18
「あの……どなたかお探しですか?」
そう尋ねてしまったのは、隣に座った虎夫人が、わたしの周りに視線を走らせていたからだ。
金の髪に引き締まった白い肌、緑の瞳。
ここは浴場、手にした薄布以外はみんな裸なので、体の線がよくわかる。
虎夫人は大人なので耳と尻尾は出していない。
武術大会で戦うときは、旦那さまとゼェッブさまが修行していたときのように、半獣半人の姿になるのだろう。
故郷の父さまより年上だとは信じられないほど若々しい虎夫人は、自分と同じ豹獣人の息子と、夫と同じ虎獣人の娘を産んでいた。
旦那さまの腹心ネムル・アルカトさまと、クークちゃんの母親だ。
獣化できる獣人同士の結婚で、種族の違いはあまり重要視されない。
『できそこない』と結婚するよりも、獣化できる子どもの出生率が高いからだ。
ベルカの弟のように獣化できない同士の結婚で獣化できる子どもが生まれる場合もあるけれど、それはかなり珍しかった。
違う種族の獣人が結婚したとき、生まれる子どもの種族は両親のどちらかと同じになる。
ふたつの種族が入り混じる姿になったり、遠い先祖の姿が蘇ることはなかった。
一番影響するのは風土なのかもしれない。両親のどちらかと同じで、その土地で一番多い種族に生まれることが多いようだ。ただし神の祝福で誕生した獅子獣人だけは違う。
形の良い眉を吊り上げて、虎夫人がわたしを見る。
「妃殿下はおひとりなのですか? 皇太子殿下の妃ともあろうお方が、不用心ではないでしょうか」
「も、申し訳ありません。侍女が一緒なのですが、氷蜜を取りに行かせていて」
クークちゃんのことも言ったほうがいいかしら。
浴場で一緒にいるところは目撃されていると思うけれど、ネムル・アルカトさまは仕事のこと以外では虎夫人と話をしないそうだし。
「氷蜜……妃殿下は甘いものがお好きなのですか?」
「はい」
「さようでございますか。あたくしは甘いものは好みません。よろしければ、こちらの氷蜜をもらっていただけませんか?」
虎夫人が差し出してきたのは、さっきベルカが教えてくれた一番人気。
氷の上に泡立てた卵白をかぶせて焦げ目をつけたものだった。
前世の記憶が確かなら、中の氷には丸ごと苺の砂糖煮が入っている。
「甘いもの……お嫌いなんですか?」
「好みません。甘いものなど、子どもの食べるものです」
もしかして虎夫人は、クークちゃんと仲直りするつもりなのだろうか。
だとしたらベルカと行かせるんじゃなかった。
無理する必要はないけれど、仲良くできるならしたほうがいい。
クークちゃんが戻るまで、虎夫人を引き止めておこうかしら。……どうやって?
どうぞ、と氷蜜の器を渡して、虎夫人が立ち上がる。
座っていたのは、ほんの一瞬だった。
やっぱりわたし自身には用事がないのだろう。
必死で話題を探しながら、虎夫人に呼びかける。
「虎夫人、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「……なんでしょう」
「あの、えっと、あの、ご夫君の虎王陛下はどのような方でしたか?」
「バカです」
「え?」
「我が夫ながら、本当にバカな男でした。妃殿下の周りには皇帝陛下を初めとして、素晴らしい殿方がたくさんいらっしゃいます。あんなバカな反逆者のことなど知る必要はございません」
「……」
「……妃殿下? どうなさいましたか」
「ご、ごめんなさい」
わたしは緩んだ口元を引き締めた。
「虎夫人のお姿を見ていたら、故郷の母のことを思い出してしまって」
「あたくしのような年寄りと一緒にされたのでは、熊王陛下のお妃さまに悪いというものです」
「虎夫人はお若いです。でもわたしが母を思い出したのは、虎夫人が虎王陛下のことを怒りながらも、嬉しそうに話してくださったからです」
「嬉しそうでしたか、あたくしは」
「はい」
虎夫人はわたしの隣に座り直した。
しばらくなにかを考えてから、ぽつりぽつりと話し出す。
「……あれは、本当にバカな男でした。くだらない友情なんかのために国を滅ぼして……大体あたくしとの結婚のときだって、政略結婚でも心は通わせたいと贈り物をくださったのは良いのですが、それが狩りたての鹿一頭丸ごとで! しかもその後館に押しかけてきて、丸焼きの半分くらい自分で食べてしまったのです」
虎獣人の王は、うちの父さまと同じ系統の男性だったみたいだ。
「本当にバカな男で……」
呟くようにそう言った虎夫人の顔は、微笑んで見えた。
獣化できてもできなくても、豹獣人の女性はみんなツンデレなのかもしれない。
「夫と同じ虎獣人に生まれた娘も、またバカなのですわ。大恩ある皇帝陛下を裏切って駆け落ちしたんですのよ?」
「大変だったのですね」
「ええ、まったく! そして孫は……妃殿下」
虎夫人は再び立ち上がった。
「その氷蜜、良ければバルクーク、あたくしの孫にも分けてやっていただけますか? あの子が身分を弁えず馴れ馴れしくしている上に、こんなお願いまでして申し訳ないのですが」
「はい。クークちゃん喜びます。とっても可愛いお孫さんですね。……湯浴みは嫌いなようですけど」
「あたくしも。この熱気風呂は好きですが、湯浴みは好みません」
「ふふっ」
「それと妃殿下」
「なんでしょう」
「先ほどは妃殿下に話しかけたいばかりに、おひとりでいらっしゃることを責めたりして申し訳ありませんでした。ベルカが優れた護衛だということは存じております。去年の武術大会の女奴隷の部で、優勝した娘ですもの」
それは本人から聞いていた。
男女総合の部で星影に負けてしまったそうだ。
負けた悔しさを語っていたはずなのに、いつの間にか星影の強さを褒め称えていることを指摘したら、真っ赤になって照れていた。
「いえ、ひとりでいたのは事実ですので」
「それなのですが妃殿下。あたくしも座ってから気がついたのですが、ティーンが密かにお守りしているようですわ。きっと皇帝陛下のご命令で、影ながら見守っているのでしょう。陛下は皇太子殿下と妃殿下を心から大切に思っていらっしゃいますもの」
虎夫人がそっと示す方向を見ると、浴室の柱の陰に隠れたティーンさまがいる。
さりげなく向こうが顔を逸らした直前の、金色の視線を確かに感じた。
「バルクークに氷蜜を分けてやってくれとお願いいたしましたが、上が覆われているとはいえ、この熱気ではすぐ溶けてしまうでしょう。美味しいうちにお召し上がりくださいませ。……初対面のときに冷たく扱ってしまったので、あの子はあたくしがいなくなるまで戻らないと思いますわ」
申し訳なさそうに言って、虎夫人はほかの部屋へ移動した。
冷水の噴水がある部屋ではなく、揉み師に体をほぐしてもらう部屋だ。
彼女の若さの秘密はそこにあるのかもしれない。
わたしも後で行ってみようと思いながら、もらった氷蜜に視線を落とす。
確かに溶けてしまってはもったいない。
クークちゃんには砂糖煮の丸ごと苺を一個だけ残しておいて、虎夫人のお気持ちを伝えることにしよう。
とはいえわたしもさっき氷蜜を半分食べたし、匙も二本用意してくれているし……
わたしはあの柱に呼びかけた。
すっかり後ろに隠れているけれど、まだ気配を感じる。
「ティーンさま、虎夫人に氷蜜をいただきましたので、一緒にいかがですか」
柱の後ろから、ティーンさまが現れた。