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「守っていてくださったのですね。わたし、全然気づいていませんでした」
「皇帝陛下のご命令です。女ばかりといえども、なにがあるかわかりませんから」
隣に座ったティーンさまは、どこか落ち着かない様子だ。
隠れて護衛してくれているときに呼ぶのは、失礼だったかもしれない。
とはいえ、もう来てもらった以上どうしようもない。
わたしは氷蜜の器を差し出した。
「よろしければ」
「ありがとう、いただきます」
匙を取って氷蜜を口に入れ、金色の瞳が輝いた。
「美味しい!」
「良かったです。わたしもいただきますね。……本当に美味しいですね」
中の氷には、やっぱり丸ごと苺の砂糖煮が入っていた。
でもそれだけじゃない。
上にかぶせられた卵白の下に卵黄のクリーム、前世でいう──たぶん現世もあるけれど──プリンのようなものが入っていたのだ。
「焦がした表面がパリパリで、泡立てた卵白がフワフワ、卵黄のクリームがトロリ、サクサクの氷に煮詰めた苺の甘さととろみ……なんと美味しい氷蜜でしょうか」
ティーンさまは、うっとりした顔になる。
「是非とも皇帝陛下に召し上がっていただきたいものです」
「皇帝陛下は甘いものがお好きなのですか?」
「はい。陛下は読書を好まれます。武術などで体を使った後は辛い物が欲しくなりますが、頭を使ったときは甘いものが欲しくなるのだそうです」
前世も聞いた話だ。
氷蜜の半分と、わたしがお分けした少々を食べ終えて、ティーンさまは満足そうな顔になった。もちろんクークちゃんのため、苺とクリームはひと口残している。
「毎年この浴場に通っていますが、氷蜜を食したのは初めてです」
「まあ、そうなんですか?」
「宮殿には優れた武人たちがいます。自分ひとりがいなくても陛下は大丈夫だとわかっているのに、離れていると心配で落ち着きません。虎夫人のように、体をほぐしてもらうくらいの余裕があると良いのですが」
「……ティーンさまは、皇帝陛下を好いていらっしゃるのですか?」
わたしはつい、余計なことを聞いてしまった。
前に生じた疑問が、まだ頭の中に残っていたのだ。
──ギリリ、リ。
前世の記憶が蘇る。
『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』とは、なんの関係もない。
いつ観たのかもわからないホラー映画の一シーンだ。
呪われた人形が、無機質な音を立てて首を回す。
目の前のティーンさまは、正にそんな感じだった。
顔から表情がなくなり、無言で頭を動かして金色の瞳でわたしを射る。
地の底から響いてくるような声が耳朶を打つ。
「……なぜ、気づいたのですか?」
前世遊んだゲームのセリフから、なんて言えるわけがない。
ほかの方々との距離は十分にあるけれど、わたしは声を潜めて返答した。
「えっと、あの……こ、恋する乙女の勘です」
「恋する乙女?」
「はい。わたしも旦那さま、バドル皇太子殿下に恋をしているので、同じように皇帝陛下に恋していらっしゃるティーンさまのお気持ちを察したのです」
「自分は気づいていませんでした。妃殿下は政略結婚で、イヤイヤ皇太子殿下に嫁がれたのだと思っていました。……自分の気持ちはニセモノなのでしょうか」
「そ、そんなことありません。わたしは時間に余裕があるので、いろいろなことを考えていただけです。ティーンさまはご多忙な陛下の護衛、ほかのことに意識を向ける暇などあるわけないじゃないですか」
わたしの言葉に、ティーンさまは俯いた。
金色の瞳から光が消えて、ひどく暗い雰囲気を醸し出している。
「……妃殿下は、いつから皇太子妃としてのお役目に就かれるご予定ですか?」
「それは……」
民との謁見、属国の代表との会見──本来なら皇族や王国貴族には多くの仕事がある。
男女の差の少ない獣人の貴族社会では女性も多忙なものだった。
わたしもマズナブ王国にいたころは、王女としてそれらの仕事に携わりつつ、書類仕事が苦手な父さまを手伝ったりもしていた。
嫁いでからのわたしは、一日のほとんどを旦那さまの部屋で過ごしている。
この大陸の民が支配者層に求めるのは、強さだ。
砂漠に現れる魔獣を排除して、交易路を確保するのは逞しい獣人にしかできない。
ほかの種族との諍いの解決にしたって、弱いと侮られていては話にならない。
不死者にだって、強くなければ立ち向かえない。
マズナブ王国なら、わたしの後ろには父さまがいた。
わたしがどんなに弱くても、父さまの強さが補ってくれた。
それでも、獣化できないわたしに任される仕事は少なかった。
ましてファダー帝国では、わたしは『できそこない』に過ぎない。
父さまはただの属国の王だ。
ティーンさまが溜息をついた。
「皇太子殿下は妃殿下を公務から遠ざける方針のようですが、皇帝陛下はやる気さえおありなら、いつからでも働いてほしいとのお考えです。その際には、自分が護衛に就くようにとご命令をいただいております」
「帝国のお役には立ちたいと思っていますが、まだ……」
「そうですか!」
輝く金色の瞳をわたしに向けて、ティーンさまは象牙の肌を赤く染めた。
彼女はわたしから顔を背け、恥ずかしそうに言葉を続ける。
「し、失礼いたしました。妃殿下のお力を疑っているわけではありません。ただ自分は……ずっとこのまま陛下のお側に仕えるか、変わるとしても陛下のお妃さまの護衛になるのだと思っておりましたので」
わたしの護衛になったら、皇帝陛下と会える時間はかなり減ってしまう。
他人が口を挟むことではないとわかっていながらも、わたしは尋ねた。
「……ティーンさまは、皇帝陛下とご結婚なさるつもりはないのですか?」
真っ直ぐな黒髪を揺らして、ティーンさまは沈痛な面持ちで首を横に振る。
「自分にその資格はありません。自分は……陛下を愛し過ぎています。初めてお会いした瞬間に、心を射抜かれてしまったのです。幼いころ武術の稽古から逃れた陛下を図書室で見つけたときなどは、嬉しさのあまり興奮し過ぎて、陛下がお持ちだった本を引き裂いてしまいました。もし陛下のお情けをいただけるなどということになったら、自分がなにを仕出かすかわかりません」
金色の瞳でわたしを見つめ、彼女は念を押す。
「本当にわからないのです」
それに、とティーンさまは寂しげに微笑んだ。
「陛下には、相手の幸せだけを望んでほかの男との駆け落ちを許すほど、愛してらっしゃった女性がおいでですから。……氷蜜をありがとうございました、ごちそうさまです。今日の話はご内密にお願いします」
ほっそりした体躯が立ち上がったのは、ベルカとクークちゃんが戻ったことに気づいたからだろう。
──ティーンさまが去った後、わたしは三個目の氷蜜を食べた。
ベルカとクークちゃんが遅かったのは、最初に用意されていた献立が全部なくなっていたため、新しいものを作るまで待っていたかららしい。
クークちゃんにあげた翼のアカすりの端っこが破れていた。
まさか待ってる間齧ってたのかしら。
使ってないから綺麗だけど。
虎夫人にもらった苺とクリームを食べるクークちゃんは心なしか幸せそうで、わたしは幼い笑顔を見ながら、彼女の母親を想像していた。
皇帝陛下の許婚として公務にも携わっていたという彼女は、母である虎夫人と同じで美しく強い方だったのだろう。薬に詳しく、わたしと違って獣化もできた。
わたしにもそんな完璧な恋敵がいたら、と思うと、ティーンさまの寂しげな微笑みが理解できるような気がした。