ひれ伏す姿が目に浮かぶわっ
満月が凍り付き、闇が世界を支配する。
神聖な教会の敷地内に、決して出でてはならないはずの、闇の異形が顕現する。
「グルァァアアアアアアアアアア!」
眼前に現れた巨大なオオカミのような化け物を前に、クリスは怯むことなく淡々と現状を認識する。
「認識。ヴァンパイアの奥義、『ジェヴォーダン』と判断しました」
ジェヴォーダン。
それは、力を持ったヴァンパイアのみが扱うことのできる、暗黒の力。
狂気の獣と化し、闇に抗う身の程知らずを呪われし化け物の力で蹂躙する、禁忌の魔法だ。
震えあがる司祭に毛ほどの興味も見せず、化け物はクリスへと駆けていく。
「グァアアアアアア!」
クリスは感情を持ち合わせていないというように、全くひるまず、化け物へ掌を向ける。
「『パニッシャー』」
放たれる凶悪な光。
「ガゥゥゥアアアア!」
しかし、それを化け物は大口を開けて受け止め、肉を食むように容易く食い千切る。
攻撃を無効化されたクリスに迫る化け物。
巨木の幹よりもさらに太い毛むくじゃらの剛腕が、クリスへと振り下ろされる。
身を打たれる前、クリスは光の扉を顕現させ、姿を消した。
攻撃を外し、辺りを警戒する化け物。
その背に、クリスが現われる。
「『ブロウ』」
光の宿る拳を振り下ろす。
衝撃は大きく、化け物の背に腕がめり込み、血飛沫が舞う。
「ガゥゥア!?」
化け物が苦悶の叫びをあげる。
その様を受け、クリスは無感情に呟く。
「有効打と判断。このまま攻撃を続行します」
そうして拳を引き抜き、再び振り下ろそうとする。
それを見たジェヴォーダンが、笑った気がした。
「?」
クリスの手が、何者かに掴まれる。
「」
そこには、物言わぬ人型が立っていた。
闇がただ形を取っただけのような赤黒いそれは、1人から2人、2人から3人と、瞬く間に増えていく。
クリスは身をよじって腕の拘束から離脱し、拳を人型に叩きつける。
紙切れのように、人型は簡単に霧散した。
だが、何匹も何匹も湧き上がってくる人型。
「認識。ジェヴォーダンの特性、『ブラッド・アーミー』と判断します」
それは、ジェヴォーダンとなったヴァンパイアが血を流したときに発動する特性。
自らの流血を人型にし、そのヴァンパイア、そしてその祖先たちが吸血した人間の能力を付与し、僕として敵対者を襲わせる、防衛機構だ。
それは、冒険者たちのパーティが遭遇した場合は脅威となるだろう。
ヴァンパイアが吸血するのは、得てして光魔法を扱える聖職者たちが多い。
「魔」物とも呼ばれるモンスターたちが、光魔法を扱うことはまずない。
そのため、その対策をしている冒険者たちはまずいない。
また、ヴァンパイアの中には神に殉ずる聖騎士の血を吸っている者たちもいるのだ。
聖騎士は、そのほとんどが高レベル。あまたあるクラスの中で、最強との呼び声の高い上級職だ。
相手にすることも恐れ多いジェヴォーダンに加え、湧き出てくる無数の尖兵たち。
それらと戦っても、勝ち目などないに等しい。ヴァンパイア討伐が難しいと言われる所以だ。
だが、人の身でありながら、神に力を押し付けられた少女は、
「しかし、脅威は無に等しいと判断。人間に、聖女を止めることはできません」
その言葉の通り、人型たちを簡単に蹴散らし、ただの流血へと戻していく。
光魔法を扱えるとはいえ、それは闇の異形が模倣しただけのもの。
そこいらの司祭では太刀打ちできないだろうが、最強の光を携えた聖女に、通用するわけがない。
聖騎士も同じ。最強の呼び声が高いとはいえ、研ぎ澄まされたその力は、せいぜい何十年の鍛錬の賜物。
数えることも飽きるくらい人の生を繰り返してきた聖女は、比べるべくもない鍛錬を繰り返してきたのと等しい。彼女に比べれば、聖騎士などただの子供だ。蹴散らすことなど、造作もない。
だが、いかんせん数が多い。
出血すればするほど、何度でも人型は復活する。
「遠距離攻撃に移るのが妥当だと判断します」
背中の上から離れようとするクリスに、ある人型が迫る。
クリスはその人型へ向けて、拳をぶつける。
「『ブロウ』」
「『』」
だが、その拳を、人型は真っ向から受け止めた。
「?」
小首を傾げ、飛び退るクリス。
その背後に、いつの間にか同じ人型が現われていた。
「『』」
「『ブロウ』」
ぶつかり合う拳と拳。
聖女の攻撃を受けたというのに、しかしその人型は崩れない。
何度攻撃を実行しても、その人型はまるで考えなど分かり切っているというようにそのすべてを相殺、無効化してくる。
「……認識。聖女ルミナスの人型と判断」
クリスが言った通り、それはルミナス、クリス自身の人型だった。
今のクリスは覚えていないが、数日前、嫌がるエリザに自身の生血を手渡していた。
それを、エリザは飲んでいたのだ。
なぜかクリスの心に温かい感情が浮かぶ。
「? 不明瞭な感覚を確認。無視して戦闘を続行します」
人型を蹴散らして、地面へと降りるクリス。
対するは、数を増したルミナスの人型たちと、背後で獰猛に唸るジェヴォーダン。
次で決着にしようというかのように、ジェヴォーダンが夜空へ向かって大きく吠える。
それを受け、右手を突き出す人型たち。
「認識。真っ向から強大な悪を打ち払ってこそ、神の威光を知らしめることができると判断。このまま、迎え撃ちます」
クリスは胸の前で手を組み、祈りを捧げる。
「神よ。哀れな子羊へ、力をお貸しください」
祈りを捧げると、クリスの身体から、とてつもなく強力な光が溢れはじめる。
その光を受け、聖女を元にしているとはいえ、悪しき存在の血で形作られた人型が、形を崩そうとし始める。
光はやがて形を成し、巨大な弓となる。
中空に浮かぶ弓へ、続いて現れた矢が、ひとりでにつがえられた。
それは、聖女の名を冠した、クリス最大の攻撃魔法。
これを受けて、浄化されなかった存在はいない。
「『ルミナス』」
宣言と共に放たれる矢。
それは尾を引き、光の彗星となる。
司祭の放った『フォトンスフィア』、どころかクリスの『パニッシャー』など、児戯と評するような、強大な光がジェヴォーダンを襲う。
「『』」
模倣できるとはいえ、完全にコピーはできなかったのだろう。
人型たちは、「『パニッシャー』」らしきものを放って対抗する。
ぶつかり合う光と光。
しかし、悪の手先と成り果てた人型の光は、簡単に押し返されていく。
だがそれは、ただの布石だった。
「ググググ……」
背後で時間を稼ぎ、力をため込んだジェヴォーダンが、大きく口を開き、
「グルァアアアア!」
その口腔で凝縮された闇の力が、一気に放出される。
拮抗する光と闇。
巻き起こる豪風。
少しずつ、ジェヴォーダンの闇が、クリスの光を押していく。
本来、それはありえないこと。
一ヴァンパイアが、聖女に敵うはずなどないはず。
その非現実が、現実になろうとしている。
聖女の力は絶対だ。
普通の光魔法とは違い、それは対象の信仰心に比例して、増減などしない。
それは、神の授けた力の一部。
その者の献身――命を削って使うものなのだから。
その力を打ち破ることができるとするならば、それは、同じく命を削った攻撃しかありえない。
いや、それだけでは足りない。
打ち破るのならば、それ以上―― 献身を超えた――愛の力しかありえない。
だが、人形にはそれが理解できない。
クリスは、冷静に状況を分析する。
「ただの一匹の魔物に、聖女が負けることなど、あってはなりません。魔力を更に追加。この世の安寧のため、この化け物はここで打倒――ゴフッ!?」
その口元から多量の血液が流れ出る。
そんなものなど意に介す様子など見せず、痛覚などないというようにクリスは言う。
「体に負荷がかかっていると認識。しかし、魔力の追加を続行します」
血を吐き続けながら、クリスは魔力を込め続ける。
見る見るうちに、その体が衰弱していくのが分かった。
これ以上続ければ、力尽きてしまうのは明白だ。だが、それでもクリスは止まらない。
「……ガウッ」
それを見たジェヴォーダンは、唐突に攻撃を止めた。
「……? 理解、不能」
小首を傾げるクリスの前で、ジェヴォーダン――エリザは、光の奔流に呑みこまれた。
***
少女が、泣いている気がした。
(……え?)
クリスは、光の中で目を開く。
「ガァアアアアアア!」
そこには、強烈な光に呑みこまれ、断末魔の声を上げる、大きな化け物の姿。
そしてその化け物を攻撃しているのは、自分自身だった。
「……エリザさん!?」
なぜかそれが愛しい彼女であると、クリスには理解できた。
その相手を、自分が傷つけ続けていることも。
「ば、バカな!? 人格を取り戻しただと!?」
驚く司祭の声が聞こえるが、そんなこと、どうでもいい。
彼女を助けなければ。
この凶行を、いますぐ止めなければ。
「やめてください! どうしてエリザさんを傷つけているのですか!? あの人は、わたしの大好きな方でしょう!?」
絶叫する。
しかし、体が自分自身のものではないというかのように、言うことを聞かない。
対象を絶命させるまで止まらないというように、どんどん魔力が込められていく。
口から大量の血液が流れ出て、目からは血涙が流れ出る。
衰弱を通り越した体。
感じる疲労、激痛に、意識が光に呑まれそうになる。
だが、クリスは諦めず、絶叫し続ける。
「やめてください! やめて! お願いだから! ねえ、聞いてよ!」
だが、攻撃はやむことはない。
体の中から、一際強い魔力が込められるのが、分かる。
「! ダメよ! そんなものぶつけたら、きっとエリザさん死んじゃう! 死んじゃいます! ねえ! 聞いてよ! 止まってよ! お願いだから!」
口から更に吐血する。致死量など、当に通り越しているかもしれない。
だが、本来なら立っていられない体は、悪を葬るという神の使命を忠実に実行するため、動き続ける。
そして、クリスの懇願空しく。
エリザへ向かって、一際凶悪な光を放つ、自分の身体。
「いやあああああああああああああああああああああ!」
少女の悲鳴を、あざ笑うかのように。
愛する化け物は、自身の手で、浄化された。
***
「あ、ああ……」
クリスは、膝から崩れ落ちた。
その眼前では、大切な人だったモノが、ただの灰に成り果てていた。
「そんな、エリザ、さん……」
茫然とする彼女。
涙すら、流す気力もない。
「せ、聖女様! よくぞ、よくぞご無事で!」
そんな彼女の下へ、卑しい豚が体を引きずって近寄ってくる。
「よくぞ下賤なヴァンパイアを打ち砕いてくださいました! 神もきっとお喜びのことで――」
「……」
「ひぃっ!?」
殺意の籠った目で睨まれ、司祭は尻餅をつき後ずさる。
「ど、どうされたのですか、聖女様! ど、どうしてそのような目で」
「……わたしには、過去の記憶がある。お前たちの考えていることなど、お見通しです」
「そ、そんな!?」
司祭の顔が、一瞬で青くなる。
「……天に、召されなさい」
クリスは憤怒を込めて、『ルミナス』を発動する。
「や、やめろ! そんなボロボロの身体で攻撃したら、貴様もただではすまないぞ!?」
「死の恐怖など、とっくの昔に忘れました」
「ひぃぃい! 嫌だ! 許して! 許してくれえええ!」
涙を流して無様に命乞いする姿を見ても、クリスは何の感情も――
「いや――悪いのは、わたし、か」
クリスは『ルミナス』を解除した。
「う、え?」
茫然とする司祭。それを放ってクリスは考える。
あの時、戯れで彼女を招き入れなければ。
自身の正体を明かさなければ。
教会に招き入れなければ。
儀式の期日を伝えなければ。
諦めているはずだったのに、クリスは彼女に救いを求めていたのだ。
「そんなの……無意味だったのにね」
違う結末を迎えていたとして、意味はない。
残された命は、ほんの少ししかなかったのだ。
自身のおこがましい願いが、一人の気高いヴァンパイアを殺してしまったのだ。
「……」
「ひぃ! 来るな! 来るな!」
クリスは怯える司祭に無言で近づき、手をかざす。
「……ヒール」
「……え?」
きょとんとする司祭。
その身に受けた傷が、全快した。
「ゴフッ……。この体、お前の好きにするがいい。少しばかりしか命は残ってないが、どす黒い欲望、多少は叶えることができるでしょう」
諦めきった彼女は、そんな罰にもならない罰を受けるしか、考えられなかった。
「! ふひっ! ふひひひっ! 感謝します! では再び救国の儀に――」
と、言いかけた司祭の前に、灰の中から何かが飛び出した。
「え?」
驚く間もなく、司祭の二重顎が打ち砕かれ、宙を舞った彼女は固い石畳の上に叩きつけられる。
「ぶひっ!?」
彼女は、白目をむいて動かなくなった。
「ったく。人のエモノに、手を出してんじゃないわよ」
そこには、怒りに顔を歪める――エリザの姿が。
「エ、エリザさん……?」
「ふん。ようやくお目覚め? 幼女の悲鳴で目を覚ますとか、お前いくとこまでいっちゃったのね。流石のあたしもドン引き――いや、それはいつものことか」
苦笑するエリザ。
その身は生まれたままの姿となっており、月光に照らされる彼女は芸術作品のようだ。
「でも、良かった。お前がお前に戻ってくれて」
満面の笑みを浮かべるエリザ。
可愛すぎていつもなら押し倒すクリスだが、今はそんな感情に浸れない。
「どうして――」
「ああ、ジェヴォーダンって鎧のようなものでね。獣の身体の中心にあたしがいるわけ。それで、結構防御力高いのよ。で、あんたの攻撃で焼き殺される直前、まわりを聖騎士や司祭の人型で固めて、防御魔法を限界まで張ったってワケ。気分悪くなったけど、助かって――」
「どうして助けになんてきたんですか!」
クリスは、怒って叫ぶ。
「こんな人形、助けたって無意味なのに! すぐに、こと切れるのに! 命なんて、もう少しも残っていないのに! なのに、どうしてこんな危険なことを!」
「思い上がらないでくれる? あたしは、別に助けに来たわけじゃない。あんたに報復しにきたのよ。ヴァンパイアの矜持のために、ね」
エリザは、クリスへと歩み寄る。
そして左腕を取り、手に持っていたものを薬指に通した。
「……これは?」
「封光の指輪。我らヴァンパイアにその製法が伝わる、マジックアイテムよ。それを身につけた者の聖なる力を封じるの」
「……薬指につける必要、あったのですか?」
「う、うるさい! んで、これが闇増の指輪。身につけた者の闇の力を増幅するマジックアイテム」
エリザは自身の左手の薬指にはまった指輪を指し示す。
これら二つの指輪を作成するのは、とても難しい。
いずれも凶悪なモンスターの素材が必要であり、中にはドラゴンの生血なんてものまである始末。
「これを作るのが大変で、来るのが遅くなっちゃったけど。でも、あんたがあんたであるうちに使わないと、意味がなかったから。それで、その……えーと」
「もしかして、プロポーズとかされてしまう感じなのですか?」
「ち、違うわよ! 報復するって言ったでしょ!?」
顔を真っ赤にしたエリザは、とても可愛い。
エリザは宙へ飛び上がり、クリスの背後に回り、体に腕を回す。
「あたしは、これから報復する。でも、お前だけでは足りないわ。神にだって、この報い、受けてもらわなくちゃ」
その吐息が、うなじにかかる。
初めて出会った夜、そうしたように。
エリザは、甘く囁く。
「聖女ルミナス。そして、修道女クリス。お前を、ヴァンパイアにしてあげる」
その言葉に、クリスは驚く。
「ダ、ダメです! そんなこと、できるはずがありません!」
ヴァンパイアは対象の血液を吸い、それをろ過、循環することで相手を同胞へと変える。
ただの修道女や司祭相手なら問題ないが、クリスは聖女。
多少ならば問題ないが、全身の血をヴァンパイアのものにするまで吸血し続けては、その聖なる毒で、滅されてしまう。
たとえマジックアイテムを使ったとして、聖女の力を完全に無効にはできないだろうし、闇を増幅しても、そんなことできるかどうか。
「ええ。でも、可能性はゼロじゃないわ。それに、衰弱し、多くの血を失った今なら、できるかもしれないし」
「でも、エリザさんだって息も絶え絶えではありませんか!? もう、わたしのことは放っておいて!」
逃げ出そうとするクリスを、エリザは地面へ押し倒す。
「放して! 放してください!」
「言ったでしょう。あたしは必ず報復するって」
言って、エリザは頬を赤く染め、
「止まり木などで満足してやるものか。このあたしの心を奪った罪、悠久を共に生きることで償いなさい」
「エリザ、さん……?」
茫然とするクリス。
その顔を見て更に真っ赤になったエリザが、急かしてくる。
「う、うるさい! いいからさっさと首筋差し出す!」
「は、はいっ!」
横たわるクリスの胸に、エリザの柔らかな体がのしかかる。
整った顔が近づき、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
「……安心しなさい。たとえどうなったって、後悔だけはしない。好きな人のために身を捧げるのって、悪くないって思えたから」
「はい……」
そうして、聖女はヴァンパイアに身を委ね、
ヴァンパイアは、その首筋に牙を突き立てた。
***
数日後。
とある修道院の実態が白日の下に晒され、その院は閉鎖された。
そして教皇の命を受けた聖騎士たちの指導の下、調べられることになった。
司祭は捕縛され、牢獄行き。重罪は免れないとのことだ。
修道女たちのほとんどは司祭の企みを知らず、洗脳され、傀儡として利用され続けていたらしい。
だがその魔法は、救国の儀と呼ばれたものよりは幾分弱いものらしく、治療を受ければ治るとのことで、国によって被害者は治療されることとなった。
全快後、もし希望者がいれば他の修道院に移ることができるとのことだ。
だが、いくら探しても、その院に聖女と呼ばれる者の姿はなかったという。
「当然よ。聖女なんて、もうこの世に存在しないのだから」
事の顛末を記した新聞を読み、エリザは呟いた。
ここはエリザの居城。
人里離れた深き森の中にある、古びた古城だ。
麗しき満月の光が差し込む寝室で、エリザはベッドに横たわっていた。
そして、その隣には、
「すー……。すー……」
幸せそうに眠る、クリスの姿があった。
「まったく。黙っていれば、ただの愛らしい女の子だというのに……」
ほほ笑みながら、エリザは金色の髪を優しく撫でる。
「ふふ……」
嬉しそうにほほ笑むクリス。
その口元から、鋭い牙が覗いた。
命を賭した吸血は、成功した。
封光の指輪と闇増の指輪は、吸血の最中にひび割れて砕け散ったが、しかし、二人の願いが通じたのか、クリスは無事、ヴァンパイアの仲間入りを果たした。。
聖女としての力は失われ、強靭な肉体を得、短かった寿命も延びたのだ。
悪しきヴァンパイアとなったことで、聖女として祭りあげられることは、もうない。
なにより、もう、転生することはないのだ。
彼女の最期の命は、悠久の時の後、愛する存在の腕の中で終わることになるだろう。
「クリス、お前は幸運よ。このあたしに見初められたのだから」
そして、お前に見初められたあたし自身も、幸運なのよ。
そう、心の中で感謝する。
「……はあ」
彼女のことを見ていると、牙が疼く。
ヴァンパイア同士であるというのに、おかしい。
その血はまずいはずなのに、しかし愛する人のものであると思うと、飲み干すまで吸い続けたくなる。
「いい、わよね? お前は、あたしの妃なのだから……」
エリザは荒い息をしながら、クリスの細い首筋へ顔を近づけ、そして鋭い牙を突き立てる。
「ん……」
クリスが身じろぎする。
だが、嫌がる様子はなく、彼女はそのままされるがままで、幸せそうに眠り続けている。
「……はあ」
口に広がる、大好きな人の血液。
体液。
「……ん」
そう思うと、体の奥底から熱くなってくる。
自分のすべてを、今すぐこの少女に捧げたくなってしまう。
「このあたしを、ここまで骨抜きにして……。でも、好き。大好きなの。出会ってくれて、生きてくれて、ありがとう……」
普段は恥ずかしくて言い出せない言葉。
うるんだ瞳で、思いを告白した。
そして、不治の熱病に侵されたエリザは、再び、首筋に牙を突き立てようとする。
そんな時、
「うふふ……もう、駄目ですよお義母さまぁ……娘さんが、隣の部屋で寝ていますのに……」
「……ほおう」
瞬間、蕩けていた意識が急速に覚醒。
エリザは立ち上がると、満足げに寝言をほざきやがった愛する人の腹を、渾身の力を込めてぶん殴った。
「グホァアア!?」
強烈な目覚ましを受け、クリスが一瞬で覚醒する。
ヴァンパイアでなければ、死んでいたのは間違いないだろう。
「は、はれ? 今の衝撃はエリザですよね? ど、どうしたのですか!? まさか、襲撃!?」
「ええ。ツェペシュちゃんっていう銀髪ヴァンパイアのね」
「嘘!? お義母様が来られているのですか!? どこ! どこです!?」
「えへっ。……その腐りきった頭の中によおおおおお!」
「グォエエ!?」
興奮するクリスへもう一度攻撃を放ち黙らせた後、エリザはクリスの枕の下に手を突っ込む。
そして、予想通りそこにあった大判の本を見て、怒気を強めた。
「クリス! お前あたしというものがありながら! どうしてまだこんなもの持ってるわけ!? 使ってるわけ!? あたしじゃ物足りないっていうの!? ああ!?」
「そのようなこと、あるはずがないでしょう! わたしには、エリザ以外必要ありませんもの!」
クリスはエリザの瞳を見つめ、迷いなく答えた。
その言葉に、エリザの牙が疼く。
愛の告白に、頬を真っ赤にするエリザ。
「……う、うん。その、迷いなく言ってくれたのは、その、とっても嬉しいわ……。でも……それならどうして本を取り返そうとしてくるのよ!?」
ヴァンパイアの力を十全に発揮し、風よりも速く伸ばされる腕を、回避しながら指摘するエリザ。
問われたクリスは冷汗を流しつつも、奪還に伸ばす手は緩めない。
「ち、違うのですよ。その、わたしはそんなの、全然欲しくないのですよ? 未練などまったくないのですよ? ですが……くっ!? 静まれ! 静まれ封印されし第二の人格! だ、だめっ! 抑えきれないッ! 聖女の力で封印し続けていた、ロリっ子好きのド淫乱が目覚めようとして――」
「それは元からだろうがあぁあああああ!」
「念願の幼女からのDVリターンズ!?」
蹴り飛ばされたクリスは、窓を突き破って崖下の森の中へと落下する。
「エ、エリザ。わたしがヴァンパイアになっていなかったら、間違いなく死んでいますよ?」
自身を追ってきたエリザを、クリスは軽く糾弾した。
「ふん。そうなることができた幸運を、感謝することね」
言われたクリスは立ち上がり、聖女などではない、彼女自身の笑顔を見せた。
「それはもちろんです。聖女という枷から解放してくれて、そして、わたしの愛する人となってくれて……。エリザには、どれだけ感謝したって足りませんよ」
クリスの牙が、疼く。
「クリス……」
「エリザ……」
見つめ合う二人。
「――なら、あたし以外見ちゃダメよ? 他の女に目移りなんて許さない」
冷たい目で射抜かれ、クリスの視線が泳ぐ。
「え、えっと……合法ロリには合法ロリの。幼女には幼女のよさがありまして……」
「お前はあああああ!」
「はあん! またご褒美ですか!?」
身構えるクリス。
だが、いつまでたっても愛しのDVは振るわれない。
その代わり、彼女の唇に、柔らかいものが触れる。
「……え!?」
驚いて目を開ける先には、恥ずかしそうに眼を伏せるエリザの姿が。
「ったく。もういいわよ。お前がそういう性格なのは、分かってるつもりだし」
エリザはにっこりとほほ笑み、
「お前が目移りできなくなるくらい、いっぱい愛してやるんだからっ。夜の王の全力に、ひれ伏す姿が目に浮かぶわっ」
そう言って、ヴァンパイアは恥ずかしそうに、幸せそうに、牙をのぞかせたのだった。




