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ベルカが前に出て、旦那さまの控室の扉を開ける。
腕に持った砂糖菓子の花束を崩さないよう、気を遣ってくれているのが嬉しい。
部屋の長椅子には旦那さまが座り、さっき戻したクークちゃんを抱いたネムル・アルカトさまが横に立っていた。文官の彼は武術大会には出場しない。
同じく不参加の月影は、祭りに引き続きハーレムの女性たちと一緒だ。
みんなで星影の試合を見ているのだろう。
「待っていたぞ、メシュメシュ。俺の試合は初戦ではないから、星影の雄姿を見に……」
「てあっ!」
獣化したファラウラが旦那さまの言葉を遮り、わたしの腕を蹴って飛び出した。
獣化したとき用の服ではないので、短く可愛い尻尾は見えない。
その代わり、お尻がぽこんと膨らんでいた。
「ん?」
旦那さまが立ち上がって避けたので、ファラウラは長椅子に突っ込んだ。
「これが妹か。噂通り勇ましいな。……ネムル・アルカト、お前なら一撃でやられていたかもしれないぞ」
「いくら殿下でもそれは失礼ですよ。……バルクーク、私のメガネで遊ぶのはやめなさい」
「ごめんなさい。……ファラウラ、どうしたのですか? 旦那さまに謝りなさい」
黒い小熊が、長椅子の上で戦闘態勢を取る。
「謝りません。これは勝負なのです!」
「勝負? 俺とか?」
「そうなのです。ファラウラが勝ったら、ねねさまは返してもらうのです。ぴゃ!」
「……メシュメシュ。お前も承知のことか?」
黒い小熊を抱き上げて、青玉色の瞳がわたしを見た。
ファラウラは手足をばたつかせていたが、旦那さまには当たっていない。
わたしは首を横に振る。
「ファラウラ、一体どうしたの?」
「ファラウラは、ねねさまがいないと寂しいのです。ととさまもかかさまも忙しくて、ファラウラはひとりぼっちなのです」
「ライムーンはどうしているのです?」
ライムーンはわたしよりななつ年上の従姉で、結婚するまではわたしの侍女、わたしが結婚してからはファラウラの世話係になった。
侍女だったときもわたしと一緒に面倒を見てくれていたから、ファラウラも彼女に懐いていたはずだ。
「……ライムーンは、つまみ食いすると怒るのです」
「姉さまだって怒りますよ?」
「でもねねさまは、怒った後でお菓子をくれたのです。ライムーンは怒った後で、書き取りをさせるのです」
旦那さまは吹き出した。
「どっちもどっちだ。メシュメシュ、お前は甘やかし過ぎ。ライムーンという女は厳し過ぎだ」
「ライムーンは、わたしには甘かったのですが」
「お前はファラウラ姫よりか弱かったからだろう。しかし義妹殿、メシュメシュを俺と別れさせてどうするつもりだ」
「一緒にマズナブに帰るのです。そして、ねねさまはジュヌードと結婚するのです」
「ジュヌード?」
旦那さまの形の良い片眉が、ぴくりと吊り上がる。
「マズナブ王国の将軍の息子です。本人は父の護衛をしていて……ちゃんと獣化できる貴族の男性です」
わたしのような『できそこない』と結婚するはずがない。
それに彼は──
「ファラウラ、どうしてジュヌードなのですか?」
「ととさまと行ったコブターンの館には、美味しいリンゴの木がたくさんありました。ねねさまがジュヌードと結婚して、ジュヌードがコブターンの跡を継いだら、あのリンゴはねねさまのものなのです!」
……妹よ。
「それにジュヌードは、ライムーンに振られて可哀相なのです」
……妹よ。
「ダメですよ、ファラウラ。そういうことは秘密にしなさい」
「えー? だってねねさま、マズナブ中のものが知っているのですよ?」
「ここはマズナブではありません」
ライムーンの父親は、母さまの兄でマズナブの宰相だ。
ジュヌードの家とライムーンの家は、王国に並び立つ高位貴族でありながら仲が悪い。
敵同士のふたりの恋路を、マズナブの民は息を呑んで見つめていたのだけど──
ジュヌードはツンデレだった。
ベルカのように可愛いツンデレではなく、悪いツンデレ。
好きな相手にイジワルしてしまう種類のツンデレだ。
彼はライムーンを好きで、それは周囲にもはっきりわかるほどだったのだが、本人に対する態度は最悪だった。
もっとも、彼女は少しも気にしていなかった。
実はライムーン、前世でいうところのファザコン。
ううん、オヤジ趣味? とにかくそんなものだった。
三十歳以下のジュヌードには、かけらほどの興味も感じていなかったのだ。
そして、ここにもうひとり、ジュヌードの父親コブターンが加わる。
父さまよりも厳つい顔をした巨体のコブターンは、周囲の反対を押し切って結婚した奴隷の少女、ジュヌードを産んですぐ亡くなった妻をずっと想い続けている繊細な人だった。
見かけに似合わず心優しい彼は、息子の言動に傷ついているであろう少女に、こっそり贈り物をすることで慰めようとした。
ライムーンが、どちらを選ぶかは明白だった。
亡くなった妻への気持ちや年齢差で、コブターンはずっと彼女を拒んでいたのだけれど、わたしの結婚で急展開を迎える。
神獣に変身するという秘密を守りたい旦那さまは、故郷から侍女を連れてくることをわたしに禁じた。
わたしの守護者を自認していたライムーンが役目を失って抜け殻のようになっているのを、コブターンが見過ごせるはずがなかった。
……父さまが武術大会にジュヌードを連れてきたのは、失恋の痛手を癒すためなのだと思う。
「義妹殿、砂糖は好きか?」
気がつくと、旦那さまはファラウラを長椅子に降ろしていた。
「嫌いなのです」
そう言うファラウラの視線は、わたしの隣にいるベルカの腕の中に注がれている。
やっぱり砂糖菓子の花束が気になるらしい。
さっきの旦那さまの発言から、ベルカはずっとそわそわしていた。
星影の雄姿を見に行きたいのだろう。
うちの妹のせいでごめんなさいね、ベルカ。
旦那さまはひとり言のように続ける。
「俺は海辺の土地を持っている。金の廃鉱があって、ほとんどは白い石英で覆われた海岸なのだが、砂糖きびの栽培をしている土地も少しあるんだ。そこの砂糖きびの圧搾所には砂糖を煮詰める釜があってな」
ふーんと言いながら、ファラウラは長椅子に腰を降ろした。
旦那さまから目を逸らしているけれど、黒い耳がぴくぴくしている。
「その釜にパンを入れると、砂糖がけしたパンの出来上がりだ。俺の経験から言うと、干し葡萄を練り込んだパンでやるのが一番美味いな」
「……」
「俺には兄上しかいないから、妹か弟ができたら連れてってやろうと思っていたのだが。そうだな、半日もかからないから明日でも行けるな」
「……」
「義妹殿。細切れにしたリンゴを練り込んだパンを砂糖につけても美味いぞ」
──黒い小熊は、旦那さまに陥落した。




