16
ベルカの笑顔に満足したのか、クークちゃんがわたしの膝に腰を降ろした。
さっきまで一緒に読んでいた本に気づき、彼女が溜息をつく。
「あーあ、明日はお風呂か」
ベルカも思い出したのか、苦虫を噛み潰したような顔になる。
ファダー帝国には、武術大会の日の朝、宮殿の女性が帝都で一番大きな浴場へ行くという行事があった。わたしの膝上にある本の獅子姫さまが作ったものだ。
宮殿の女性が浴場へ向かう道は封鎖され、だれも覗いてはいけないとされている。
好奇心というものは、ダメだと言われると逆に湧いてくるものだ。
ゲームのモデルになった地域と異なり、普段から顔を隠さず──薄布で日光から身を守ることはある──生活している女性たちを見てはいけないと禁じることで好奇心を煽り、逃げた盗賊をおびき寄せようとしたのだという。
わたしはお風呂が好きなのだけど、クークちゃんとベルカは嫌いなようだ。
姪とはいえ女の子だから、とネムル・アルカトさまに頼まれたので、遊びに来たクークちゃんとお風呂に入るのが日課なのだが、彼女はお風呂を出てしばらくは口も利いてくれないほど不機嫌になる。
どうやら湯浴みで体が濡れるのがイヤなようだ。
──この大陸には、獅子、虎、豹、狼、蛇、そして熊というむっつの種族の獣人がいる。
草食獣の種族はいない。
呪いで変化しているので野生の獣とは関係ないが、尻尾の動きなど影響を受けている部分もあるようだ。わたしは獣化できないので、よくわからないけれど。
前世では猫の仲間といわれていた獅子、虎、豹の獣人はお風呂が嫌いで、旦那さまもイヤイヤ入っている。わたしと一緒なら喜んで入ると言われたこともあるものの、そんなことをしたら、間違いなく神獣に変身すると思う。
祝福と呪いの違いはあれど、神獣も獣化も魔力で体を覆っている。
呪いは探究者たちの魔力、祝福は魂の名前で呼び出された自分自身の根源の魔力。
そんな姿でお風呂に入っても意味はない。
……たぶん。
逆に狼、蛇、熊の獣人はお風呂好きだ。
実家にいたころは、毎日妹と入っていた。
でも妹は本当にお風呂が好きだったのかしら。
魚のアカすりで遊ぶのが好きなだけだった気もする。
湯船に浮かべたアカすりを片手で弾いて獲る妹の姿を見て、いつも既視感を覚えていたのは、前世の記憶が蘇ろうとしていたからに違いない。
前世を思い出した今のわたしの頭には、川でシャケを獲る熊の映像が刻み込まれている。
寝る前に、クークちゃん用に可愛いアカすりを作ってあげようかしら、なんて思いながら、わたしは口を開いた。
「お風呂の後はお祭りに行くのでしょう?」
「お祭り!」
クークちゃんは嬉しそうに両手を上げ、ベルカの顔色も明るくなった。
宮殿から浴場までの道を封鎖する代わり、べつの道で祭りが開催されるのだ。
お風呂を出た女性たちは祭りを楽しんで宮殿へ帰る。
これも獅子姫の伝説が由来だ。
覗きに来た盗賊を見事捕まえた獅子姫さまは、お風呂はまた今度にして、一緒にお祭りを楽しんだという。獅子だけにお風呂嫌い派だったようだ。
武術大会は夜、月が昇ってから始まる。
ファダー帝国では、夜は沈んでしまう太陽よりも昼も空にある月のほうが尊ばれていた。特に満月は、もっとも強く美しい存在とされている。
強過ぎるがゆえに満月は、昼の空には浮かばない。
その満月が輝く夜、燃え盛る松明に照らされて獣人は戦う。
膝上のクークちゃんがわたしを見上げる。
「クークね、おじさまに鳥さんのお菓子を買ってあげるの」
「優しいですね」
「うん。だってクークがあげないと、だれからももらえなさそうなの」
祭りでは、さまざまな色や形の砂糖菓子が売られる。
想い合う男女が相手に合わせた砂糖菓子を贈り合う習慣があるのだ。
ネムル・アルカトさまのような文官、『筆の人』には筆の形の砂糖菓子。
羽でできた筆から転じて、羽や鳥の形の砂糖菓子を贈ることもある。
獣人は強いものを好む。
文官で華奢な体のネムル・アルカトさまは──わたしは話題を変えた。
「ベルカは星影に剣の砂糖菓子を贈るのですか?」
「いえ、アイツは剣よりも筆や本の……」
ベルカの赤銅色の肌が、いつも以上に赤く染まる。
彼女は前世でいうところのツンデレだった。
「そ、そういうんじゃないです。そりゃ星影は強いし優しいし頭も良くて、あたしみたいな筋肉バカにも話し方や礼儀を根気良く教えてくれるけど、いえ、教えてくれるからお礼なんです!」
「ふふふ、わかりました」
星影や月影のような軍事奴隷、『剣の人』にはもちろん剣。
武術に優れた獣人ならば、牙や爪の形の砂糖菓子を贈るものだと母さまに聞いていた。
母さまは新婚のとき、まだ王子だったころの父さまとふたりでこの祭りに来たのだという。
贈った大きな熊の砂糖菓子をぺろりと食べて、ひと口だけとせがむから、もらった葡萄──母の名前──の砂糖菓子を渡したら、ひと粒残して全部食べられてしまったと、母さまはいつも怒りながらも嬉しそうに話してくれたっけ。
皇族でも獣の姿を模様として使うことはできないのだけれど、なぜか砂糖菓子を獣の姿にすることは許されていた。食べたら消えてしまうからかしら。
「奥方さまは殿下に、どんな砂糖菓子を贈られるんですか?」
「大きい獅子?」
ふたりに尋ねられて、わたしは首を横に振った。
神獣に変身することを秘密にしている旦那さまに、獅子の形のものは贈れない。
獅子獣人だから問題ないとは思うけれど、やっぱり気になるだろう。
「早めに注文しておかなかったので、凝ったものは無理なんです」
「すみません。奥方さまは初めての武術大会なんだから、侍女のあたしが気を利かさなくちゃならなかったのに」
ベルカが申し訳なさそうに頭を掻く。
「あなたのせいじゃありません。旦那さまは辛いもののほうが好きだから、あまり大きい砂糖菓子はどうかと思って」
「香辛料をふんだんに使った、独特の味わいの砂糖菓子もあるみたいですよ」
「それは素敵ですね」
「クークね、お花や木の実の砂糖漬けも好きー」
「まあ、それも美味しそう」
お風呂に祭り、武術大会。
盛りだくさんの明日が楽しみだ。
中でも一番の楽しみは、最近多忙で一緒にいられる時間が短かった旦那さまと過ごせることだった。もちろんお風呂と武術大会のときは離れ離れなのだけど、祭りはふたりで回れると聞いている。
なにしろ仕事復帰に加えて武術大会に向けた修行もしている旦那さまは、毎日疲れ切っていて、寝台に入るなり眠りに就いてしまう。朝食のときはネムル・アルカトさまと仕事の話。
このところ、満足におしゃべりもしていない。
神獣に変身もしないので、眠る旦那さまのモフモフを楽しむこともできなかった。
ワガママを言ってはいけないことくらいわかってる。だから、
……早く明日になぁれ。
わたしは胸の中で呟いた。