15
「……奥方さま」
ベルカの声に、わたしは慌てて頭を起こした。
えーっと、なにをしていたのだったかしら。
旦那さまの部屋の応接間、わたしは庭に面した窓辺に座っていた。
膝には本と、可愛い寝息を立てているクークちゃん。
庭の泉水が昼の太陽を反射する。植物の緑が鮮やかだった。
そうだ。
蜜月はとっくの昔に終わっていた。
時間は突風のように流れ去って、武術大会はもう明日。
春の夕月、翡翠月の満月の夜だ。
今日は旦那さまが仕事に行った後、クークちゃんに本を読み聞かせていたのだった。
ファダー帝国に伝わるおとぎ話、宮殿に忍び込んだ盗賊に恋をした獅子のお姫さまの伝説だ。
この世界の本は学術書が主で娯楽のための本は少ない。クークちゃんに読んでいたのは、わたしがおばあさまにいただいた海の物語のように、だれかがだれかのために作ったと思われる絵本だった。
宮殿の図書室から、ネムル・アルカトさまが借りてきてくれたのだ。
武術大会が終わって余裕ができたら、わたしも連れて行くと、旦那さまが約束してくれている。
図書室には、この大陸を流れる大いなる河に愛されて、紙の原料となる植物に恵まれたダルブ・アルテッバーナ女王国から来た本も多く所蔵されていると聞く。
形の上でこそ帝国の属国だが、広く豊かな国土と潤沢な資源を持ち、ほとんど独立しているといわれているダルブ・アルテッバーナ女王国には、この大陸最大の図書館がある。
わたしがおばあさまにいただいた絵本に描かれていた、蛇獣人が治める国だ。
ぼーっと考えを巡らせていたわたしに、庭で鍛練をしていたベルカが、心配そうに尋ねてきた。
「お眠りだったのを邪魔してしまいましたか?」
「いいえ、大丈夫です。どうしたの?」
「あ、いえ、大したことではない……というか、今ごろお聞きするようなことじゃないのかもしれないんですが、あの、奥方さまは熊王アルドさまの娘、じゃなくてご令嬢なんですか?」
「ええ、そうです」
「そうでしたか! すみません、あたしはどうもおしゃべりが苦手で、噂話から情報を仕入れるのが下手なんです」
「かまいません。こちらこそ、ちゃんと言っていなくてごめんなさい。わたしはぼーっとしているのが好きなほうだから、ベルカが侍女で良かったです」
窓辺でわたしが縫い物をしたり読書をしたりして、面した庭でベルカが簡単な鍛練をしているのが、最近は当たり前の風景になってきた。
ネムル・アルカトさまが朝食を終えて仕事に向かった後は、クークちゃんも仲間入りだ。彼女は楽しそうに、わたしと本を読んだりベルカの鍛練を真似したりしている。
「しかしすごいですね! 武術大会で毎年優勝なさってる、あの熊王さまがお父上なんて」
「ベルカは父さまの試合を見たことがあるの? わたし、武術大会は今年が初めてなんです」
「そうだったんですか!」
赤茶の瞳が丸くなる。
「熊王さまはすごいですよ! ほとんど一撃で勝負が決まるんですけど、けして力任せの技じゃないんです。ご自分の力を理解し、相手の力を理解した上での一撃というか……あたしは女ですが、武人として尊敬しています。あんなお父上がいらっしゃって、奥方さまが羨ましいくらいです」
「ありがとう。ベルカのお父さまはどんな方でした?」
口に出してから失言に気づく。
ベルカは奴隷だ。
旦那さまのハーレムにいたということは、家へ戻れない事情があるということ。
わたしが簡単に聞いていいような話ではない。
「ご、ごめんなさい、ベルカ。……言いたくないことは言わなくてもかまいませんから」
「気にしないでください、奥方さま。あたしの父親のことですよね? まあ、普通の平民でしたよ。獣化はできなかったけど結構力はあって、故郷の村では頼りにされてました。平民なんて、ほとんどみんな『できそこない』ですから」
平民は貴族以上に、獣化できる子どもの出生率が低いと聞いたことがある。
地域によっては奴隷よりも苦しい暮らしをしている平民がいて、自分で自分を売るものも多い。軍事奴隷には出世の道があるからだ。
実際、奴隷の星影は旦那さまの護衛隊長、月影は副護衛隊長の地位にある。
宰相にまで上り詰めるものも少なくはなかった。
「母親も獣化はできなかったんですが、なんでかあたしの弟が尻尾を持って生まれてきたんです。耳も獣のもので。あたし、自分や村のみんなが豹獣人だって、そのとき初めて知った気がします」
弟のことを思い出したのか、ベルカは眠るクークちゃんを愛しそうに見つめる。
「母さんは弟を産むと死んじゃったんですけど、親子三人それなりに楽しく暮らしてました。弟がよっつかいつつになったころ、貴族の家から養子縁組の申し出が来たんです。その直後に弟が病気になって、貴族にもらった高額の支度金でも薬代に足りなくて、それであたしがこういうことに」
「……弟さんは?」
ベルカは無言で首を横に振る。
「父さんももういません。娘を売った罪悪感と、息子を失った悲しみと、貴族からもらった支度金を返済するための過酷な労働で疲れ果てて……」
「クークのととさまとかかさまがいれば良かったのにね」
幼い声が言って、溜息をついた。
「クークちゃん」
「……ベルカ、こっち来て」
「は、はい」
クークちゃんはわたしの膝の上に立ち、ベルカはその前に跪いた。
細い腕が伸びて、小さな手が赤い髪を撫でる。
「ベルカの弟は冥府で幸せに暮らしてるから大丈夫なの」
冥府には神が治める死者の楽園がある。
この大陸では、運命とは神が決めるものだ。
旦那さまは未来は変わる、変えられるという考えの持ち主だし、前世の記憶を持つ転生者のわたしもすべてを神に委ねるほど信仰に篤くはなかった。
けれど運命は神が決めるという考え自体を否定する気はない。
だって世の中は、努力が報われるとは限らないものだ。
顔も名前も忘れてしまった前世の母が口にしたある言葉を、わたしは今も鮮明に思い出せる。彼女の顔も名前も思い出せないのにね。
死に至った病気が発覚したとき、母はわたしを抱き締めてこう言った。
──この子は悪いことなんかしてないのに。
自分の行動をすべて思い出せるわけではないものの、母の言葉は間違っていないと思う。
病気や事故、事件なんてものは、善悪を無視して降りかかるものだ。
かつて獣人たちが探究者に呪いをかけられたのだって、彼らが悪かったからではない。
弱かったからかもしれないが、弱いことは悪いことではないはずだ。
それでも人は理由を求めてしまう。
本人だけでなく周囲も。
あれが悪かったのではないか、こうすれば良かったのではないか、そう思い悩む。
運命は神が決めるという言葉はきっと、無意味な後悔から心を救うためにあるのだ。
時間は戻らない。どんなに悔やんでも過去は変わらない。
精いっぱい頑張って、それでもダメなら神が決めた運命だから仕方がない。
そう考えたっていいのではないだろうか。
「……わたしもクークちゃんの言う通りだと思います」
わたしが言うと、ベルカは静かに微笑んだ。