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どこかで鳥が飛び立った。
羽ばたきの風が砂の海を渡っていく。
わたしはラクダの背にしつらえられた輿の中で、流れていく白い朝霧を見ていた。
それほどの距離ではないのに、うっすら漂う霧は帝都の城壁を覆い隠している。
今日は旦那さまとわたしの結婚を祝って、皇帝陛下が主催してくださった狩りの日だ。
一か月後の武術大会ほど大々的なものではないので、故郷の父さまは来ていない。
出席者は仕事で帝都に暮らしているか、近くに国や領土のある貴族たちだけだ。
それでも百人は越えるだろう。
従者や護衛を入れればもっとだ。
砂漠の狩りは太陽が昇りきらない早朝に行われる。
夜の極寒と昼の灼熱のはざま、一番快適な時間かもしれない。
皇帝陛下を初めとするファダー帝国の重鎮たちは馬に乗り、先を進んでいる。
王侯貴族もその従者や護衛たちも男女比は半々だ。
ゲームのモデルとなった前世の砂漠の国々と違い、帝国における男女の差は少ない。変身する獣によっては、女性のほうが強い種族も多いからだろう。
男性にヒゲを生やす習慣が根づかなかったのも、獣化の影響に違いない。
髪と特別な部分以外の体毛は、獣化を解くとき消えてしまう。
露を含んで固い朝の砂漠に、軽やかな足音が響く。
足の長い犬たち──彼らは普通の獣──が、霧の中を走り回っている。
砂と岩ばかりに見える砂漠には、多くの生き物が息づいていた。
この辺りにも象や鹿がいる。
危険な魔獣もいるかもしれないが、旦那さまなら難なく倒す。十年後のゲーム本編でも、民を思って単身魔獣退治に繰り出しては、部下に怒られていた人なのだもの。
ぶるる、といななきが聞こえた。
四方を布に囲まれた輿の、布をまくり上げた前方に馬が現れる。
しゃくれた顔の馬が、先の細い鼻先を突き出してきた。
地色もたてがみも純白、乗り手と同じ月色の馬だ。
銀月の髪に逞しい褐色の肌を持つ青年の、切れ長な青玉色の瞳がわたしを映す。
母君が異国から連れてこられた奴隷だった彼の肌は、日に焼けていなければ、昨夜の獅子の体と同じように白いのかもしれない。
「体調はどうだ、メシュメシュ」
「大丈夫です。父の狩りにもよく同行していたんですよ」
熊獣人が治める故郷のマズナブ王国では、犬ではなく豹に獲物を探させる。
だけど獅子獣人の皇族が治めるファダー帝国では、そうはいかない。
獣人と本来の獣は異なるとはいえ、近い外見を持つ生き物を使役するのははばかられるものだ。帝国領で飼われる豹や虎は愛玩用だった。
もっとも同じ外見を持ちながら、獣化できない『できそこない』の多くは、奴隷として使役されているのだけれど。
「いいものを見つけたぞ、ほら」
旦那さまがわたしに、こぶし大の白い茸を投げ渡してきた。
表面に水玉状の茶色いつぶつぶがある。
栄養価が高く、神の恵みと呼ばれる高級食材だ。
人工栽培が成功していないので、王侯貴族であっても気軽には食べられない。
王女のわたしも片手で足りる程度の回数しか口にしたことがなかった。
味は濃厚で──前世で食べたカニクリームコロッケに似てる。
ゲームのこと以外は、自分の名前も前世の家族の顔も思い出せないのに、なんでそんなことだけ覚えているのかしら。とりあえず、神の恵みは美味しい。
春の朝月、珊瑚月が旬だといわれているのに、春の昼月、金剛石月に顔を出すなんて、ずいぶんのん気な神の恵みだ。
「うわー、神の恵みじゃん。幸先いいねえ、殿下」
旦那さまの腹心、月影が掠れた声で歓声を上げる。
二十歳の彼は、十七歳の旦那さまより背が低く小柄だ。
はるか遠い東の国からやって来たという父親の血を引いているかららしい。
糸のように細い目や真珠のように白い肌も東の国の特徴だ。
闇を溶かした黒い髪は、光を浴びても赤らむことがない。
獣化できないし魔法も使えないものの、独特な戦闘技術を持っている。
戦闘技術とともに父親から、口の周りに布を巻くという風習も受け継いでいた。
一部の遊牧民と同じ風習だが、月影のそれはたぶん前世の世界にいた忍者を意識しているのだと思う。
彼は『剣の人』と呼ばれる軍事奴隷。
ファダー帝国には軍事奴隷と家内奴隷がいる。
帝国奴隷は獣化できないことが前提なので、男女の力の差が大きい。
軍事奴隷は男性、家内奴隷は女性というのが一般的だ。
北の大陸の農業奴隷と比べると、帝国奴隷はそれほど酷い扱いは受けていないという話だが、結局は主人次第。旦那さまの母君のように暴力を受けて亡くなってしまうものも多かった。
獣化の能力を隠し奴隷として育った旦那さまは、帝国の制度についていろいろ思うところがあるようだ。
親に売られたなどで帰るところのない奴隷の女性を買い取って、自分のハーレムで世話をしている。いつかひとりでも生きていけるよう適性に合った教育を与えているという話は、前世遊んだゲームの中で元奴隷だった女性から聞いていた。
妾にしているのではないと知っているので、ヤキモチなんか妬かない……ようにしている。
そういえばあの赤い髪の女性、今ハーレムにいるのかしら。
「どうした、星影」
旦那さまがもうひとりの腹心、星影に声をかけた。
星影は月影の双子の兄で、やっぱり二十歳の男性だ。
小柄だが、弟よりもがっしりした体をしている。
彼は俯いて眉間に皺を寄せていたのだけれど、いつも無口でこんな風なので、わたしは不思議に思っていなかった。
靴先で地面を探っていた星影が、ぼそりと答える。
「……殿下、ここにもありました」
その場にしゃがみ込んで、星影は白い茸を持ち上げた。
さっき旦那さまにもらったものよりも、やや小さい。
「良かったな、星影」
「いえ、俺は仕事中です。これは殿下か奥方さまに」
「気にし過ぎだ。お前が食べるなり売るなりすればいい」
「そうだよ、兄ちゃん。一緒に食べよう! 俺、スープがいい!」
「……わかった」
食いしん坊の弟に苦笑を漏らして、星影はゆったりした服の袖に茸をしまった。
いつも旦那さまとわたしを守ってくれている、この双子はとても仲が良い。
傭兵だった彼らの父親の死後、帝都の裏通りにある地下闘技場で、人気闘士の試合の前座として魔獣と戦っていたふたりを拾い上げたのは、わたしの父さまだったという。
父の熊王アルドは、毎年開催される武術大会で優勝するだけでは飽き足らなくて、限りなく違法に近い賭け闘技場にまで出場していたわけだ。
星影と月影は魔獣と戦う闘獣士だったのではない。
魔獣の強さを見せつけるための生け贄として買われた子どもの奴隷だった。
だけどふたりは幼いながらも父親譲りの技と素早さ、兄弟ならではの協力攻撃で魔獣を打ち倒して生き延びた。
父さまに引き取られたふたりは、暗殺者として旦那さまに送られ、何度か戦って互いの力を認め合った後で、正式に護衛として譲渡されたのだ。
最初から護衛として紹介すれば良かったのにと思うのだけど、殺す気で渡り合わなければ真の実力はわからないということなのかしら。
父さまは旦那さまに武術の基礎を教えたというし、三人とも自分の弟子のように思っているのかもしれない。
でもやっぱり、ほかにも良い方法があったような気がした。
我が父ながら戦いが好き過ぎる。
「獲物が見つかったようだ」
「旦那さま、お気をつけて」
鋭敏な獅子獣人の旦那さまが、『できそこない』のわたしは気づかなかった合図に気づいて、ほかの狩人たちと同じ方向へと向かう背中を見送る。
獣化できないわたしは、これ以上狩りの本隊に近寄ると足手まといになってしまう。
わたしを護るために残された月影が、楽しそうに笑った。
「今日の殿下張り切ってるね。奥方さまにいいとこ見せたいのかな?」
「殿下と奥方さまのために皇帝陛下が開催された狩りだ。いつものように隅に隠れてはいられないだろう。……また、あった」
「え、神の恵み? じゃあ今度のは焼いて食べようよ!」
神の恵みは雷の後に現れるといわれていた。
砂漠といっても、雷も落ちるし雨も降る。最近雨が降ったのなら、どこかに花畑ができているかもしれない。砂の下には種が眠っていて、雨に反応して花開くことがあるのだ。
遠い遠い昔、この大陸は緑の大地だった。
一部を除いて砂の海に変わってしまったのは、不老不死を求める探究者たちの飽くなき実験の犠牲にされたからだ。
薄れていく白い朝霧の中を見回して、わたしは気づいた。
「……病院の匂い?」
消毒液を思わせる刺激臭を感じたのだ。
前世の記憶が蘇る。白い部屋、薬の匂い。帝国にも病院はあるけれど──
香りが漂ってくる方向へ目をやると、狩りが始まっていた。
旦那さまたちは獣化して馬を降り、毛の多い象のような生き物と戦っている。
魔獣の白い毛は風がなくても揺らぎ、ちかちかと小さな光を放っていた。
口元から伸びた長い牙が、ここからでもわかる。
「サンダーマンモス」
わたしは呟いた。