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旦那さまが行方不明になったという連絡を受けてから五日、海へ出て三日目。
わたしは白い霧に包まれた船上にいた。
腕を伸ばしても指先が見えない。
狩りのときの朝霧とは比べものにならないほど濃い霧だ。
「……うぇっぷ」
ティーンさまは手すりから身を乗り出して、海へ吐しゃ物を吐き続けている。
彼女は船酔いしているのだ。
わたしも元気いっぱいとは言えない。
現世で味わう船旅は、前世ゲームで遊んだときとはまるで違う。
旦那さまに伝えたゲーム知識も、役に立つものではなかったのかもしれない。
わたしはティーンさまの背中を擦り、お礼の言葉を口にした。
「船が苦手でらっしゃるのに、ついてきてくださってありがとうございます」
「……皇帝陛下のご命令ですから。それに、いくら本人が行きたがっても、女ばかりの船に弟を乗せるわけにはいきません」
わたしは胸の、紅玉の首飾りを握り締めた。
これは旦那さまを捜す旅だ。
旦那さまを好敵手と信じるゼェッブさまは当然同行を希望したが、ハーレムの女性たちが動かす船だということでお断りした。
代わりにティーンさまが来てくださった。
愛する皇帝陛下と離れ、毎日船酔いに苦しんでいらっしゃることは本当に申し訳ないと思うものの、わたしには戦いに長けた獣人の助けが必要だった。
申し訳ないといえばネムル・アルカトさまとクークちゃんだ。
祖母愛に目覚めた虎夫人と、上手くやっていると良いのだけれど。
あの方はたぶん最初から祖母愛に目覚めていたと思うのだが、どうも出すのが上手くないというか不器用というか。
それにしても……皇帝陛下は、どうしてわたしの渡航を許してくれたのかしら。
わたしになにかあったら、ファダー帝国とマズナブ王国の友好が瓦解するかもしれないのに。もちろん、そんなことにならないよう父さまに手紙は出してきた。
陛下は、信頼に値する知識がわたしにあると思ってくれているのかもしれない。
各地から集められた魔獣の絵に特徴を記したことも褒めてくださったっけ。
ギシッと甲板を踏む音がして、わたしは振り向いた。
「……」
白い霧を抜けて、赤茶の髪を肩のところで切りそろえた赤銅色の肌の女性が現れた。
この船の船長、ボハイラだ。
隣にはベルカがいる。
ベルカはティーンさまと交代でわたしの護衛をしてくれつつ、ほかのハーレムの女性たちと一緒に船の運航に携わってくれていた。
五十名前後の女性たちが、交代で船を動かしてくれている。
ハーレムの女性たちといえば、旦那さまに言われていたこともあって反感を向けられるのを覚悟していたのだけど、今のところなにもない。
わたしの心の中が旦那さまで占められているせいで、気づいていないだけだろうか。
上手くやっていけているのなら、それでいいのだが。
「なにかありましたか?」
「……」
「ボハイラは、奥方さまに驚いたと言ってます」
ベルカが通訳してくれる。
小柄で、ベルカの胸くらいまでしか身長のないボハイラが頷く。
「なにをですか?」
わたしは首を傾げた。
こんな霧の中を進んでくれている彼女に、驚いているのはこちらのほうだ。
絶対的な方向感覚の持ち主なのだろう。
ハーレム一の操船技術を持つ無口なボハイラには今後も世話になる。
それに、本当に驚かれることをしてもらうのは、これからだ。
「……」
「その、ボハイラは皇太子殿下の護衛たちの証言を信じていなかったそうです。魔獣に襲われたと言っても船に損傷はない。皇帝陛下の護衛団から選ばれた乗員に傷がないのは獣化の超回復で癒したのだとしても、彼らが話す魔獣の特徴はあやふやで一致していない。だから……」
言いにくそうなベルカの代わりに、わたしが続きを引き継いだ。
「突然現れた霧で迷い、巨大な魔獣に襲われたなんて嘘で、なにものかの命を受けた彼らが、旦那さまを亡き者にしたのではないかというのですね?」
ボハイラが頷いた。
皇帝陛下の護衛団は獣化できることを前提とした貴族の子弟で構成されていて、奴隷として生まれ育った旦那さまに良い印象を持っていないものが多い。
「……」
「なのに奥方さまの指示通り進んだら、本当に霧が満ちた海域に辿り着いた。この位置と距離なら、真珠月の気まぐれな風がアネモス王国への航路へ霧を運んでもおかしくない」
「……」
「まあそれにしても、前の男たちの操船技術の未熟さには反吐が出るが……って、奥方さまの前で汚い言葉使うんじゃないよ、ボハイラ」
「いいのよ、ベルカ」
と言いながら、わたしは驚いていた。
無口なボハイラの顔色をベルカが読んでるんじゃなくて、ボハイラが小声でしゃべってるのを聞いたベルカが教えてくれてたの?
獣化できなくても、ベルカにはちゃんと豹獣人の鋭敏さが備わっているらしい。
ズシィ……ンッッ。
どこかで、重いものがぶつかる鈍い音がした。
さっきからずっと、ほぼ同じ感覚で聞こえてくる。
霧に入ってから聞こえ出し、少しずつ大きくなっていく。
わたしたちは間違いなく目的地に近づいているようだ。
見えないとわかっていても、白い霧に手を伸ばす。
「音のする方向へ。ギリギリで船を停めてください」
「……」
ボハイラが頷き、船の運航業務に戻っていく。
後に続いて、ベルカも白い霧の中へ消える。
ほかのハーレムの女性も優れた操船技術を持っているが、細やかな運航にはボハイラが必要で、そのボハイラの言葉を伝えるにはベルカの通訳が必要だ。
船長直々にわたしのところへ来たのは、このまま進んでいいか確かめるためだろう。
ティーンさまが口を押さえ、また手すりから乗り出した。
わたしたちの目的地はゴーレムに守られた女海賊の島。
──旦那さまの護衛たちは、霧に包まれたとき風はなかったと証言していた。
そう、当然だ。
この霧は魔法の霧。気まぐれな真珠月の風には流されない。
そうしてずっと女海賊の島を守ってきたのだ。
彼女のためではなく、最初に島に住みついた探究者の望みのままに。
女海賊は探究者の死後、主人を失った島で暮らしているだけだ。
魔法の霧を動かせるのは魔法使い。
探究者でない北の大陸や島王国の魔法使いも、常に魔力を欲している。
優れた魔法使いならば、旦那さまが神に与えられた祝福に気づき、その力を求めても不思議ではない。
SRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』本編より十年前の今は、女海賊の父親が生きている。夏の夕月かんらん石月生まれの彼女が持っていた護り石と同じ、碧の瞳の魔法使いが。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ズズズシイイィィンッッ。
白い霧が動く。
巨大な黒い岩の手が、何度も何度も打ち合わされる。
探究者の創り出したゴーレムは、頭と腕しか持っていない。
腕がぐるりと小さな島を取り囲み、両手を打ち合わせることで侵入者を拒む。
頭は島にそびえる山で、中には妖霊を封じ込めた水晶の洞窟がある。
海に面した部分の山は断崖絶壁で入る手段はなかった。
ゴーレムの手の間をすり抜けるしかないのだ。
わたしたちの船は停船している。
ゴーレムが手を打つたび生じる波に揺れながら、そのときを待っていた。
ときが来たらボハイラに指示を伝えるため、わたしの隣にはベルカが立っている。
もう片方の隣には、もう吐くものもなくなってぐったりしているティーンさま。
船室で休んでもらっていても良いのだけれど、ベルカには動かなくてはいけない予定があるからと言って、わたしの側から離れない。
「……こんな無茶な話を、よく信じてくれましたね」
わたしの言葉にベルカが笑う。
「先に信じてくださったのは奥方さまじゃないですか」
「わたしが?」
「殿下の護衛だった男たちが、奴隷女に操船などできるはずがないと言ったときに」
「あれは……」
「くくっ。確かに見ものでしたね」
隣のティーンさまが笑みを漏らす。
あれは皇帝陛下の面前だったから、彼女もいたんだったっけ。
「『彼女たちを船乗りとして育てたのは皇太子殿下です。命を懸けてあなたたちを救おうとした殿下のことが信じられないのですか?』……妃殿下がそうおっしゃった途端、あの男たち真っ青になりました」
「べつに怒ったわけではなくて、質問してみただけだったのですが」
「アイツらは奥方さまに嫌われたくなかったんですよ。殿下の暗殺者として疑われてたアイツらの言葉を信じてくれたのは、奥方さまだけだったんですから」
わたしは前世を覚えていただけだ。
SRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』本編の中で体験したことを。
女海賊の島を包む霧は、中に入ったものの獣化や魔法を封じる。
そして──
ゴーレムの手が動きを止めた。
両手の間には船が通り抜けられそうな空間がある。
そうでなければ島の住人も出入りできない。
水晶の洞窟と石の砦しかない島から出られなければ、住人を待つのは死のみだ。
だけどだれでも簡単に出入りできるのでは、侵入者を拒めない。
手と手の間の霧が渦を巻き──巨大な怪物が出現した。
「……うふふっ」
「奥方さま?」
「ひ、妃殿下?」
「ごめんなさい。あまりにも自分がわかりやすくて。……ベルカ、ボハイラに前進を告げてきてください」
ちらりと怪物を見て、ベルカは頷いた。
ティーンさまも口を結び、怪物を凝視している。
ふたりには、どんな怪物が見えているのだろうか。
この怪物に実体はない。常時稼働しているゴーレムを休ませるための時間に出現する幻だ。島の住人も、その時間を待って出入りする。
霧に混じった毒が侵入者を惑わし、相手が一番恐ろしいと思うものを見せる。
旦那さまの護衛たちはそれぞれが一番恐ろしいと感じる怪物を見て、自分自身の魔力で体を傷つけた。獣人の彼らを覆う呪いの膜が恐怖に暴れる魔力を逃がさなかったため、服や防具には傷ひとつつかず、それも疑いの原因となっていた。
ゆっくりと船が動き出す。
舳先が怪物の腹を抉る。
わたしは目を閉じた。
幻だとわかっていても、ラスボス『死せる白銀の獅子皇帝』──腐り爛れて蠅にたかられ、ほかの骸と混ぜ合わされた旦那さまが船に貫かれるのは辛かった。




