く。
ファダー帝国でも良かったけれど、ジャズィーラが母方の親戚に会いたがったのだ。
魔法使いは王女誘拐犯としてずっと指名手配されていたが、アフアァ女王が即位した時点で指名手配は外されていた。大手を振って女王国を歩ける。
わたしたちの船が動き出す。
「……ジャズィーラ、気をつけてくださいね」
「お姉さんも」
船を追って、ジャズィーラが桟橋を走る。
くすんだ碧色の瞳が潤んでいた。
「ありがとう、本当にありがとう。父ちゃんを助けてくれてありがとうー!」
大きく手を振る彼女に、わたしも甲板から手を振り返す。
あまり話していないけれど、ゲームでの知識もあって勝手に親近感を抱いていた。
なんだか寂しい気分になったわたしの肩を、隣に立つ旦那さまが引き寄せる。
「旦那さま……」
「やっぱりお前もここで降りるか? 今なら船は停められる」
「アネモス王国に着いたからといって、すぐに不死者と戦うわけではないでしょう。彼女の魂の名前はわたししか知りませんし、『操りの虫』を駆除することもできます」
「……それが心配なんだ。魔法使いの体内から取り除いたとき、自分がどんなに真っ青だったかわかっているのか? しばらく体の力が抜けて動けなかったじゃないか」
「約束は守ります。一日一回、死に瀕した方の『操りの虫』しか駆除しません」
「そう願いたいものだな」
溜息を漏らす旦那さまに寄り添う。
心配をおかけするのは心苦しいものの、少しでもお役に立てる方法が見つかって、わたしは嬉しかった。
妖霊たちが能力を使うとき、消耗するのは彼らと一緒に宝石の中に吸収された水晶洞窟の魔力で、わたしの魔力ではない。
島を守っていたゴーレムほど大きな魔法ではないので、起動のための魔力が必要なわけでもない。
ではなぜわたしが体調を崩すかというと、それは反動のせいだった。
宝石に宿った妖霊たちが魔法を使うということは、前世でいうところの銃を撃つのと同じことらしい。……守護者を召喚するときに主人公の体力が減る理由として、攻略本のコラムに書いてあった。
前世で銃を撃ったことのないわたしが、現世で妖霊たちの能力発動の反動に慣れるには、時間がかかりそうだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
正規の航路に戻ったら、アネモス王国まではすぐだ。
妖霊を解放して五日目に、わたしたちはアネモス王国の港に降り立った。
旦那さまが来ることはとっくの昔に伝えてあるし、彼が魔獣に襲われたことも、わたしが捜索に出航したことも連絡している。着くまではだれがしもべかわからないので、不死者に関することだけは秘密にしていたけれど。
「ようこそ、バドル皇太子殿下」
港で待っていたのは、アネモス王国の現国王だろうか。
茶色い髪と日に焼けた肌、黒い瞳。島王国に多い色合いの男性だ。
島王国風の正装を纏い、船から降りた旦那さまに歓迎の意を表す。
わたしは絶対に旦那さまを見つけるつもりだったので、旦那さまを見つけた後でこちらへ向かうことも考えて、船には薬と食料品を積んでいた。
アネモス王国の人々は薬に意味がないことを知らないし、多くの働き手が『悪夢病』で床に伏している今、食料品は貴重だろう。
国王は二十代後半、少し線は細いものの、健康そうな男性だった。
……二十代後半?
だったら十年後は三十代後半、せいぜい四十代初めのはずだ。
『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』本編でいきなり亡くなったのは、どんな理由だったのか。……落馬とか?
「我が国の危機に足をお運びいただき、誠に感謝しております。最初の船が怪物に襲われたと聞きましたが、大丈夫でございましたか? 最近この辺りの海域で、見慣れぬ魔獣が増えております。親愛なるファダー帝国への報告が遅れ、申し訳ありませんでした」
「自国が大変なときだ。気にするな。それに」
旦那さまは、隣のわたしを引き寄せる。
え。なんで今? いつでも嬉しいけれど、他国の代表を前にするのは問題では?
背後のベルカとティーンさまも驚いている気配が伝わってくる。
彼女たちの後ろには、操船の当番でないハーレムの女性たちも控えていた。
三十名ほどだ。
部下の人数は力の強さを表すし、これだけのものが助けに来たのだと安心も与えられる。
アネモス国王の周囲にも、多くの高官と侍女や従者が立っていた。
「怪物に襲われたというのはウソだ。兄上につけられた護衛が男ばかりでむさ苦しかったのでな、近くの港の娼館で嫁とハーレムの女たちを待っていた」
「……そ、そうでございましたか。これはご健勝なことで」
アネモス国王は真っ赤になって俯いた。
主人公の王子様を産んで王妃が亡くなっても、彼は彼女ひと筋で、周囲の勧める再婚話を断り続けていると聞いている。
……この世界の出産における死亡率の高さ、なんとかできないものかしら。
ジャズィーラの母親の死因はなんだったのだろう。
コブターンの妻は、奴隷だったせいで体が弱っていたのかもしれない。
アネモス国王の王妃も最初から病弱だったという可能性もある。
わたしの泥中の花は獣人の超回復と同じで怪我にしか効果がないというし、世の中はままならない。
それにしても、旦那さまはなにを考えているのだろう。
国外ではこれまで通り、役立たずの皇太子を演じるつもり?
わたしが首を傾げたとき、
「騙されてはいけませんわ、デンドロ国王陛下。バドル殿下は悪ぶっていらっしゃいますけれど、本当はとても賢く偉大な方ですのよ。わたくしたちのことも妾になどせず、良い縁談を世話してくださいましたの」
甲高い声を上げて、国王の背後にいた女性が前へと進み出た。
金の髪に白い肌、青い瞳。
華やかな衣装に身を包んだ、二十代前半の美女だ。北の大陸出身と思われる。
王家の関係者だろうか。
旦那さまが顔色を変え、低い声で呟いた。
「……カミリヤ。どうしてここに?」
「こちらではカメリアと呼ばれております。意味は同じですわ」
『椿』?
旦那さまには教えていないが──教えたら帝国へ帰れと言われそうだったから──それは『美しき蠅の女王』の魂の名前のひとつだ。珍しい名前ではないけれど。
デンドロ王が微笑んで、カメリアという女性について紹介してくれる。
「彼女は聖女なのです」
「聖女とは?」
「我が国に流行している病気を治す力をお持ちの方です。美しく心優しく、神に等しい力を持った彼女は、聖女としか呼びようがない」
「イヤですわ、陛下。すべては偉大なる神のお恵みです。同じ病気で夫を亡くしたわたくしの苦しんでいる方々を救いたいという思いに、神が応えてくださったのですわ」
「……奥方さま」
後ろのベルカが進み出て、わたしの耳に囁いてくれる。
「……北の大陸から売られてきたとかで、昔ハーレムにいた女です。島王国の商人に見初められて嫁いだんですが」
「あらぁ、ベルカではなくて?」
カメリアがベルカに駆け寄る。
「懐かしいわ。星影さまとは上手く行っていらっしゃる?」
ベルカは苦虫を噛み潰したような顔になった。
あまり仲良くはなかったようだ。
「カミリヤ、いやカメリアさま、皇太子殿下と国王陛下の御前です」
「うっふっふ、失礼いたしました」
彼女はデンドロ国王の隣に戻った。
初めからそこにいたのではない。高官らしき老人が不機嫌そうな顔で場所を譲る。
デンドロ国王は老人の視線に気づかないようで、カメリアを見つめて頬を赤らめていた。
ふっと、彼の服の裾が動く。
後ろから小さいなにかが飛び出した。
小さいなにかが旦那さまに花束を差し出してくる。
「バドル皇太子さまとお妃さま、アネモス王国に来てくださってありがとうございます。僕は、この国の王子のペタロです」
「……お前が」
旦那さまが唸った。
そうだ。そうだった。主人公の王子さまの公式名称は『ペタロ』だ!
友達は『ぺー太郎』と呼んでいたっけ。
金色のクリクリ巻き毛に白い肌、海を映した澄んだ瞳。
可愛いなあ。ファラウラやクークちゃんと並べて絵を描きたい。雷の矢で木版に焼き目をつけていこうかしら。
くすんだ暗い青、蒼色の瞳がわたしを見つめる。
旦那さまに花束を渡した後、花束から抜いたと思われる一輪の花をわたしに差し出して、五歳のぺー太郎くんは言った。
「あなたは、運命を信じますか?」
……こんな子だったっけ?




