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熱気に満ちた室内には、大理石を積み重ねて作られた長椅子が置かれている。
わたしは、絨毯が敷かれた長椅子の上のクッションに腰かけていた。
いよいよ今夜、武術大会が開催される。
「ふわあ」
隣のクークちゃんが、陽だまりの猫のような顔になる。
眠そうだ。
わたしもうとうとし始めていた。
体を包む熱気は、ほんのり硫黄の香りを含んでいる。
「ベルカが戻ってきたら、隣の部屋に行きましょうか」
「隣の部屋?」
「冷水が流れる噴水があるんですって。ほら、流れる水の音が聞こえてくるでしょう? 体にお水をかけたら、すっきりしますよ」
クークちゃんは、たちまち口をねじ曲げた。
熱気風呂で汗をかくのは好きだが、水やお湯で体を濡らすのは大嫌いなのだ。
虎獣人だから仕方がないのかもしれない。
彼女は今日も虎の耳と尻尾を出したままだ。
『できそこない』のわたしにはわからないけれど、獣化の制御は難しいのだろう。
実家にいる五歳の妹も、お風呂で魚のアカすりと格闘するときは熊の耳と短い尻尾が飛び出していた。
そういえば昨夜、旦那さまの寝顔を見ながら作ったアカすりは気に入ってもらえたようだ。今も抱き締めてくれている。
翼を模して作ったのに、クークちゃんにもベルカにも『美味しそうな手羽先』と言われたのはなぜなのかしら。確かに翼は後々手羽先になるけれど……布の色のせい?
クークちゃんは旦那さまと同じ夏の昼月生まれで護り石は紅玉、『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』の設定では、その石から現れる守護者は行動不能を回復する赤い鳥だった。……攻略本でしか見たことがないけれど。
「奥方さま、バルクークさま、お待たせしました」
ベルカが氷蜜を持って戻ってきた。
帝都で一番大きいこの浴場の人気献立だ。
クークちゃんの緑色の瞳が見開かれた。
「わあ」
「なんて綺麗」
氷蜜は、まるでケーキのように飾られていた。
前世のSRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』にあった料理のやり込み要素は、現世の世界にも息づいている。
わたしたちの称賛に微笑んで、ベルカが匙を渡してくれた。……二本しかない。
「ベルカも隣に座って一緒に食べませんか? わざわざ取ってきてくれたのだから、先に食べてくれてもいいんですよ」
「食べよー!」
ヨダレを垂らさんばかりのクークちゃんに苦笑して、ベルカは首を横に振った。
「あたしが座っていいところじゃないんで」
広い熱気風呂のあちこちに置かれた大理石の長椅子は場所ごとに格差があった。
貴族の当主、妻や娘、女官たち──宮殿の女性たちは、それぞれの身分や立場に見合った場所で寛いでいる。
わたしが無理を通しても、責められるのはベルカだとわかっていた。
「……持ってきてくれてありがとう。あちらへ行かなくても大丈夫?」
離れたところに、旦那さまのハーレムの女性たちが集まっていた。
話しているのはわかるけれど、話の内容までは聞こえない程度の距離がある。
隣の部屋から聞こえてくる流水の音も、ほどよく盗み聞きを防いでくれていた。
聞かれずに話ができるからこそ、みんな会話を楽しんでいる。
ベルカは頷いた。
「友達とは夜に戻ったときしゃべってます。こういうところで賑やかにするのとは、どうも気が合わなくて。奥方さまさえ良かったら、こちらでお世話をさせてください」
「わかりました。氷蜜は?」
「すいません。実は取りに行ったとき、凍った果物をいくつか摘まんできたんです。それで遅くなっちゃって」
「そうだったの。では遠慮なくいただきます。だけど食べたくなったら、いつでも言ってくださいね」
「ありがとうございます」
「……メシュメシュさま、食べていいの?」
「ええ、いただきましょう」
満面の笑顔で、クークちゃんが匙を入れる。
人気なだけあって、面白い氷蜜だ。
全体の形は両手の指で作った輪に収まるくらいの円柱形。
白いクリームと橙色の生の南国果実、同じ果実で作ったゼリーで飾られた表面を匙で崩すと、固められた氷蜜が現れる。削った氷には、満遍なく果実の蜜がかけられていた。
クリームには砕いた木の実と香ばしい飴が載せられていて、冷えた口の中を癒してくれる。
「美味しいですね」
クークちゃんは真顔で頷きながら、どんどん匙を進めていく。
宮殿で出される、薄く削ってふんわりさせた氷は毎日食べるのに向いていて、ここの氷は特別な日用という感じだ。食べるだけでワクワクしてくる。
「泡立てた卵白をかぶせて焦げ目をつけたのが一番人気なんですが、それはもうなくなってました」
ここは前世でいうバイキング形式らしい。
実はこの氷蜜、ゲームの中で作ったことがあった。
材料の南国果実を苺、クリームを卵にして作ると、今ベルカが言った氷蜜になる。
前世はゲーム画面で見るだけだったので、これが氷? と友達と一緒に首を傾げていたっけ。しばらくして友達が情報誌を持ってきてくれて、この氷が前世で実在しているものだと知った。
わたしが退院したら食べに行こうねと約束して──
前世の家族や友達の顔や名前を思い出せないのは、神の慈悲だと思う。
どんなに旦那さまのことが好きでも、ときどき故郷のマズナブ王国の家族と会いたくなる甘えん坊のわたしなのに、前世の家族や友達のことまではっきりと覚えていたら、どうなることかわからない。
今夜の武術大会に出場する父さまとなら会えるけれど、前世の家族や友達とは、もう二度と会うことはないのだ。もうずっと、永遠に──
「……奥方さま?」
「ごめんなさい。夢中で食べていたら、コメカミが痛くなって」
「クリームや果物で舌休めされるといいですよ」
「そうします」
と言ったものの、氷蜜はもう残っていなかった。
クークちゃんを見ると、てへーと恥ずかしそうに笑いを返す。
「メシュメシュさま、いっぱい食べてごめんなさい」
「かまいませんよ。ただ、お腹は大丈夫?」
「元気! もう一個食べても……」
クークちゃんの視線が、わたしの背後を見ている。
彼女は、ぴょこんと長椅子から飛び降りた。
翼のアカすりを片腕に抱いて、ベルカに言う。
「クーク、もう一個食べたい。ベルカ、一緒に取りに行こう?」
「え、あの、奥方さま?」
「……そうですね。空の器も持って行ってもらっていいですか?」
「はい、わかりました」
「じゃあこっち!」
「バルクークさま、そっちだと逆方向ですよ?」
クークちゃんとベルカが走っていく。
「慌てることはないですよ、気をつけていきなさい」
「はい、奥方さま。バルクークさま、ベルカと手をつないで歩いていきましょう」
「はーい」
さっきクークちゃんの視線を辿ったとき、近づいてくる虎夫人に気づいたのだ。
お互い良い印象を持っていないのなら、無理に顔を合わせることはない。
と思ったのだけど──
「妃殿下、お隣に座ってもよろしいかしら?」
「え、ええ、もちろんです」
氷蜜を手にした虎夫人は、わたしの隣に腰かけた。