27
「……くうくう……」
部屋に戻ったのは、夜になってからだった。
格子細工の窓の向こうには、少しだけ欠けた満月。
今夜はまだ、部屋の中にも灯かりをつけている。
寝台に横たわらせたファラウラが、健やかな寝息を立てていた。
扉の外には星影が立っている。
一日休んで体力が回復したと言って、ベルカや月影たちと交代したのだ。
ふたりとも爆睡していることだろう。
大広間で何度かうとうとしていたものの、わたしも眠い。
わたしの隣に座り、ファラウラの寝顔を見つめていた旦那さまが苦笑を浮かべた。
「起きているときは思わないが、眠っていると本当にお前とそっくりだな」
「みんな、そう言います」
わたしも苦笑して、言葉を返した。
ファラウラはまだ幼い。
旅の疲れも出たのか、旦那さまがわたしに託した後はずっと眠っていたのだが、宴に肉の追加が来たときだけ起きた。ううん、あれは起きていたのかしら。
寝ぼけた顔で、わたしの倍の量の羊肉を食べて、ファラウラはまた寝た。
それからは起きてない。
水分は補給したほうがいいと思うのだけど、体を揺らすと不機嫌そうな顔で唸るので、そのまま眠らせている。
「……旦那さま」
「なんだ?」
「あの、わたしが旦那さまを女の子だと思い込んでいたことなのですが」
「いきなり、どうした」
「父に確認したのです。子どものころのことなら父に聞けばわかるかと思って」
「お前の心の中のことが、熊王アルド殿にわかるのか?……どうせ、俺の見かけが男らしくなかったからだろう。護衛として活躍したこともなかったしな」
あらら。わたしが思うよりずっと、旦那さまはこのことで悩んでいたようだ。
武術大会で父さまと会うまで待つのではなく、早くマズナブ王国に向けて手紙を出せば良かった。
「旦那さまがいなくなった後、わたしはすごく寂しがったそうなんです」
「そうか。……お前と離されて、俺も寂しかったぞ」
「……旦那さまがどこへ行ったのか、わたしは何度も何度も父に聞きました。父はわたしを怒ったそうです。ここにいたことを知られたら、あなたに危険が及ぶ、と」
旦那さまは怪訝そうな表情になった。
「なぜ……いや、そうか。熊王殿やお前の名前でなにかを渡されたら、ガキだった俺はなにも考えずに受け取っていたかもしれない。たとえ毒の入ったお菓子でも」
わたしは頷く。
それはマズナブ王国にとっても危険なことだ。
わたしや父さまの名前で贈られたものが皇太子の命を奪ったとしたら、利用されただけだと判明したとしても、ファダー帝国との友好は瓦解するだろう。
皇帝陛下は父さまを信頼して、秘密裏に旦那さまを預けてくれたのだから。
皇太子という旦那さまの立場が確立するまでは、偽装に騙されないほど深く付き合うこともできなかった。父さまの傀儡だと思われでもしたら、ほかの貴族のいらない反感を買うことになる。
「わたし、イヤでした。あなたが苦しい思いをしたり傷ついたり……死んだりするのは。でもあなたのことが大好きだったから、考えずにはいられなかった。それで、うっかり口に出てもあなたのこととは気づかれないよう、女の子だと思い込んだんです」
大好きな大好きなお友達。
銀の髪に褐色の肌、青玉色の瞳。
一緒に本を読み、わたしの作ったフムスを美味しいと笑ってくれた。旦那さまは護衛として活躍したことがないと言ったけれど、側にいてくれるだけで安心できた。
世界で一番大好きな──女の子、と。
父さまと話して、はっきりと思い出せた。
「……旦那さま、十年前のこと覚えてらっしゃいます?」
「俺はお前と違う。お前にはご両親やファラウラ姫、侍女やマズナブの城のものたち、たくさんの大切な存在がいて、楽しい生活を送っていただろう? もちろん、それでいい。お前が幸せなら、俺も嬉しい。だが、俺は……」
旦那さまは異母兄の皇帝陛下を慕い信頼しているけれど、陛下はお忙しい身だ。
奴隷から皇太子になった旦那さまのことを良く思わないものも多かった。皇太子として与えられた教育を吸収するのも簡単なことではない。
星影や月影、ゼェッブさま、同じ年ごろのお友達もいるとはいえ、そんな状況では楽しく過ごすだけではいられなかっただろう。
「俺にとって一番の幸せは、お前との記憶を思い出すことだった。なにひとつ、忘れたことはない」
「ふふ」
わたしはそっと、隣の旦那さまの肩に頭を預けた。
「……花冠をくださったことも?」
旦那さまの褐色の肌が、ほんのり赤く色づいた。
覚えてくださっているようだ。
父さまの護衛の『ツンデレ』ジュヌードは、意中のライムーン以外には普通の青年、当時は護衛になったばかりの少年だった。ひと言多いところはあったけれど、同時期に護衛になった旦那さまのことも、兄貴ぶって可愛がっていたっけ。
そういえば『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』での彼は、テムサーフ将軍と同じでラスボスの旦那さまに常時、骸を混ぜ合わされていた。冬眠で攻撃力を増幅する厄介な存在だ。
ゲームの中でコブターンの館へ行くと小さな子どもがいっぱいいて、長男は旅に出ていると言われたけれど……早く失恋から立ち直ってね、ジュヌード。
「アイツが、お前も数年経てば宰相の娘のように美しくなるなんて言うから、俺は……」
青玉色の瞳が、わたしから離れる。
「お前は今のままで十分可愛いと思って、だから……」
「城の庭で、花冠を作ってくださったのですよね。わたしはとても嬉しくて、同じ獣化できないもの同士だから、大きくなったら結婚しましょうと言いました」
「覚えてる。忘れるはずないだろう? 皇太子教育が辛くて、なにをやっても思い通りに進まなくて、成人の儀で魂の名前を与えられてからは自分の存在が兄上に害を及ぼすのではないかと恐ろしくて、何度も宮殿から出ようと思った。だが、できるはずがない」
旦那さまの逞しい腕が、わたしを胸元に引き寄せた。
そのまま広く熱い胸に包み込まれる。
顔を見られたくなかったのかもしれない。
「ファダー帝国の皇太子でもなければ、マズナブ王国のお姫さまとは結婚できない。攫いに行こうかとも考えたが、お前に不自由な生活をさせたくなかった。俺は……」
旦那さまの頭が、わたしの髪に落ちてくる。
「思い出してくれて嬉しい。俺も獣化できないなんて、ウソをついていてすまなかった」
「そんなこと。旦那さまには事情がおありだったのですもの。あの花冠は、わたしの宝物でした。あなたを女の子だと思い込んだ後も、ずっと」
「……十年だ。もう枯れてしまっただろう」
「残念ながら。紫色の鬱金香と白いかすみ草の花冠は、もう……」
でも同じ花を模した砂糖菓子の花束は、今日もらった。
父さまに聞いただけでなく、花束の存在もわたしの記憶を刺激したのだと思う。
「なあ明日、圧搾所へ行く前にフムスを作ってくれるか?」
「はい。子どもはすぐに疲れてしまうから、フムスと野菜を持って行って、途中途中で休憩しましょう。ファラウラとクークちゃんには甘酸っぱいトウガラシのフムス、旦那さまにだけ特製のフムスです」
「楽しみ……だ?」
旦那さまが顔を上げたのは、扉越しに物音がしたからだろう。
わたしも旦那さまの胸から顔を上げる。
扉の向こうから、星影の声が聞こえてきた。
「殿下、奥方さま、お客さまです」
こんな時間に? と、旦那さまとわたしは顔を見合わせた。




