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……ひとつは本質、彼は『獅子』。
ふたつは魂の描く色、彼の魂には『慈悲』がある。
みっつは心、彼の揺れ動く感情は『情熱』を帯びている。
よっつは言動、彼は『咆哮』する。
いつつは人の世の呼び名、彼は『満月』皇太子殿下。
むっつは死して呼ばれる名前、彼は『銀』色に輝いた。
ななつは与えられた運命、彼は『皇帝』になる。
だけどわたしは変えたいのだ。
彼が『死せる白銀の獅子皇帝』、ラスボスとなる運命を──
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
華やかな宮殿も夜は静まり返っている。
繊細な格子細工の窓から寝台へ、銀の月光が降り注ぐ。
灯かりの消えた部屋の中、白い毛並みが鮮やかに浮かび上がる。
夜風に鬣を遊ばれて、膝の上の獣が頭を動かした。
「……心地良い夜だな。眠くはないか?」
野生の獅子よりもひと回り大きい白獅子は、低く艶やかな声でわたしに囁く。
魅力的なその声にときめきを呼び起こされて、わずかにあった眠気は霧散してしまった。
嫁が旦那さまにときめくのは当たり前だと思う。
思うのだけど……それでも照れくさい。
ドキドキしているのを悟られないように、抑えた声で答える。
「わたしは大丈夫です。どうせ明日は輿の中で過ごすのですもの」
言いながら、月光が結晶したような銀の鬣を指で梳く。
絹糸よりも細くてしなやか。青年の姿をしているときの銀髪と同じ、大好きな感触だ。
「眠いのは旦那さまのほうでしょう? 明日は夜明け前から狩りだというのに、そのお姿になってしまわれて」
神獣と呼ばれる獅子の姿になってしまうと、しばらく青年の姿に戻れない。
獅子の間は無敵とはいえ、変身しているだけで疲労が大きく、戻ったときは蓄積された疲労が一気に押し寄せるものだから、旦那さまはいつも戻ったとたん眠ってしまう。
わたしの旦那さま、砂漠の大陸を統べるファダー帝国の皇太子バドル殿下は、拗ねた声音で反論した。
「……お前のせいだ」
「わたし、なにかしてしまいましたか?」
急に不安が沸き起こる。
旦那さまがこうして、毎晩神獣の姿に変身してしまうのは、婚礼の夜にわたしが彼を魂の名前で呼んでしまったせいなのかもしれない。
魂の名前──すべての生き物が持っているけれど、神に選ばれたものしか知ることのない、ななつの運命の言葉。
あれがなければ、もっと変身を制御できていたのだろうか。
そういえば『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』本編で、黒幕の不死者『美しき蠅の女王』の魂の名前を呼ぶと、彼女は怒り狂って戦闘力を上げてしまう。
『美しき蠅の女王』の魂の名前は、旦那さまの名前を集めるときの引っかけとして世界に散りばめられていた。
体中の血の気が引く。心臓が早鐘を打つ。
偉大なる神以外が魂の名前を呼ぶのは良くないことなの?
運命から救うどころか、わたしが旦那さまを苦しめている?
──しゃらん。
獅子の鼻に腕を押されて、手首の金の腕輪が鳴った。
青玉色の瞳にわたしが映っている。
黒い髪に象牙色の肌、紫色の瞳の十六歳。
オアシス国家マズナブ王国王女メシュメシュは、十人並みの容姿しか持たない平凡な娘だ。ひとつだけ、ほかと大きく違うところはあるのだけれど──
「すまない、俺の言い方が悪かった」
「旦那さま……」
「お前はなにも悪くない。悪くないが……可愛過ぎるんだ、お前は」
銀の鬣を揺らして、白い獅子が顔をそむける。
「お前が可愛過ぎるから、俺は興奮し過ぎて神獣に変身してしまう。……やっぱりおまえのせいだ。俺たちがちゃんと、初夜を済ませられないのは」
「そ、そんなことを言われても」
顔が熱い。
帝国の属国であるマズナブ王国の豊かな資源や、父さまの熊王アルドの政治的な影響力目当ての政略結婚だとばかり思っていたのに、旦那さまはわたしを愛してくださっていた。
わたしのどこが良いのかわからない。でもわたしも旦那さまを愛しているので、とっても嬉しい。
……だからこそ、ほかと違うひとつのことでお役に立ちたいのだけれど。
「お前はまだ、俺のことを女だと思っているのだろう?」
十年前、旦那さまは素性を偽ってわたしの護衛をしていた。
わたしはなぜか護衛だったときの旦那さまを女の子だと思い込んでいたので、婚礼で再会したときも気づかなかった。
不思議。初めて会ったときから、心はときめいていたはずなのに。
「せいぜい油断しているがいい。今に俺が男だということを思い知らせてやるからな」
イタズラな笑みを浮かべ、白い獅子がわたしの顔を舐めた。
キスのつもりだったのかもしれない。
「……メシュメシュ、甘えていいか?」
「は、はい、もちろんです!」
旦那さまの低い声で名前を呼ばれると、わたしはいつもうろたえてしまう。
きちんと初夜を済ませたら、うろたえなくなるのかしら。
「少し眠る。迎えが来る前に起こしてくれ」
「わかりました」
この大陸に住む獣人は、半獣半人の姿になる獣化という能力を持つ。
獣化していると腕力が強くなり回復も早くなる代わり、長く変身したままでいると理性を失う。また獣化していてもいなくても、獣人の血を引いていると、北にあるべつの大陸やふたつの大陸の境にある海域に住むもののような魔法が使えない。
獣人は遠い昔──もう何千年も昔に、この大陸を支配していた邪悪な探究者が自分たちに都合のいい道具にするため、呪いをかけて作り出した種族なのだ。
そして全き姿の神獣に変身する力は、偉大なる神によって与えられた祝福。
獣人が不老不死を追い求める不遜な探究者を倒して自由になれたのは、この祝福のおかげだった。
祝福を与えられるのは選ばれたもの、皇帝や王だけだ。
皇太子の旦那さまは、現皇帝の養子で異母弟。
神獣に変身できることが知られたら、現皇帝を退けて旦那さまを帝位に就けようというものが出てくる可能性がある。
兄君を慕う彼はそれを恐れて、神獣に変身できる力を秘密にしていた。
膝上の獅子頭を撫でる。
大きな獣頭は重たいけれど、とても幸せな重さだった。
銀の絹糸から、少し硬めの白い絨毯へ。
心地良い最高のモフモフが、逆に忌まわしい記憶を呼び起こす。
腐り爛れて蠅にたかられ、ほかの骸と混ぜ合わされた獅子の姿。
光を失った暗い青玉の瞳は、なにも映していなかった。
繰り返し繰り返し自己再生能力が発動して、いつまでもいつまでも戦い続ける怪物は、
十年後の旦那さま、ラスボス『死せる白銀の獅子皇帝』──
ほかと違うひとつ、それはわたしが転生者であるということ。
今は、前世遊んだSRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』本編より十年前の世界だ。
転生のこと、この世界が前世遊んだゲームと同じだということ、そのゲームで旦那さまが世界制覇を企んだラスボスだったこと──婚礼の夜に思い出した、自分自身でも信じられないような記憶を、旦那さまはすべて受け入れてくれた。
転生という概念自体が、一般的でない世界だというのに。
生き物が死ぬと地中の冥府、死者の楽園へ行く。
悪人はさらに深い地底にある地獄で罰を受ける、そういう死生観が普通なのだ。
不死者たちは自然の理に逆らい、神から与えられた魂の名前を書き換えて冥府から逃げ出した。
旦那さまをラスボスにしないため、わたしはどうしたらいいのだろう。
ゲームのすべてを覚えているわけではないし、なにより十年の月日は長く、どこがどうつながっているのかわからない。
獣人が支配するこの大陸で、獣化できない『できそこない』のわたしにできることがあるのかも謎だ。
だけど……
前世も現世も、わたしは彼を愛している。
学校に通っていた記憶も消え去るくらい病院で過ごした少女は、ゲームの中のラスボスに、最初で最後の恋をした。
携帯ゲーム機の持ち込みが許されたのは、たぶんもう病気が末期だったからだろう。
王女として恵まれた暮らしを送りながらも、周囲と違う『できそこない』の自分に気づき始めていた少女は、護ってくれるひとつ年上の奴隷を抱きしめたいと思った。
銀の鬣に顔をうずめて目を閉じる。
「……前世も現世も、あなたが好き」
ひとり言のつもりだった呟きに、獅子の鼻息が答えた。
「だ、旦那さま起きていらっしゃったんですか?」
「そういう可愛いことをするから、俺が困るんだ。もういい、お前も寝ろ」
「でも……」
「最近は毎晩変身するから、護衛の星影たちには打ち明けた。寝台に獅子がいても、アイツらは驚かない。……ほら」
わたしの膝から頭を降ろし、彼は子犬に乳を与える母犬のような体勢になった。
その腹に寄り添う。
「安心しきった顔をするな。俺が男だと思い知らせてやると言っただろう?」
旦那さまは溜息を漏らした。
「……早く思い知らせてやりたいものだ」
「うふふ。おやすみなさい、旦那さま」
「……おやすみ、俺の嫁」
艶のある低い声に包まれて、わたしは幸せな眠りに就いた。