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いくつかの試合が終わり、気づくと空が白みかけていた。
やがて夜明けがやってくる。
満を持して始まるのは決勝戦。
父さま、決勝戦常連のマズナブ王国熊王アルドに対峙するのは皇太子バドル、旦那さまだ。
テムサーフ将軍(勝ってた。ファダー帝国の武術大会は勝ち抜き戦だ)を始めとする強敵を打ち倒してきた旦那さまは、いつもより険しい顔をしている。獣化の繰り返しで疲労が溜まっているのもあるだろう。
──銅鑼が鳴る。
白い獅子と黒い大熊が睨み合う。
ふたりとも両腕に武器を装備していた。
革でできた指なしの手袋に金属の爪をつけたもの、ゼェッブさまのときと同じだ。
これまでは試合開始と同時に、舞台を囲む壁へと駆け上がって相手を翻弄していた旦那さまだが、今回は父さまから距離を取りながら、じりじりと後退している。
もっとも舞台は細長いので、父さまの攻撃が届かない距離に居続けるのは難しかった。
父さまが駆け出し、旦那さまの前で跳躍する。
どちらの壁に向かっても巨大な黒熊の腕につかまってしまう。
勢いに押されたのか、旦那さまの体が沈む。
ううん、違う。
旦那さまは跳躍した父さまの横を、仰向けに近い姿勢で滑り抜けたのだ。
前世でいうところのスライディング?
しかし、これで背中を取らせてくれる父さまなら、毎年優勝できたりしない。
父さまは空中に浮かんだまま、一瞬で巨体の向きを変えた。
変えたことで崩れた体勢を利用して、そのまま旦那さまの上へ落ちてくる。
太い腕の鋭い肘が旦那さまを狙っていた。
……旦那さま、早く体を起こして逃げて!
ほんの数秒のことなのに、わたしには時間が止まって感じられた。
大声で呼びかけたいけれど、旦那さまの考えを邪魔するのが怖くて声が出ない。
旦那さまが、真っ直ぐ上へと腕を突きだす。
爪や刃をつけた武器の使用は認められているが、魔法属性を帯びさせることは禁じられている。そんなものでは父さまの黒い毛並みは破れない。
だけど、旦那さまの目的は攻撃ではなかった。
父さまの武器に金属の爪を引っかけて革手袋を抜くと、旦那さまはその勢いで転がった。
舞台に膝をついた父さまが振り上げた腕は、旦那さまの武器のぶんだけ長い。
計算していたのだろうか。
父さまの腕の先、引っかかった旦那さまの武器が近くにあったかがり火にぶつかった。
「うおっ?」
驚いて振り向きかけた父さまに、壁を蹴った旦那さまが襲いかかる。
狙いは腕。旦那さまは父さまの腕を蹴って、自分の革手袋を父さまのもう片方の武器の爪先で貫いた。
父さまは腕組みの姿勢になる。自分でやめられない腕組みだ。
そして旦那さまは──勝った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
宮殿の大広間では盛大な宴が続いていた。
なにかあると宴を開くのがファダー帝国、そして獣人の流儀だ。
武術大会終了とともに始まった宴は、昼を過ぎても終わっていない。
みんな徹夜のはずなのに、元気なことだ。
賑わっているのは宮殿の大広間だけではない。
皇帝陛下は祭りのときの屋台から残っていた砂糖菓子を買い取り、宮殿で飼っていた羊を何匹も丸焼きにして添えると、宮殿の城壁前に宴席を開かせた。
だれもを歓迎する宴席で、民も楽しく過ごしているはずだ。
「……メシュメシュ」
中央の水盤に、四方の銀の木から流れ落ちる水の音が子守唄のようだ。
糖蜜入りのレモン水の杯を持って、少しうとうとしていたわたしの名前を、低く艶やかな声が呼ぶ。──旦那さまだ。
このまま眠り、抱いて寝室に運んでもらいたいところだけれど、わたしは頭を振って目を開けた。
ファラウラとクークちゃんを抱っこして、旦那さまが苦笑している。
旦那さまの勝利に興奮したふたりは、大広間を回る彼の後ろを追いかけていたのだ。
ベルカと月影は、残されたわたしの近くで控えている。
今年も奴隷の部で総合優勝した星影は、自室で休んでいた。
「バルクーク嬢をネムル・アルカトに渡してくる。義妹殿を頼んでいいか」
「はい」
わたしは杯を置いて、代わりにファラウラを受け取った。
ネムル・アルカトさまは虎夫人の隣に座り、気まずそうな顔をしている。
たぶん虎夫人は、息子に対してもツンデレなのだろう。
宴はきっと夜まで続く。
武術大会は終わったけれど、旦那さまが疲れているので今夜も初夜はお預け。
圧搾所へ行けなくて拗ねたファラウラは、今日はわたしたちの部屋に泊まる予定だった。
旦那さまは照れくさそうな、それでいて誇らしげな笑みを浮かべる。
「熊王アルド殿には怒られてしまったが、勝てて良かった。……まさか俺の一回戦を兄上が、獣化までして祝ってくれるとはな」
皇帝陛下の獣化がファラウラの機嫌を取るためだったことは、旦那さまには秘密にしておこう。……あら? 父さまに怒られた?
「旦那さまを怒るなんて。素晴らしい試合でしたのに、父さまはどうしたのでしょう」
負けたからって八つ当たりしたわけでもないだろうに。
「咆哮を使えと言われたんだ」
ファダー帝国初代皇帝の咆哮は、戦乱に明け暮れていた獣人すべての種族をひれ伏させた。初代は神獣の姿だったが、獅子獣人の咆哮にもほかの獣人を怯ませる効果がある。
「使える手段をすべて使わなければ勝てる勝負を失ってしまう、と」
「それは……」
「熊王殿の言う通りだ」
少し表情が暗くなる。
もしかしたら旦那さまは、咆哮を放つことで自分が神獣に変身するのではないかと、恐れていたのだろうか。
青玉色の瞳が、真っ直ぐにわたしを見つめた。
「だから俺は熊王殿に誓ってきた。いつかお前を守るときは、どんな手段もためらわないと。そうしたら褒めていただけたよ、その……自慢の婿だとな」
十七歳の少年が、無邪気な笑みを浮かべる。
母君を死に追いやった先代皇帝を憎む旦那さまは、本当はだれよりも父性に憧れているのかもしれない。自分を養子にした異母兄の皇帝陛下のことも慕っている。
わたしは頷いた。
「はい。旦那さまは、わたしにとっても自慢の旦那さまです」
「ありがとう。……眠ければ、ベルカたちと一緒に部屋へ戻っているといい」
旦那さまがクークちゃんを運んでいくと、腕の中のファラウラが体をくねらせた。
幸せそうな笑みを浮かべて、妹が寝言を口にする。
「……ファラウラ、ににさまのお嫁になるのです、くふふ」
さては諦めてないらしい。
……姉さまは絶対、旦那さまを渡しませんからね!
妹との戦いを決意したわたしに、大きな影が差した。
顔を上げると父さまだ。
「申し訳ありません。旦那さま、バドル皇太子殿下は、ネムル・アルカトさまのところへバルクーク嬢を連れて行きました」
父さまは無言で頷き、わたしの隣に腰かける。
「……ファラウラは俺の部屋に連れて帰ろうか? 蜜月が終わったとはいえ、新婚夫婦のところには邪魔だろう?」
「そ、そんなことありません」
「俺にも経験があるが、新婚の夫というものは妻が思うより緊張しているものだ。俺も緊張のあまり砂糖菓子を食べ過ぎて、イナブに怒られたことがある。お前の夫は頭が良い。にも関わらず大会で咆哮を使わなかったのは緊張しているせいだろう。せっかく優勝したのだし、夫婦水入らずでお前が……」
「そ、それより父さま!」
わたしは父さまの言葉を遮った。
まだ初夜を済ませていないことは、父さまといえど教えられない。
神獣のことから説明しなくてはいけなくなる。
それにわたしは、父さまに聞いておかなくてはいけないことがあった。
「父さまにお聞きしたいことがあるのですが……」




