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──神によって創られた、すべてのものには魔力が宿っている。
そして、世界は魔力に満ちていた。
目に見えるものでも手で触れられるものでもないが、風が涼しく炎が熱いのと同じように、魔力は世界に影響する。
自分の魂に宿った魔力を意識的に放出して、世界に影響を与えることを魔法という。
呪いとは、他人の魔力で覆われて自分の魔力を放出できないことだ。
獣化は、呪いの膜の下に魔力を放出して獣の姿を取ることだった。
髪や特別な部分以外の毛が獣化を解くと消えてしまうのは、放出された魔力が呪いに覆われて変化したものだからだという。元から生えているヒゲまで一緒に消えてしまう理由は、はっきりしていない。
力が強くなるのも回復力が高まるのも、放出した魔力が世界に流れていかず、呪いの膜の下に留まっていて、同じ魔力を素早く何度も使えるからだ。
しかしそれには弱点もあった。
同じ魔力を繰り返し使っていると劣化が早く、寿命を縮めてしまうのだ。
獣化の権限を探究者が持っていたころは、自分の意思に反して獣化させられ続けた獣人たちの寿命は短かった。劣化した魔力によって、暴走することも多かったようだ。
今の獣人は獣化を制御できる。
おかげで、北の大陸や島王国の人間と寿命は変わらなくなった。
わたしのような『できそこない』の場合も、呪いの膜はある。
でもどこかがほころびていて、放出した魔力は世界に流れていく。
どこがほころびているのかわからないので、魔法として制御できない。
呪いを繕うなど探究者でもなければ無理なことだから、閉じて獣化することもできない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そんなことをつらつら考えていたのは、目の前の光景から意識を逸らすためだ。
自分から再戦を申し出たのに、旦那さまの足取りは覚束なかった。
戦いに詳しくないわたしでも黒い狼に押されているのがわかる。
クークちゃんと月影は、残念そうに溜息を漏らしていた。
ゼェッブさまは相変わらず千切れそうなほど尻尾を振って、旦那さまを追い詰めていく。
旦那さまはなんとか避けているけれど、動きにキレを感じない。
狼の鋭い爪と獅子の白い毛並みの距離が、どんどん縮まっていくようだ。
これは武術大会に向けての修行で、命がけのものではない。
わかっていても飛び込んで旦那さまを庇いたくなる。
『できそこない』のわたしがそんなことをしたら、怪我では済まないのに。
旦那さまとゼェッブさまの戦いを眺めていたクークちゃんが、振り向いてわたしを見上げる。
「メシュメシュさま、大丈夫なの」
わたしの不安を感じ取ったのだろう。
子どもは周囲の雰囲気に敏感だ。
「ありがとう。そうね、わたしが旦那さまの勝利を信じなくては」
「うん。えっと、皇子さま、がんばれー」
「旦那さま、頑張れー」
わたしたちの声援が届いたのか、旦那さまがこちらを向いて微笑んだ。
でも!
「危ないっ!」
振り向いたことで体勢を崩した旦那さまを、ゼェッブさまの爪が抉った──ように思えたのだけれど。
旦那さまは、これまでの覚束ない足取りが幻だったような敏捷さで、近くの庭木をつかんで跳躍し、ゼェッブさまの攻撃を避けた。
勢いのついていたゼェッブさまの爪は、近くにいた月影の鼻先をかすめる。
月影は戦いに興奮して、前のほうまで足を進めていたのだ。
ギリギリで触れなかったらしい。
横顔を見る限りでは、彼の肌に傷はなかった。
月影が細い目をさらに細める。
笑っているのだと思うけど、なんだかイヤな雰囲気だ。
ゲームの中、四天王のひとりとして対峙した彼は、いつもあんな目をしていた。
ゼェッブさまが身を翻し、再び旦那さまに爪を振り下ろす。
旦那さまは身をかがめ、素早く動いてゼェッブさまの背後を取った。
首と利き手を押さえて動きを封じた黒い狼の体をわたしたち、いや、月影に向ける。
いつもは艶やかな旦那さまの低い声が、冷たく響く。
「……月影」
「なぁに、殿下?」
「手に持った得物をしまえ。今日は俺とゼェッブの修行だ。お前は関係ない」
……手?
見ると、月影は小さな刃を握っていた。
いつの間に構えたのだろう。さっき笑った瞬間のような気がした。
「わかってる。これは驚いて出しただけ」
「そうか。なら、しまえ」
「うん、そうだね」
「……どうして、お前の視線はゼェッブの急所を射ているんだ?」
「さあ? やだなあ、殿下。心配しないでよ。俺は大丈夫。ちゃんと役に立つよ。……ふふっ。あはははは」
いつもの掠れた声とは違う甲高い笑い声が、月影の口を覆う布からあふれ出る。
顔を歪めたクークちゃんが、わたしの足にしがみつく。
以前、旦那さまに聞いたことがあった。
裏通りの地下闘技場で魔獣の生け贄にされかけた月影は、だれかの攻撃を受けそうになると破壊衝動が暴れ出すのだ。それは恐怖によるもので、兄の星影がいれば大丈夫だとも聞いている。
なんのためかはわからないが、旦那さまはわざと星影を離して、月影を試したのだ。
「大丈夫だと言うなら、ちゃんと得物をしまえ。そうしたら信じてやる。しまえないのなら、お前はまだ自分を制御できないと見なす。例の仕事はべつのものに行ってもらう」
「大丈夫だって言ってんじゃん! できるよ! 俺、ちゃんとひとりでも仕事ができる。殿下の役に立って、兄ちゃんにも褒めてもらうんだ」
……ああ。わたしは目を閉じた。
四天王戦のときに聞いたのと同じセリフだ。
もうすぐ月影の破壊衝動が限界に達する。
旦那さまの足元が覚束なかったのは演技のようだし、今はぽかんとしているゼェッブさまも月影が暴れ出したら取り押さえてくれる。
わたしたちはたぶん、ちょうど良く戻ってくるベルカと星影が護ってくれる。
すべては旦那さまの計算通りだ。
旦那さまは、ここで月影を見捨てるつもりはないと思う。
試して、まだ早いと判断しただけだ。わたしが口出しすることじゃない、けど──
「月影」
「メシュメシュ?」
怪訝そうにわたしを呼んだのは旦那さまだ。
月影は無言で、虚ろな視線を向けてきた。
暴れ出すまで秒読み開始、という雰囲気だ。
さっき一個食べたけど、わたしはまだ干したナツメヤシの実を持っている。
手のひらにひとつ載せて、両腕を突き出した。
「たんたん、たたたん」
歌いながら、右へ左へとナツメヤシの実を移動させる。
「たたたん、たん」
両手を合わせて数回振って、片方のこぶしにナツメヤシを隠す。
「どっちでしょう?」
「こっち!」
いけない。クークちゃんまで寄ってきてしまった。
「……俺も」
少しぼんやりした様子で、月影も同じこぶしを指差す。
小さな刃はまだ手にしているけれど、刃先は自分に向けている。
わたしは左右のこぶしを開いて見せた。
「ふたりとも大当たりです。……はい」
眉を動かす旦那さまを視線で制して、わたしは月影の手にナツメヤシの実を落とした。もう一個取り出して、クークちゃんにもあげる。
「ふへへ、奥方さまヘタクソ。あんなのすぐわかっちゃうよ」
「ヘタクソだったの」
ナツメヤシの実を獲得したふたりが笑い出す。
月影の声はいつものように掠れていて、さっきのように甲高くはない。
「なにかあったんですか?」
「月影?」
予想通り帰ってきたベルカと星影が、笑うふたりを見て不思議そうな顔をする。
ぽかんとした顔をしたままのゼェッブさまから手を離し、旦那さまも笑い出した。