乙女が幼女に襲われるうううぅッ!?
人知れず顕現した災禍は、手を取り合った愛の前に討ち果たされた。
その数日後。
秘境の奥地に、平和な朝がやってくる。
「ふわああぁ……」
大きなあくびをして、ニコラは目を覚ました。
ふかふかなお布団に包まれた体を、モゾモゾと動かす。
優しい香りに包まれ、昨日もぐっすり眠れた。
疲れた体も万全である。
しかし、朝はやはり布団が恋しく、いつまでもゴロゴロしていたいもの。
寝ぼけ眼を擦りつつ、二度寝という享楽にでも耽ってやろうかなどと思案する。
だが、それは許されない。
「ほあちゃっ! ニコラ、目が覚めたかヨっ? おはようさんネっ!」
「続けておはようだニコラっ! 丁度今、朝食ができたところだぞっ?」
台所から、とてとて自分に駆け寄ってきた、愛する妻たち。
彼女らが愛らしいエプロン姿で、目覚めを促してきたのだから。
「……うんっ。おはよう、二人ともっ」
***
「ああ、哀れな者どもよ。命を奪われ、成す術もなく、取り込まれることしかできぬ者どもよ。無念も怨念も執念も。はばかることなく我らに向けよ。それは我らが背負うべき十字架。強者が背負うべき業であり――」
「いただきますネ」
「うん、いただきます」
ニコラとクォンは、神妙に語り続けるゲヘナを無視し、手を合わせて朝食をつつき始めた。
その姿に、ゲヘナは眉をしかめて頬を膨らます。
「むう。またしてもか。俺を無視する様は、めちゃカワでなんの文句もありはせぬ。しかし、食材共を軽んじるな。バチが当たるぞ?」
「ごめんね。わたし、ゲヘナちゃんの美味しいごはん、あったかいうちに味わいたくて」
「うむっ、それなら仕方ないなっ! ちゃあんといただきますも言っているし、許してやろうっ♪」
「うんっ。こちらこそ、美味しいごはん、ありがとうっ」
「うむっ♪」
幸せムード満点で、ニコラとゲヘナは微笑み合った。
「ああ、あっついあっつい。朝っぱらからやってられんネ」
クォンは頬を朱に染め素知らぬ顔だ。
いくら新婚とはいえ、よくもまあ朝っぱらからいちゃいちゃできるものだと、呆れかえったのである。
「だがこれは、俺だけの手によるものではないのだ。この木の実なぞはクォンが調理したのだぞ? 多少不格好ではあるが、そこがまた愛らしいとは思わぬか?」
「確かに。クォンちゃんもありがとう。わたしとっても嬉しいよっ?」
「ほあちゃっ♪ 礼には及ばんネっ♪ 大好きな人を喜ばせることっ♪ これも妻たるものの役目ヨっ♪」
ニコラに頭をなでなでされ、クォンは途端に態度一変、デレデレになって甘さに蕩けた。
甘え切った猫のように、ゴロゴロと喉さえ鳴らしそうになる。
そんな姿に、しかし、ニコラもゲヘナも茶々など入れない。
こうやって思う存分甘え合えるのも、みなの頑張りがあった結果なのだ。
ちなみにここは、ゲヘナの巣たる砂漠の洞穴。
三人は、ここで新婚生活を始めることにしたのだった。
食事は交代制で、一通り家事のできるゲヘナとニコラが担当している。
今朝は調理担当がゲヘナだったのだが、目下家事勉強中のクォンは、自主的に早起きし、早くニコラに手料理を振舞いたいとゲヘナから料理を習っていたのだ。
さておき、一通り甘え切った後、身を起こしたクォンには気になることがあった。
ゲヘナの反応についてだ。
ニコラのことが大好きで、彼女には甘々なゲヘナではあるが、基本的に意見は曲げない。
彼女なりの信念はとても強く、食事の件に関してもそうである。
いつもならば納得いかない様子で命にもっと感謝しろ云々言ってくるのだが……。
「にしてもヨ。お前が他者の意見を聞くなんてネ。てっきりまた、『この俺に意見することができるのは、この俺以下略ッ!』って言うかと思ったネ」
小首を傾げるクォンに、ゲヘナは恥ずかしげもなく胸を張る。
「いやなに、昨日、共に人里に降りただろう? あの際、立ち寄った図書館にて見つけた書物に書いてあったのだ。ふーふ関係を円滑に進めるには、譲り合い、許し合いが重要であるとな」
「そ、そうかヨ……。それは、まあ、言い心掛けネ……」
自分も家事とか雌しべ云々ばかりではなく、そういう勉強も頑張ろう。
そう決意するクォンへ、ゲヘナは微笑む。
「うむっ! まあ、どうしても譲れぬことはあったりするが、そこはまあ許せっ! ニコラとずっと愛し合いたい、この気持ちとかなっ?」
「ぶほっ!?」
「お、おおうっ? どうしたのだニコラ? 俺のお汁、美味しくなかったか?」
スープを吹き出すニコラの背中を、ゲヘナは心配そうにスリスリした。
「そ、そんなことないよ。いつも美味しいごはん、ありがとう」
「うむ?」
腑に落ちない様子を見せるゲヘナではあったが、ニコラからの感謝に偽りはない。
だから彼女は、無邪気に喜ぶことにしたようだ。
満足げなゲヘナをおいて、ニコラは照れ顔でクォンに声をかける。
「……朝っぱらからいちゃいちゃで収まらぬダイレクトな告白。とっても嬉しいけれど。これは、その……参っちゃうかも」
「そういうことに関しては、コイツとってもお子ちゃまだからネ」
悪い意味ではないんだけどと、クォンも赤面して返答する。
「うむ? そーいうコト? 一体なんの話なのだ?」
「ううん。ただゲヘナちゃんが可愛いねっていう話だよ?」
「そうネ。お前は可愛い、お子ちゃま可愛いネー」
「むう。なんだと言うのだ、二人そろって微笑まし気な表情で、この俺の頭をなでなでするだと!? ……悪くないっ! 遠慮せずにもっとせよっ♪」
そうして三者は、朝っぱらからはばかることなくイチャイチャするのだった。
***
朝食を済ませた後、ニコラはクォンと皿洗いをしていた。
巣の中に据えられた洗い場は、古めかしくはあるものの、なかなかいい味を出していて使いやすい。
二人で並び合い、手を動かしながら、ニコラは数日前、実家に戻った際のことを回想する。
「それにしても嬉しかったなあ。お母さん、二人のことを紹介したらとっても喜んでくれたもん」
将来を誓い合った存在ができたのだ、報告するべきだろう。
そう思い、おっかなびっくりしながら二人を連れて実家へ戻ったニコラ。
そんな彼女に母親は、
「本当に逆鱗を持って帰ってきたどころか、お嫁さんまで連れて帰ってくるなんて!?」
と目を瞬かせ、心の底から祝福してくれたのだった。
「そうネ。クォンもアイツも人間じゃないのに、お義母さんたち実の家族同然に抱きしめてくれたネ。……くすぐったかったけど、でも、悪くなかったネ」
クォンもその日の事を思い返し、心がほんわかと温もった。
裏切られ、ただ一人で孤独に溺れていた彼女にとって、それはとても嬉しいことだったのだ。
「とはいえ、親御さんたち、本当にすごいよネ」
「? どうして?」
きょとんとするニコラへ、クォンは渋い顔で指摘する。
「いやそれはそうネ。信じて送り出した愛娘が、実家に戻ってきたと思ったら、はばかることなくハーレム婚宣言。しかも相手は人外プラス、パッと見、幼女。ねじ曲がった性癖に、卒倒されてもおかしくないヨ」
「ぶほッ!?」
真実ではあるが、文字に起こしてみればなかなかアレげな言葉に、ニコラは吹き出さずにはいられなかった。
保身に全力を注ぐがゆえ、どれだけ罵詈雑言をぶつけられても聞き流せるニコラではあったが、今回ばかりはグラっと来た。
赤面しつつも言い返さずにはいられない。
「せ、性癖云々はクォンちゃんに言われたくないよッ!? 黙ってたけど、昨日図書館の成人コーナーに入り込んで、SM本見てたの、わたし知ってるんだからねッ!?」
「!? な、なな、なに言ってるネッ!? クォ、クォ、クォンはそんな、パピープレイの特集本なんてッ!?」
……。
藪蛇なパワーワードに、空気が凍る。
「……パピー? え、なにそれは……」
「……ほ、ほあ、ちゃ」
朝の台所に、気まずい空気が立ち込めた。
「ニコラっ! クォンっ! 今なっ!? 外にこんなものが……」
そこに嬉しそうな様子で飛び込んできたゲヘナが、妙な空気が漂っているのに気付き、小首を傾げた。
「うむ? 二人とも、どうしたのだ?」
「な、なななんでもないよッ! ねえッ!? クォンちゃんッ!?」
「そ、そそそうネッ! なんでもないネッ!?」
二人は今の記憶を失おうと決意した。それこそが互いにとっていいことだと。
全力でゲヘナに乗っかり、話題も空気も変えようと画策した。
「ふむ。別に二人でいちゃらぶしていても、俺は怒ったりせぬぞ? 狭量な妻ではないつもりだ。まあ、その分俺も、後でニコラといちゃらぶするけどなっ♪」
「……それだったら、どれだけ良かったか。朝の台所でパンドラの箱、開けるとは思わなかったよ……」
「あ、あいやー……」
だが、それは失敗。衝撃は忘却を許してくれないほど大きかったのだ。
ニコラが達観しきった顔をし、クォンは顔から火を噴き縮こまる。
「?」
二人の様子に疑問を抱いたゲヘナではあったが、それよりも報告を優先したかったらしい。嬉しさを共有したいと、ゲヘナは手にしたそれを差し出した。
「さておき、これを見るがいいっ!」
「これって……手紙?」
「よネ?」
差し出されたのは一枚の手紙だった。
上質な紙でできた純白の封筒に、真紅の文字が踊っている。
そこには、「愛すべき愚か者共へ」とだけ書いてあった。
「! もしかして……」
送り主に心当たりがあったニコラたちは、予想しながら封を開ける。
そこには、一枚の便箋が入っていた。
「……そっか。アイツ、上手くやったのネ」
「ふふっ。居丈高なアヤツが、わざわざ敗北を知らせるわけがなかろう」
そこには、ヴァンパイアの少女が、事を為し恋人と結ばれたこと。
それに対し、ゲヘナたちに感謝してやってもいいから、ありがたく頂戴しておけという言葉が記されていた。
ヴァンパイアの少女は生きていたのだ。
数日前、ニコラたちがヤマタノオロチを下した後、彼女は砂の中から這い出てきたのである。
邪悪を滅すると誓ったクォンの強烈な激流により、消滅したかに見えた彼女であったが、彼女は望む誰かのために倒れるわけにはいけないと決死の力を振り絞った。
気を失い、その後の激戦により、ジェヴォーダンの灰と共に砂漠の砂の中へ混ぜ込まれることにはなりはしたが、永らえることに成功していたのだ。
そうして現れた彼女に対し、ニコラたち三人は、事の成り行き、そしてなにより感謝と謝罪を述べた。
更にゲヘナは呪いから解放されたことにより、供することのできるようになった自身の生き血を、彼女の望みを察したクォンも、神龍の神聖さが溢れる生き血をそれぞれ提供した。
予想外の展開に感情の整理が追い付かないヴァンパイアに対し、ニコラたちは相対すべき者がいるのならば力を貸すと更に助力を申し出た。
だが、ヴァンパイアはそれを拒絶。愚か者共が分を弁えなさい、これはあたしの問題よと。
言葉こそ冷徹であったが、ボロボロのニコラたちを気遣っているのはすぐに分かった。
そうして背を向けた彼女は、最期に一言、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、感謝の言葉を漏らし、夜空へと飛び立っていたのだ。
その後が気になっていたニコラたちにとって、この知らせは紛れもない吉報だったのである。
ちなみに余談ではあるが、秘境にあるゲヘナの巣に手紙を届けることは、もちろん人間の運送者にできはしない。
この手紙は夜のうちにヴァンパイア自身が届けに来ていたのだが、どうして直接対面しなかったのかといえば、ゲヘナは問題ないが、残り二者と顔を合わせたくなかったからである。
かたや闇の化身たるヴァンパイアをあわや消滅させかけた神龍、かたや狂乱しながら殺戮に手を染める人の形をした化け物であり、和解したとはいえ、覚えた恐怖に対面したくなかったのだ。特に後者とは絶対に。
そんな事情など露ほども知らない二人は、ただただ彼女の無事を喜んでいた。
「おおっ! 見るネっ! 封筒の中、小さな肖像画が入っていたヨっ!」
「ホントだっ! 二人並んで幸せそうに微笑みあって。片方はあのヴァンパイアさんだから、もう一人は……」
「……ロリコンヨ」
「……あー」
「こんな美少女なのに。世の中、しょっぱいというか、世知辛いよネー」
表情を引きつらせるクォンに、ニコラは小さくなって顔を伏せる。
「……ご、ごめん」
「いやいや、謝らなくて大丈夫ヨッ! 一緒に旅してたクォンは知ってるッ! ニコラにそういう危険な嗜好、ないってことッ! そうだよネッ!?」
「そ、そうだよッ! 例外は二人だけッ! こんな気持ちになったの、二人だけだもんッ!」
「……あ、ありがとネ」
「こ、こちらこそ……」
二人が赤面して茹で上がる中、ゲヘナだけは、肖像画に映るろりこんとやらに、一人特別な思いを抱いていた。
ヴァンパイアとの応酬の中、彼女は察していた。
あのヴァンパイアの少女こそ、かつての時代、自分に寄り添ってくれた数少ない友人の娘であり。
そのヴァンパイアが特別を抱き、決死で救おうとしていた少女こそ、姿形こそ違えども、かつて自身を永らえさせ、幸せへと導いてくれた――
「……恩返し、できたかな?」
「? どうしたの、ゲヘナちゃん?」
「とおっ!」
「わわっ!?」
ゲヘナはニコラを床へと押し倒し、ほっぺたに優しく口づけをした。
「ゲ、ゲヘナちゃん!?」
「な、なに朝っぱらから盛ってるヨッ!?」
激しく動揺する二人をよそに、ゲヘナは幸せを浮かべて微笑む。
「いやなに。コヤツらがあまりに幸せそうな姿を見せつけてくるものだから、この俺もいちゃらぶしたくなったのだっ!」
「……それは、まあ」
「……分からんでもないネ」
二人は、恥ずかしそうにしながらも首肯する。
好意を素直に表現するのが苦手なクォンだって同意してしまうほどに、この肖像画からは幸せさが溢れていたのだ。
「というわけでだ。この俺は、今よりはばかることなく、いちゃいちゃするぞっ! ニコラよ、せいぜい覚悟するがいいっ♪」
「うん。お手柔らかにね?」
抱き着いてきたゲヘナを、ニコラは優しく受け止めた。
それに真っ赤になったクォンが抱き着き続く。
「クォ、クォンだって負けないネ!」
「ほう、キサマも滾っているようだな? ならば限界を超えねばなるまいっ! もっともニコラへの愛しさは、既に限界の枠など叩き割っているがな!?」
そして二人は互いに負けじと、いちゃいちゃ合戦を開始する。
「あ、ところでだ」
「なあに?」
「なんネ?」
「盛るとは、一体どのような意味なのだ?」
「ほあっ!?」
「ゲ、ゲヘナちゃんはまだ知らなくてもいいですっ!」
***
そうして日は昇り、やがて暮れ、月が昇って夜が来る。
今日も何事もなく、一日は平和に終わりを迎える。
夜も更け、寝間着に着替えたニコラたちは、三人で一つのベッドに潜り込んだ。
真ん中に横になったニコラは、寄り添ってくる二人に感謝を述べる。
「二人とも、今日も一日ありがとう。一緒に幸せを歩んでくれて、ありがとう」
「うむっ。こちらこそだ」
「こちらこそネ」
一緒に生活するようになってから、一日の終わりに必ず交わすやりとり。
今日も一緒にいられることに、三人は心から感謝していた。
そうして眠りにつくまで、今日の出来事を語り合う。
今日収穫したあの木の実はいつものよりちょっと甘かったとか、クォンが少しだけ野菜の皮むきが上手になったとか、うたたねしたゲヘナとニコラが、寝言で会話してたとか。
そんな他愛のない、でも、とても大切な平穏。何より望んだ夢の実現。
幸せを噛み締め、明日も幸せでいようと。
そう誓える、大切なやりとり。
やがてその話題は、露天風呂の修繕について移る。
「それにしても、今日は疲れたね? 1日がかりで1割にも程遠い。修繕するだけでもあれだけ大変なのに、よくゲヘナちゃん、あの露天風呂一人で作ったよー」
「まあ、簡単ではなかったぞ? 特に、人間共にばれぬよう、呪いを与えぬよう、ギリギリの距離まで人里へ近づき、目を凝らし、耳を澄まし、大衆浴場? とやらをこしらえる大工どもの知恵を盗むのとかな、これがまた骨が折れて」
「それはまた、お疲れさんネ」
「うむ。さておき、あれだけ破壊され尽くしているのだ、修繕というよりは作り直しに近いだろう。まあ気長にいくとしようではないか」
「そうだね。気長にいこっか?」
「そうネ」
ニコラとクォンはゲヘナに同意した。
ゲヘナは、それが嬉しかった。
ゲヘナは我が道を行く、王者たる存在だ。
元はと言えば、人間たちを傷つけないために覚えた、傍若無人な振舞い。
望んだ結果とはいえ、向けられる感情は、敵対の意志ばかりであった。
そんな彼女が今、何の因果か、他者から敵意以外の感情を向けられている。
彼女たちと共に過ごし、同意というものを何度も受けながら、しかしゲヘナはまだ慣れない。信じられない現実に、いてもたってもいられなくなる。
そして今、そんな彼女たちと同じ床に就いている。
彼女の巣にあるたった一つの、一人用にしては大きなベッド。
それは、いつの日か大切な人と一緒にと、訪れるはずのないもしもを夢見て用意したものだった。
だが、そのもしもは、現実となった。
ありえないはずの奇跡が訪れたのだ。
「……!」
ゲヘナは、ニコラにぎゅっと抱き着いた。
「ニコラ……。ニコラ……っ」
「……うん」
突然の行動に、しかしニコラは驚くこともせず。
ただただゲヘナを優しく抱きしめ、いい子いい子と撫でてあげた。
「……ふっ」
傍らにて優しく抱き合う二人のことを、クォンは決して邪魔しなかった。
ただただ微笑み、そっと見守るにとどまった。
これは毎晩のこと。
長きに渡り不幸に苛まれ、絶望に包まれていたゲヘナは、夜になると必ずニコラに甘える。
見た目通りの子供のように、ニコラの名を呼び、子猫のように甘え続けるのだ。
この奇跡を手放したくないと、暗い過去にもう沈みたくないと。
その気持ちが痛いほど分かるクォンには、決して邪魔できないのである。
……まあ、ゲヘナが落ち着き、眠りについた後、今度は同じように自分も甘えることは確定事項だし。
そうしてクォンは優しいお姉さんオーラ半分、順番待ちのワクドキオーラ半分でいつものように静かにハアハアしていた。
このまま待っていれば、ふんわりと柔らかくないのが少し残念だけど、温かな彼女の心音を感じられる絶壁に身を預けられる。
そう、いつものように。
だが、今日はいつものようにはいかなかった。
というか、予定調和で終わらないのがこの三人のやりとりなわけで。
抱き着いたまま、ゲヘナはニコラのことを見つめる。
「ねえ、ニコラ……」
「うん、なあに?」
慈愛に満ちた声で応えるニコラ。
彼女が何を言おうと、どう訴えようと、その全てを受け止めてあげよう。
無力な自分だけど、大好きな彼女のためならなんだって。
内心燃えるニコラへと、ゲヘナは柔らかな声で言い放った。
「赤ちゃん。いつ産まれるかな?」
「ッ!?」
途端、ニコラは飛び上がりベッドから転がり落ち。
「!? !?」
クォンは失神しかけ、なんとか踏みとどまった。
穏やかな夜に、前触れのない大嵐を呼び込んだゲヘナは、そうとは分からず、かつてないほど動揺する二人を前に小首を傾げた。
「? 二人とも、どうしたのだ?」
「ど、どうもこうもないよゲヘナちゃんッ!? い、いいいいきなりなに言ってるのッ!?」
「そそそそうネッ! どっちネッ!? どっちが産むネッ!?」
「いやいやいやッ!? クォンちゃん落ち着いてッ! 問題点そこじゃないッ!」
「……ああ! そうだったネ!」
クォンは、ポンと手を打ちにっこり頷く。
そんな、一瞬の静寂を挟んだ後、
「ふっざけんじゃないネエエエッ!」
「いやなにがああああぁッ!?」
当惑するニコラを引っ掴むと、力に任せてぶん投げ、轟音と共に壁へめり込ませた。
だがそれでも足らず、赤面したクォンは、ニコラに近寄り烈火の如く追及し始める。
「いつネッ!? いつ、いたしたネッ!? クォンの目盗んで、いつの間によろしくしてたネッ!? 無垢な幼女を、いつの間に調教してたネッ!?」
「いやいやいやッ!? してないッ! わたしまだなにもしてないッ!」
「?」
激しい応酬を繰り広げる二人を前に、ただゲヘナは疑問符を浮かべていた。
二人のやり取りの意味は分からない。どうしてこうなっているのかも。
ゲヘナはただ、思ったのだ。
ずっと一人で眠っていくはずだったこのベッドで、大切な二人と一緒に眠れる。
それはとっても嬉しくて、とっても幸せだ。
その感情は、計り知れないほど膨大だ。
でも、このベッドは三人で寝てもまだ余裕があるくらい大きかった。
なら、もっとみんなで眠れたら――家族が増えて、一緒に眠れたら。
この幸せは、まだまだ大きくなるのかなと。
そんな純粋無垢な、ただただ温かな感情から、ゲヘナは先の発言を放ったのだ。
ただゲヘナは、そういう知識や羞恥心に関しては見た目通りのお子様であり、赤ちゃん云々が、幸せ以外にとてつもない激震を走らせることを理解していなかったのだ。
ゆえに、誤解は更に加速するッ!
「本当だからッ! そういうのは、ゆっくりと、ゲヘナちゃんがちゃんと理解して、望んでからってッ! 本当に大切だからこそ、いたしたりいたさなかったりとかはあぁッ!?」
「何を言っているのだ、ニコラ。毎晩欠かさず、いたしているだろう? 否応なく、有無を言わせず、無遠慮に」
「ほわああいッ!?」
ゲヘナは、赤ちゃんは大好きな人と一緒のお布団で眠っていると、自然に産まれるものだと思っていたのだ。
そんな純粋で可愛らしい考えが、この場に全く可愛くない惨劇を産んでしまう。
「ゲ、ゲゲゲヘナちゃんッ!? あなた、一体何を言って――」
「HOACHAAAAAAッ!」
「クォンちゃんもその叫び何イイィッ!?」
怒りに任せたクォンの一撃にて、投げ飛ばされたニコラは床と天井を何度もバウンドして破壊した後、ベッドのど真ん中に叩きつけられた。
「……し、死ぬ。こんなの、死んじゃうぅぅ……」
よろよろとベッドの上を這いながら、ニコラは逃げ出そうとする。
だが、ニコラの身体の上に何かがのしかかる。
「ガハッ!?」
衝撃に息を吹き出す間も無く、その体は一回転。
ベッドの上に仰向けにさせられた。
「一体、何事……」
恐怖しながらも視線を向ける。
「……むぅぅ」
ふくれっ面で、服を脱ぎ始めるクォンが、そこにいた。
「いやホント何事おおおぉッ!?」
絶叫するも、クォンは行動を止めない。
悔し涙を浮かべたまま、生まれたままの姿へと移行していく。
「ずるいっ。ゲヘナだけずるいネっ。クォンのこと除け者にして、二人だけで毎晩毎晩くんずほぐれつ、気持ちイイこと……」
「いやいやいやッ!? だからそれは誤解でございますわよでしてッ!?」
あまりの動揺に言葉遣いがおかしくなるニコラ。
ゲヘナはといえば展開がよく分からず、「くんず、ほぐれつ?」と、きょとんと小首を傾げていた。
「クォンだって、ニコラのお嫁さんヨ。気持ちよくして気持ちよくなるのは、当然の義務と権利なのに……。でもニコラ、奥手なのかなって思ったから。その気になるまで、指折り数えて、一人でモジモジで、我慢してて……」
「ストップクォンちゃんッ!? まずいッ! なんだかそれは色々まずいよッ!? 下手しなくてもかなりヤバイよッ!?」
制止をかけるが、しかし、クォンは止まらない。
身じろぎして逃れようとするニコラだが、愛ゆえの怒りにて、逆鱗に触れ限界突破状態になったクォンから凄まじい力で押さえつけられ、それも叶わない。
何かのスイッチが入ったのか、それとも外れたのか、クォンの呼吸はどんどん荒くなっていく。
「……ハア、ハア。ねぇ、ニコラぁ。下手かもしれないけど、クォン、精一杯頑張るヨ……? だからニコラも、気持ち良くなって。クォンのこと、思いっきり、孕――」
「ぎゃああああッ!? だから色々まずいってえぇえッ!? ゲヘナちゃんッ! ゲヘナちゃんヘルプミいいいぃーッ!」
様々な危険を感じたニコラは、ゲヘナへと助けを求める。
そもそも、こんな雰囲気もなにもない展開で初めてを迎えるなどと、論外だったのである。
「うむ、任せよっ!」
そんなニコラ魂の叫びにより、ゲヘナは馳せ参じてくれたのだが、
「いやどうしてあなたも裸ですううぅッ!?」
一糸まとわぬ姿でベッドに飛び込んできた彼女の姿に、ニコラは限界突破の悲鳴を上げた。
顔に真っ赤と真っ青を器用に同居させるニコラに対し、ゲヘナは恥ずかしがる様子もなく、こちらも負けじとばかり逆鱗に触れた限界突破、生まれたままの姿で胸を張る。
「俺だって知っているのだぞっ! ふーふは、夜、ベッドの上で、特別な格闘技をするものだとっ! ドレスコードは纏わぬ姿とっ!」
「いやある意味あってるけどかなり違くてねッ!?」
「いつ始まるのかと気にはなっていたが、本日開催なのだなっ? この邪竜に挑むとは、キサマもクォンも、恐れをしらないらしいっ! 手加減など微塵もみせぬっ! 覚悟せよっ!」
意味も窮地も理解していない様子のゲヘナは、無邪気にニコラに抱き着いてくる。
「クォンだって、負けないヨ……?」
続き、妖しい瞳のクォンが、ねっとりと絡みついてくる。
「〜〜〜!?」
状況が状況とはいえ、愛する人二人に裸で押し倒されたニコラは、嬉しいやら幸せやらなんだかよく分からなくなり、発狂しそうになる。
だが、この三人のやりとりが、このまま平和に終わるわけがなく。
「ってちょっと!? 二人ともやめてっ!? どうしてわたしの服も脱がし始めて!?」
「だから言っただろう? ドレスコードだと。もしやキサマは知らぬのか? なればこの邪竜が、手とり足取り教えてやろうっ!」
「そうネ。このままじゃ子作りできんヨ」
「こづ……ッ!?」
パワーワードにフリーズするニコラを無視し、クォンはそのまま服を脱がしにかかる。
と、ゲヘナは浮かんだ疑問をクォンへぶつける。
「子作り……? クォンよ、一体なにを言っているのだ? 赤ちゃんは、一緒にねんねしているうちに、自然、お腹に宿るものなのだろう?」
「うふふ……。さんざっぱら調教されたくせに、おぼこぶって」
「? おぼこ?」
きょとんとするゲヘナに、クォンは悪女もかくやというほどの妖艶な笑みで応える。
「いいヨ? そうやって純情ぶるお前に、見せてやるネ。本当の子作りというものを。赤ちゃんの作り方を」
「! 作り方、だとッ!?」
衝撃的な言葉を聞いたと、ゲヘナは動揺を見せる。
「赤ちゃんは、宿るものではなく、作るものなのか……!? にわかには信じがたいが、その口ぶり、どうも嘘を弄そうとしているようには思えぬ。もしや、俺の知識が間違っていたのかッ!?」
そしてゲヘナは、瞳を無邪気に輝かせる。
「クォンよ、その方法とやら、この俺に教授して見せるがいいッ! いいや、どうか教授してほしいッ! ニコラの赤ちゃん、早く産みたいのだっ!」
「ふふっ。いいヨ……? 覚えるにはまず、実践してみるがいいネ。クォンを真似て、頑張ってイこうネ……?」
「うむっ! 頑張るぞっ!」
そうして不穏さは違えども、想いを一つとした邪竜と神龍は、想い人たる少女に迫る。
「……さあ、ニコラ、観念するネ」
「この俺たちに、早く赤ちゃんを産ませるがいいっ!」
嬉しいはずの申し出に、しかし、ニコラは素直に喜べない。
先にも示したように、こんな雰囲気で、大切な初めてを迎えるなど、願い下げなのだ……!
「ぎゃあああぁッ! 嫌だッ! 嬉しくないって言ったら嘘かもだけど、やっぱりこんなの違うぅぅッ! ねえクォンちゃん、話聞いてッ! あなた、初めては優しくとかなんとか言ってたよねッ!?」
「そう思ってたけど……。クォン、抑えきれないネ。怯えるお前の表情が……可愛くて」
「おおっ! キサマも遂に、ニコラのめちゃカワさを理解したかッ!? うむうむっ! 俺は嬉しいぞっ?」
「この土壇場で最悪な意気投合ッ!?」
自身の身体の上で、手を取り合う龍と竜を前に、絶叫する騎士。
だが、この秘境でどれだけ叫んだところで、助けを求めたところで、誰の耳にも届かない。
それでも、助けを叫ばずにはいられない。
「誰かッ!? 誰かいませんかッ!? わたしを助けてくれる人ッ! 助けてくれたら、この美少女が、今ならなんでもしちゃうか」
「そんなこと、させると思うカ……?」
「嘘嘘嘘ですッ! なんでもはしませんッ! なんでもはしないけど誰か助けてええぇッ!」
途端、阿修羅の如きオーラを放ち始めたクォンに、ニコラは見返りの言葉を瞬時に収め、助けだけを求めて叫ぶ。
と、そんな彼女たちの前に、突如近寄ってくるものが一つ。
部屋の隅に片付けていた荷物の中から、一本の槍が魔法のようにふわふわ寄ってきたのだ。
「ミ、ミルクトゥースさんッ!」
それは、ニコラ愛用の得物ミルクトゥース。
ゲヘナの乳歯を素材として作られた魔槍である。
彼女の命を事あるごとに狙う魔槍は、先の死闘の後、ニコラたちが力を収めると同じくして、巨槍状態から通常の大きさへと戻っていた。
思いもよらぬ闖入者に、しかしニコラは地獄に仏と縋りつく。
「助けてッ! 囚われの小鳥を助けてくださいッ! あなただけが頼みなんですッ! だからどうかッ!」
しかし、ミルクトゥースは、ふわふわと宙に浮いているだけ。
そこから動こうともせず、まるでニコラたちのことを見物している感すらある。
「ちょっとッ!? なんなんですかッ!? いつもみたいにわたしの命をとりにきてくださいよッ!? そしたら否応なく、この状況は打開されるからッ! さあ早くうぅッ!? 今だけはわたしを全力で殺しに来ていいですからああぁッ!?」
「? ニコラよ、一体なにを言っているのだ?」
「いやだからねっ!? ミルクトゥースさんに、わたしを殺しに来てもらおうと……」
「アヤツには、元々そのようなつもりなどないぞ?」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に硬直したのち、ニコラはすぐさま言い返す。
「いやいやいや!? そんなワケないじゃないですか!? 確かに自害しようとしたとき、一度は拒絶されましたけどね!? 今まで何度も何度も使用するたびに息の根を止めようと迫ってきたんですよ!?」
「それはアレだ。フリだ、フリだけだ」
「フリ!?」
「その挙動を見て分かった。俺と同じく、どうやらコヤツも人の怯え震える様に愉悦を抱くようでな。ゆえに、めちゃカワさを堪能したいと、命を狙うフリをしてみせていたのだ。とんだおてんばというやつよ。見て見よ、今もキサマの甘美な悲鳴が心地よく、きゅんきゅんと弾みあがっているではないか?」
「そうなのッ!?」
確かに、ゲヘナを救い出した一件にて、ミルクトゥースに人を害す呪いが宿っていなかったことは立証済みだったが、まさかそんな考えをしていたとは。
確かに、心優しい邪竜であるゲヘナの素材から出来ているのだから、人を殺すことを好まないと考えた方が辻褄は合う。
言われて宙に目をやれば、ミルクトゥースは浮足立つように、宙を行ったりきたりと動き回っていた。
喜んでいるのだと理解して見てみると、なんだか可愛い気もしてきたが、しかし、今はそんなこと気にしている場合ではない。
重要なのは、助ける者がやはり誰もいなかったということ。
「大丈夫だぞ、ニコラっ。母となること、確かに不安が大きいやもしれぬ。だが俺たちの愛は本物だ。どんな苦労も、きっと乗り越えていけるはずッ!」
「そうネ。だからニコラ。一緒に気持ちよくなろ……?」
助けのいない秘境の奥地で、囚われの女騎士に迫る幼姿の竜と龍。
彼女に成す術はなく、できることはいつもの如く、ただただ絶叫することだけ。
「いやもちろん将来的には考えてたけどやっぱりこれはなんだか違うッ! こういうのはかなり違うッ!? わたしだって、初めては甘々がいいんだよおおおぉッ!? 助けてッ! 誰か助けてッ!? 乙女が幼女に襲われるうううぅッ!?」
そうして今日も、秘境の奥地に少女の悲鳴が木霊した。




