20
宮殿から帝都の西へ、少し南下すると大きな市場がある。
広い大通りにいくつもの道がつながっていた。
浴場からやって来たのは、その道のひとつ。それなりに大きな通りだ。
ところどころに衛兵が立って、宮殿の人々を見守っている。
お風呂を出たわたしは、迎えに来てくれた旦那さまと祭りの道へ来た。
道の左右には屋台が立ち並び、建物は花で飾られている。
しばらくの間、ここは宮殿で貸切だ。
路地の衛兵たちが出入りを規制している。
その代わり、先ほどの浴場が無料で開放されていた。
武術大会開催を祝う、皇帝陛下から民への贈り物というわけだ。
一番の大通りを貸し切らないのは、そこが民の生活に直結しているからだろう。
お風呂の後の祭りは大掛かりなお忍びのようなものだから。
皇帝陛下の正式な行列を披露するときは、もちろん大通りで行進する。
「星影」
わたしの隣を歩く旦那さまは、後ろの星影に呼びかけた。
彼の隣にはベルカがいる。
クークちゃんはネムル・アルカトさまと一緒で、わたしたちとは別行動だ。
月影は旦那さまの代わりに、ハーレムの女性たちに同行していた。
副護衛隊長の月影は、旦那さまのほかの部下たちも率いている。
旦那さまは自分の部下とハーレムの女性たちが結ばれることを奨励していた。
元々皇帝陛下のハーレムでも、教育を受けた女性の奴隷が持参金をもらって、出世して位を得た軍事奴隷の男性と結婚することは珍しいことではなかった。
「なんですか、殿下」
「ほら見ろ。そこら中に衛兵がいる。お前がついてこなくても大丈夫だ」
「……ふたりっきりになったところで、なにもできないくせに」
「星影、今なにか言ったか?」
「いいえ。空耳じゃないですか?」
無口だと思っていた星影は、旦那さま相手だとよくしゃべる。
ときどき、からかうようなことまで口にした。
奴隷とはいうものの、旦那さまと星影はお互いに相手を友達だと思っているのだろう。
実際のところ、わたしも星影の言う通りだと思った。
広く長い道なので歩けないほど込み合っているわけではないけれど、あちらこちらに衛兵がいるし、お風呂上がりの宮殿の女性と彼女たちに同行している男性も歩いている。
星影とベルカを撒いたところで、状況は同じだ。
旦那さまは溜息をついて、近くの屋台で足を止めた。
砂糖菓子の店だ。
さまざまな形の砂糖菓子はもちろん、木の実や薔薇水を混ぜて焼き上げた甘菓子も飾られている。棒に刺した飴細工もあった。
「ほら」
旦那さまがわたしに花束を渡してくれた。
紙で巻かれた花束を両手で受け止める。
いや、花束ではない。
甘い香りが漂ってくる。
紫色の鬱金香と白いかすみ草を模した砂糖菓子の花束だ。緑色の茎や葉は飴細工で、薄荷の香りがした。
今日のために予約してくれていたのだろう。
どこか懐かしい組み合わせだ。
マズナブの城の庭にも鬱金香が咲いていたっけ。
「お前には薔薇より鬱金香のほうが似合う」
「そうですか?」
「ああ。それに俺の花束のほうが大きいし、美味くて香りも良い」
今日は狩りの宴で黒豹大公にもらった髪飾りをつけてきた。
もらったものを公の場で身につけることで、贈り主への感謝を表すのだ。
皇太子妃としての公務に就いていないわたしには、今日くらいしかつける日がなかった。
でもせっかく旦那さまと一緒に過ごせる日に、ほかの男性からもらったものをつけてくるべきではなかったかしら。
髪飾りに伸ばした片手を、旦那さまがつかむ。
彼の頭が肩に降りて、艶やかな低い声が耳元で囁いた。
「……外すことはない。お前がどうしてそれをつけてきたのかくらい、俺もわかってる。貴族社会の礼儀だ。ヤキモチなんか妬いてない」
わたしは頷いて、壊れないようにそっと、花束を抱き締めた。
「旦那さま」
「なんだ?」
顔を上げた旦那さまに、わたしは頭を下げた。
「……ごめんなさい。わたしはなにも用意してないんです」
「奥方さまのせいじゃありません。殿下、あたしのせいなんです。奥方さまは祭りが初めてなんですから」
「それを言うなら俺のせいだ。新米侍女のベルカに忠告をしなかったんだから。……殿下、怒るなら俺を」
旦那さまは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「お前たちの中で、俺はどれだけ心が狭いんだ? メシュメシュにとって初めての祭りだということも、突然侍女にされたベルカに余裕がなかったこともわかってる。……まあ、星影は責任を取って、自分が注文した砂糖菓子を受け取りに行ってくれてもいいぞ」
「責任を感じるからこそ、俺は殿下から離れずにお守り申し上げます」
「お前、俺をからかって楽しんでるな」
「旦那さま」
わたしはふたりの会話に割り込んだ。
砂糖菓子を用意していなかったのは事実だが、昨日ベルカやクークちゃんと話したときに思いついたことがある。
「なんだ」
「わたし、結婚のとき母さまにもらったヘソクリを持ってきてるんです。お店はたくさんありますし、なんでも好きなものをおっしゃってください」
「なんでも、か」
わたしが頷くと、旦那さまは空を見上げて歩き出した。
隣に並んで進みながら、答えを待つ。
風が心地良い。昼の空は真っ青で、見えない満月は夜を待っている。
「……そうだな。フムスが食べたい」
フムスとは、茹でたひよこ豆にニンニクやゴマ、油、香辛料などを加えて、なめらかになるまで潰してかき混ぜた料理だ。野菜やパンにつけて食べる。
前世のゲームの中でも、現世でも作ったことがあった。
「それでは惣菜を売っているお店を探しましょう」
さっき、焼いた貝と炒めたご飯を貝殻に載せて売っていた店があったっけ。
海に近い帝都では、新鮮な海産物が手に入るのだろう。前世のわたしが海へ行ったかどうかは思い出せないが、海鮮料理の美味しさは不思議と覚えている。
辺りを見回すわたしに、旦那さまが苦笑を漏らす。
「違う。お前が作ったものを食べたいんだ。熊王アルド殿に聞いたぞ、お前の得意料理だと。材料さえ用意すれば、応接間に備え付けられた厨房で料理できるだろう」
「得意というか、よく作ってはいましたが」
「ちょっと変わった味付けらしいな」
「ええ、あの……マズナブ王国では、フムスに入れるトウガラシは辛くない甘酸っぱいものを使うのです」
前世ではパプリカと呼ばれていた野菜だ。
「でもわたしは、あの、辛いほうのトウガラシを使うんです。マズナブは甘み重視の味付けだから、わたしのフムスは人気がなくて」
実をいうと、わたし自身も美味しいとは思っていない。
思っていないのだけど、なぜか辛いトウガラシを入れずにはいられないのだ。
ファダー帝国は辛みの強い味付けだから、旦那さまには喜んでもらえるだろうか。
「人気がないとは残念だな。あんなに美味いのに」
「え?」
「まあ仕方がないか。あれはお前が、俺だけのために作った料理だものな。……なんだ、それも忘れているのか」
マズナブ王国に来たばかりの旦那さまは、ファダー帝国と違う味覚に戸惑って、あまり食事を摂らなかった。母君を失った悲しみもあったのだろう。
それを心配したわたしが、マズナブではあまり使わない辛いトウガラシを取り寄せて、特製フムスを作ったらしい。
「……すみません。全然思い出せません」
花束に顔を埋めかけて、わたしは慌てて頭を上げた。
でも遅かった。
紫色の鬱金香の先が割れている。
「本当にすみません。せっかくいただいたのに」
「バカだな。これは食べるものだぞ」
旦那さまは笑って、割れた花びらをつまみ上げた。
「顔を上げて、あーん、だ」
「……あーん」
甘い花びらが口の中で溶けていく。
「美味いか?」
「とっても!」
「そうか。じゃあ俺も美味いフムスを期待している」
「……頑張ります」
前世の記憶で旦那さまの役に立てるのは嬉しいけれど、現世のことも思い出せたらいいのに、とわたしは思った。
どうしてこんなに大好きだった相手を、女の子だと思い込んでいたのかしら。




