21※
……みゃーみゃー。
祭りには砂糖菓子だけでなく、装飾品や武器、本などの屋台も出ていた。
それぞれが好きなものを眺めながら──星影とベルカは旦那さまとわたしの安全にも気を配りながら──のんびり歩いていたとき、それに気づいた。
どこかで仔猫が鳴いている。
獅子獣人が治め、主に豹獣人の住む帝都では、猫は大切にされていた。
たとえ野良猫であっても、地域でエサをやり面倒を見ているはずだ。
旦那さまが振り返った。
「どうした、星影」
「べつにどうもしていませんが?」
「そうか?」
……みゃーみゃー。
近くの路地から聞こえてくるようだ。
わたしは首を傾げた。
「仔猫の声しか聞こえませんね」
「母猫とはぐれた迷子かもしれないな」
「……」
星影の眉間の皺が、いつもより多い気がした。
旦那さまが、ニヤリと笑う。
「ベルカ、星影は頼んだぞ」
「えっ、はっはい、殿下?」
ベルカに呼びかけた後、旦那さまはわたしの手をつかんで走り出した。
いきなりのことに驚きながら、わたしはもう片方の腕で花束を抱き締める。
これを落としてしまったら、悔やむどころではない。
とか言いつつ、いずれは跡形もなく食べてしまう予定なのだけれど。
不思議なことに、星影は追ってこなかった。
──しばらく走って、旦那さまは立ち止った。
わたしも一緒に足を止める。
お互い息が荒い。
「……どうしたんです?」
「あの路地に配置された衛兵に、俺たちが通りかかったら猫の鳴き真似を始めるように頼んでいたんだ」
「さっきのは本物の猫じゃなくて衛兵だったんですか!」
「そうだ。兄上に猫の鳴き真似が上手いヤツを教えてもらった」
「どうして、そんなことを?」
「まだ知らなかったか。星影は猫が好きなんだ。アイツら兄弟は同じ部屋なんだが、月影は幼いころに魔獣と戦っていたせいで動物全般が嫌いでな。だから部屋では動物が飼えない。その反動で、外で猫を見ると我慢できなくなるらしい」
「星影も月影と同じ状況だったのに、動物嫌いにならなかったんですね」
「ああ、不思議だな」
「……えっと、旦那さま?」
「なんだ?」
「もしかして星影を撒くためにこんなことを?」
「当たり前だ。その花束を受け取る前に撒いても、注文した店に先回りされては意味がないからな。ちゃんと受け取ってから路地の前を通るよう考えて歩いていたんだぞ。お前もいい仕事をしてくれた。母猫とはぐれた仔猫だなんて、猫好きのアイツが見過ごせるはずがない」
わたしは溜息をついた。
「どうした?」
「こんなことしてなんになるんです。星影はお仕事なんですよ? それにほら、衛兵もいるし、周りにいるのは顔見知りの宮殿の方々ばかりでしょう? ふたりっきりにはほど遠いと思います」
「べつにいいじゃないか」
旦那さまは笑って、わたしの手を握ったままだった骨ばった指に力を込めた。
青玉色の瞳がわたしを映す。
旦那さまの行動に呆れていたつもりだったのに、彼の瞳に映ったわたしは、昔の話をする母さまや虎夫人のように、怒りながらも嬉しそうだった。
「さすがに寝室の前から星影たちを追い払うつもりはない。確かに衛兵も宮殿のヤツらもいるが、俺たちばかり見ているほど暇ではないだろう。それに星影だって、憎からず思っている相手とふたりっきりのほうが嬉しいはずだ」
「星影がだれかに怒られたりはしませんか?」
「だれが怒るんだ。アイツは俺の護衛隊長だぞ?……というか、俺がアイツに怒られる」
わたしは吹き出してしまった。
旦那さまの手と結ばれた自分の手に、力を込める。
「そのときは一緒に謝ってあげますね」
「バカ言うな。お前はなにも悪くない。俺が勝手にしたことだ」
「それでもです。だってわたしたち、夫婦なんですもの」
「……そうだったな」
わたしたちは歩き出した。
星影とベルカがいたときと同じように好きなものを眺めているだけのはずなのに、旦那さまとふたりだというだけで、心臓の動悸が速くなる。
星影たちがいなくても状況は同じだなんて、わたしのほうがなにもわかっていなかったようだ。
つないだ手が熱くて、なんだかとても幸せだった。
きっと顔が赤くなっている。
ふと見上げた旦那さまの頬も赤くなっていたので、同じ気持ちなのだと嬉しくなったのはつかの間だった。旦那さまの顔が赤いのは夕日に照らされているからだ。
太陽が沈み、満月の時間がやってくる。
もうすぐ武術大会が始まるのだ。
武術大会が始まったら離れ離れになってしまう。わたしは旦那さまに寄り添った。
「空が赤いな」
「はい、綺麗です」
「お前がバルクーク嬢に作ってやった手羽先と同じ色だな」
「てっ……手羽先じゃありません、翼です」
「そうか、赤い鳥なのだな……タレを塗っているのかと思った。だが、なんで黄色い糸で焼き目をつけているんだ?」
「やや焼き目ではありません。あれは羽のこう、ふわっとした感じを表しているんです」
「……そうか」
「いいです。縫い物は好きですが、上手いと言われたことはありませんもの」
「ふふっ。お前は拗ねた顔も可愛いな」
「だっ!」
旦那さまがわたしを抱き寄せた。
唇が、軽く触れて離れる。
こんな町の中で、屋台の店主や衛兵たちがいて、宮殿の方々だってまだいるというのに……恥ずかしくてたまらないのと同じくらい、嬉しくてたまらないわたしがいた。
「……そろそろ闘技場へ向かおうか」
「はい」
「星影、ベルカ、出てきてもいいぞ」
近くの路地からふたりが現れる。
わたしたちはとっくの昔に見つけ出されて、泳がされていたようだ。
ファダー帝国と同時に生まれた闘技場は、宮殿の南西にあった。
ここからだと、東へ戻って南へ降りる。
細長い形をしていて、数万人の収容人数を誇る大きな建物だ。
わたしたちは武術大会の会場に向かって、歩き出した。
<おまけSS>
『ラスボスの義父』
「イナブー、イナブー」
「なんですか、アルドさま」
俺が呼ぶと、妻は忙しい手を休めてやって来てくれた。
マズナブ王国の国王でありながら、頭のほうが今ひとつの俺の代わりに、妻のイナブは政や交易を頑張ってくれている。彼女の兄は宰相だし、そもそも実家が代々マズナブの高官を輩出している頭脳明晰な一族だ。俺なんかと結婚してくれて、本当に感謝している。
だから、基本的に邪魔はしたくないのだが。
「下着がない!」
俺の叫びに、イナブは名前と同じ葡萄のような紫色の瞳を丸くした。
俺が長持ちから取り出して、床の絨毯の上に広げた衣服を見回し、指差す。
「あるじゃないですか。ちゃんと洗濯した、清潔なものですよ」
「それじゃない。お前がくれた、あの赤いヤツだ。幸運を呼ぶあの赤い下着でなければ、ファダー帝国の武術大会は勝ち抜けない」
イナブは溜息をついた。
「それならもう、旅行用の荷物袋に入れてあります。昨日お伝えしたでしょう? 武器の手入れに夢中で、生返事だったのですね」
「う……そ、そうだったかな? すまんすまん」
俺は、イナブが用意してくれた今度の旅行用の荷物袋を広げた。
確かに赤い下着が入っている。
長年使っているので少し古びているが、ちゃんと繕いもされていた。
……おや? イナブにしては縫い目が荒い。
「イナブ」
「なんですか。ちゃんとあったでしょう?」
「うん、あった。しかしこの繕い……もしかしてメシュメシュがやったのか?」
先日嫁に行った長女の名前に、妻が頷く。
「はい。父さまのためにと、針で指を突きながら頑張っていましたよ」
「あの娘は縫い物が好きなのに、なんでいつまで経っても上達しないのだろうな」
「大丈夫ですよ、もう結婚したのですから。心を込めて綴った縫い目を旦那さまに大笑いされたら、イヤでも上達します。……まあメシュメシュは縫い目がどうとか言うのではなくて、感性が少し特殊というか……」
「え? 俺、そんなことしたか?」
俺は頭のほうが今ひとつなので、考えなしにバカなことをやって、しかもそれを忘れてしまう。すべてを覚えている賢い妻は、ときどきこうして会話に混ぜて責めてくる。
問い返しても答えてくれないので、俺はひとりで反省するしかない。
……うーん。
覚えてないことを反省するのは難しかったので、俺は話題を変えることにした。
「なあイナブ」
「なんですか?」
「我がマズナブ王国とファダー帝国の友好に亀裂が入っても許してくれるか? もしメシュメシュが不幸そうだったら、俺はあの娘を連れ戻そうと思っているんだ」
「そういうのは、許すとか許さないじゃないでしょう。もし帝国と事を構えることになったら、私も獣化して戦いますよ。……でもね、あなた」
俺の妻で国王補佐のイナブの顔が、母親のものになる。
「メシュメシュはきっと幸せですわ。だってあの娘、ずっと皇太子殿下のことを好きだったのですもの」
「う……そうかもしれないが、十六歳で結婚はまだ早いだろう。せめて十年後だ」
「あなたが結婚を決めたのでしょう? それに、私があなたと結婚したのも、十六歳のときですよ」
「お前はいいんだ」
「どうしてです」
「お前の実家はマズナブの王都にあるから、城と近いじゃないか!」
「……まあ、ここから帝都は遠いですよね」
頷いて、絨毯の上に広げた衣服を長持ちに戻していた俺に、イナブは金切り声を上げた。
「ホコリで汚れた服をそのまま長持ちに入れないでください。せめて振るって!」
「わかったわかった。しかし……」
「なんです?」
「メシュメシュがあんなに簡単に結婚を受け入れたのは、あの娘が皇太子殿下を好きだからというだけではないと思うんだ」
「あら、そうですか」
「そうだ。俺がお前を愛し過ぎているから、結婚した嫁はすべて愛されるものだと思ってしまったに違いない。向こうで辛い思いをしていないといいのだが」
「なにをバカなことを言っているんですか。どいてください。服は私が振るって片づけておきます。あなたときたら不器用で、見ていられません」
なぜかイナブは俺を押し退けて、服を長持ちに片づけ始めた。
「イナブー、俺はどうしたらいい?」
「武器の手入れでもしてたらいいんじゃないですか?」
「わかった」
俺は荷物袋から武器を取り出し、言われた通り手入れを始めた。
服を片づけているイナブは、上機嫌で鼻歌を歌っている。
……メシュメシュとバドル坊主も、こんな風に幸せな夫婦生活を送っているといいのだが。
★ ★ ★ ★ ★
──武術大会前で興奮しているらしい。
俺、ファダー帝国皇太子バドルは、真夜中に目を覚ました。
同じ寝台の嫁は、まだ起きているようだ。
一所懸命に縫い物をしている。
ネムル・アルカトの姪にやるアカすりだと言っていたが、なんで手羽先なんだろう。
あの子どもは鶏肉好きだったのだろうか。
赤い鶏肉のカレーは、辛過ぎたようだったが。




