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「義妹殿!」
貴賓席の中央で、中腰になった皇帝陛下がわたしを招く。
陛下の隣席は、皇太子妃であるわたしのために空けられていたようだ。
わたしたちの席の後ろには護衛の席があり、ティーンさまと虎夫人がいる。今は陛下に合わせて立ち上がっていた。ゼェッブさまが旦那さまとの勝負を求めて出場するので、今年は虎夫人が留守を守るのだ。
ベルカは虎夫人の隣に座ることになる。……緊張しそう。
砂糖菓子の花束は、旦那さまの控室に置いてきた。
ネムル・アルカトさまは、このまま控室で旦那さまの世話をするらしい。
残念ながら、星影の試合は終わってしまったようだ。
かがり火を焚かれた細長い舞台には、獣人の部初戦の出場者が始まりの合図を待っている。舞台の周りには高い壁があり、観客席が見下ろしていた。
身分や立場によって席の場所は異なる。
皇太子妃であるわたしの席は、皇帝陛下と同じ最上の貴賓席だ。
暗い夜空の満月が、煌々と輝く。
まだ獣化はしていない上半身裸の男性が、ふたりで睨み合っている。
ひとりは黒豹大公だった。
片腕に、三日月形の刃をつけた腕輪を装備している。
もうひとりは初めて見る顔で、どちらの腕も素手だった。
蛇獣人なのかもしれない。獣化した蛇獣人の鱗は鋭い刃となる。
「ご機嫌よう皇帝陛下、人数が増えてもよろしいでしょうか」
「ああ、熊王殿とバドルから聞いているよ。ファラウラ姫とバルクーク嬢も一緒に観戦するんだね。……初めまして、ファダー帝国の皇帝陛下だよ」
陛下は立ち上がり、わたしの左右にいるふたりの前にしゃがみ込んだ。
「初めまして、マズナブのファラウラなのです」
ファラウラは、ぺこりと頭を下げた。
手はわたしとつないだままだ。
獣化は解いているが、耳と尻尾は残っている。……我が妹ながら可愛い。
ファラウラの頭を撫でた皇帝陛下は、優しく目を細めた。
今日も目の下に隈があり、どこか気怠そうな雰囲気だ。
「そっくりだね。バドルと義妹殿に子どもができたら、きっとこんな感じだろうな」
あ、ティーンさまが後ろから身を乗り出して、虎夫人に睨まれた。
きっと陛下の笑顔を見たかったのだろう。
「……」
ファラウラと逆側の手を握っているクークちゃんは、恥ずかしそうに身をくねらせて、わたしの後ろに隠れようとしていた。
クークちゃんもいつものように豹の耳と尻尾を出している。……やっぱり可愛い。
虎夫人の鋭い視線がこちらに向かい、クークちゃんは完全に後ろに隠れた。
でも虎夫人は、怒っているわけではないと思う。
クークちゃんを心配しているのだ。
握りしめたハンカチが、彼女の気持ちを物語っている。
ジュヌードほどではないけれど、虎夫人も問題があるほうのツンデレだ。
「桃の娘だね。バルクーク嬢はお父さん似かな」
「……かかさまとととさま、知ってるの?」
「知ってるよ。皇帝陛下はなんでも知ってるんだ。バルクーク嬢のご両親は、素晴らしい仕事をされている、立派な方だね」
「うん! ととさまとかかさま、大事な大事なお仕事してるの。だからクーク、会えなくても我慢するの」
「そうか、偉いね」
「あ、えっと、初めまして皇帝陛下。バルクークです」
「はい、よくできました」
虎夫人が長い息を吐き、崩れるように席に座った。
ティーンさまの金色の瞳が、驚きに見開かれる。
虎夫人本人も一瞬驚いた顔をして、それからなにごともなかったように立ち上がった。
自覚のないツンデレは大変だ。
「むー……」
ファラウラが唸ったのは、クークちゃんが両親と離れていることを知ったからだろう。
幼いふたりは恥ずかしがって、まだ互いに自己紹介をしていなかった。
皇帝陛下の向こうの席に座っていた女性が立ち上がる。
流れる黒髪に褐色の肌、真紅の瞳を持つ美女だ。
しなやかな体躯だが、出るところは出て、くびれるところはくびれている。
妖艶、という言葉が似合う気がした。
先日の狩りの宴では見た覚えがないが、この貴賓席にいるということは、ファダー帝国にとって大切な存在なのだろう。
「シャムス! わらわを早う恋敵殿に紹介してたもれ!」
……こ、恋敵?
「義妹殿、彼女はダルブ・アルテッバーナのアフアァ女王だ」
「は、初めまして。ファダー皇太子バドルの妻、マズナブの王アルドの娘、メシュメシュにございます」
わたしは頭を下げた。
同じファダー帝国の属国とはいえ、彼女は女王でわたしは王女。
大いなる河に愛されたダルブ・アルテッバーナ女王国は属国とは名ばかり、ファダー帝国と並び立つ強大な国だ。皇帝陛下で初めて、女王と同格になる。
そもそもダルブ・アルテッバーナ女王国は帝国より古い。
ほかの種族の国は、内乱や戦争でコロコロと主権が変化し続けていて、帝国よりも古いものはないのだ。
マズナブ王国が豊かで父さまが強いといっても、国の規模が比べものにならない。
もちろん皇太子妃だって彼女より格下だ。
女王の背後には数十人の侍女や従者が控えている。
年齢は十九歳だと、なにかのときに聞いた。
十五歳で即位したが、先代女王とそのご夫君は健在で、今も女王を補佐している。
女王がファダー帝国にいる間は、彼女の両親が女王国を治めているのだろう。
「シャムスの紹介通り、わらわはアフアァ。ダルブ・アルテッバーナ女王国の女王であるぞ。メシュメシュよ、そちさえいなければ、バドルはわらわの婿になっていたのぞえ」
「女王、義妹殿のせいじゃないよ。大事な皇太子を婿には出せません」
「そちが子を作れば良いだけではないか。……ほら、狼獣人のティーンなら、元気な子をたくさん産みそうじゃぞ」
女王の視線を受けて、ティーンさまが硬直する。
皇帝陛下は苦笑を浮かべた。
あら? もしかして陛下は、ティーンさまの気持ちに気づいてらっしゃる?
「それを言うなら女王こそ、早くご結婚なさいな」
「じゃからバドルをくれと言うておる。メシュメシュごとでかまわぬぞ。わらわは可愛いものは大好きじゃ!」
「え?」
「メシュメシュ。シャムスではなく、わらわの横に座るが良い。その愛らしきモフモフたちも一緒に来い。……可愛いやのう。どうしてわらわたち蛇獣人は、モフモフではないのであろ」
たちまちファラウラとクークちゃんがわたしの後ろに隠れたので、女王はしょぼんとうな垂れた。
モフモフ好きな気持ちはわかるけれど、ちょっと表に出し過ぎです。
そういえば最近、旦那さまのモフモフを味わっていない。
今夜はモフモフできるかしら。
「座りましょう、女王。テムサーフ将軍の試合が始まるよ」
「あんな鱗男には興味ない」
「大丈夫。対戦相手は黒豹大公だから」
「それなら楽しみじゃ」
わたしたちは席に就いた。
ベルカはやっぱり緊張しているようだ。
女王は、ちらちらとわたしたちを見ている。ファラウラちゃんとクークちゃんは、わたしの膝を半分こしていた。……ちょっと重いかな。
「……そなた、いくつなのです?」
最初に声をかけたのはファラウラだった。
「クークはよっつなの」
さっき皇帝陛下に挨拶したことで自信ができたのか、同じ年ごろだから安心しているのか、クークちゃんははきはきと答える。
「ファラウラはいつつなのです」
しばらく腕組みして考えて、ファラウラは言う。
「ファラウラのほうがねねさまなので、クークのねねさまになってあげるのです」
「ねねさま?」
「そうです。だから、ととさまとかかさまがお仕事に行っていても、寂しくないのです」
クークちゃんは花のような笑みを浮かべた。
やっぱり寂しい思いをしていたのだろう。
視線を感じて振り返ると、後ろの虎夫人も満面の笑顔を浮かべ、皇帝陛下に困惑した表情をさせながら首を伸ばして覗き込んでいた女王も顔をほころばせていた。
やがて試合が始まった。
黒豹大公とテムサーフ将軍が獣化して、がっぷり組み合ったのだけど──
わたしは現世の戦闘はよくわからない。
幼いふたりはお互いに情報交換することに夢中、虎夫人と女王はふたりを見るのに夢中、皇帝陛下は膝の布に隠した本をこっそり読んでいて、ティーンさまは陛下を見つめてうっとりしている。ベルカは緊張でか、ぴくりともしない。
女王の背後の侍女や従者は、お召しを待って主人だけを見つめている。
というわけで、大変失礼極まりない貴賓席だった。




