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矢口さん

相談がある、といって放課後教室に残るように頼まれたのは、意外な人物だった。

「……ごめんね。安土さん、ピアノの練習と受験勉強で忙しいのに。」

夕暮れの光が差し込むこの教室で、私と彼女は珍しく二人きりだ。どちらかが望まない限り、他人と二人きりになることはそうないのだけれど、つまりそういうことだ。私と矢口さんはあまり仲が良くない。

「別にいいよ。もうピアノ、最終調整に入ってるし。」

「……そっか。受験勉強は? 上手くいってる?」

「……矢口さんが相談したいんじゃなかったっけ。」

またごめん、と謝る矢口さんは、いつもより萎れているみたいだった。彼女がわざわざ私に相談したいなんて、合唱コンクールの伴奏のことだとみて間違いないだろう。それが受験勉強の話に脱線するのは、一重に彼女のコミュニュケーション能力が高いからだ。

「……伴奏のことなんだけどね。」

案の上、彼女は不安げに呟く。彼女ほどの自信家でも、気がかりはあるのだろうか。

「私……全然自信なくて……最近、本番で失敗したらどうしようかって悩んでて、実際に失敗したっていう夢を頻繁に見るの。それに、私の音、弾き方、本当にダメでしょ? 練習のとき、みんなから笑われているんじゃないかって不安で不安で……。」

予想外だった。精神面はともかく、彼女は自分の技術に対してずっと間違った自信を持っていると思っていたのに。そんな不安を抱えて、どうして彼女はあんなに自信満々な言動ができたのだろう。

「なんか……意外だよね。」

「……え? どうして?」

純朴で穢れを知らない少女の目が真正面から私を見つめる。梓とは違った眼光の鋭さだ、とうっすら思う。

「矢口さんてさ……私から見たら勉強もピアノもなんでもできて、悩みとかなさそうだったから……。ほら、ピアノ教室でだって、一番飲み込み良かったでしょ。」

私と彼女は同じピアノ教室だった。彼女はいつも与えられた楽譜をするする脳に吸収して、演奏フォームはともかく運指は事もなげに鍵盤に写し取っていた。まだ小さいうちは、姿勢なんかあまり気にされなかったので、よく先生から褒められていた。

私はそんな器用な彼女が羨ましかった。

「そんなことないよ。全然。むしろ逆。」

彼女は謙遜しているのか、胸の前で手を振るジェスチャーをして否定する。

「私、才能なんかないし。自分に自信もないから、虚勢張ってプライド保つことしか出来ないの。いつもすっごく不安で、周囲のプレッシャーに押しつぶされそうなんだよ。今も。」

矢口さんは本当に押しつぶされてでもいるかのように自分の胸を手で覆うと、苦しそうな息を吐いた。

「……ピアノだけじゃない。受験だってそう。推薦でも落ちることあるって先生から言われて、もうダメなの。ストレスに負けそうなんだ。」

彼女が推薦で受ける学校は、私が夏休み前の面談ではっきり「ダメだ。」と言われたところだ。第一志望だった。もちろん彼女が知るよしなどない。個人情報なのだから。

分かっている。彼女に悪気がないってことくらい。彼女が本当に悩んでいて、私を頼っていることくらい。

でも強いて言うなら、矢口さんのこういうところ、嫌いだ。

「……安土さんはさ、ピアノの先生に習ってたときより、今のほうがずっと上手くなったよね。……どうやったの? なにか、コツとかあるの?」

彼女の胸の内は健康的な向上心でいっぱいだ。私とは違い過ぎる。

矢口さんの心の片鱗に少し触れるたび、ありありと私と彼女の隔たりが浮き彫りになるのだ。それはそっとしておきたいかさぶたを無理に剥がされるみたいで、非常に気分が悪い。

だから彼女とはできる限り近づきたくない。どんどん自分が嫌いになっていくから。自分のことを、嫌な人だと言いたい奴がいるなら言わせておく。

私は当たり障りのない助言――梓から聞いた正しい弾き方や弾いているときはあまり体を動かさないことなんか――をして、早急に彼女の相談を切り上げた。……さすがにもう少し真摯に話を聞いてあげれば良かったのかもと思ったけれど、ちっとも気持ちが乗らないんだからしようがない。

苦手な人と相対するのは、それだけでフラストレーションがたまる。自分じゃどうにもできないことだ。

私はいつもより少し遅い時間に教室を出た。既に部活が始まっているようで、さっきからグラウンドを駆ける運動部のかけ声や、吹奏楽部の吹きならしの音やらが聞こえる。いつ聞いても苦痛だ。何の意味があるのか分からない大音響。足音。怒鳴り声。ちょっと前まで私もあの音の渦の中で過ごしていたのだから、尚更堪える。体験した者にしか分からないあの苦しみ。

私に恐ろしいくらい適性がなかったっていうのも理由の一つなんだろうけど。

急ぎ足で教室を出る。余計なことは思い出さなくていい。今は、梓とのピアノの練習に集中しなくちゃいけないんだから。梓、もう帰って私を待っているだろうか。

「あれ、安土先輩、帰るんですか。」

溌剌とした、元気な、という言葉がよく似合う声が私を呼び止めた。

振り返ると、立っていたのは長いふわふわとした髪を横で二つに結んだ華やかな女子生徒だった。手にクラリネットを携えている。

――私の最後の中体連で、二年生の中で唯一ソロを務めた子。

「たまには部室に遊びに来て下さいよー。希子センパイは今でも練習に来てるんですから。」

 私は安土先輩で、希子は希子センパイ。わずかな違いだが、どうも感に障る。

「ああ希子ね……。私と違って、あの子、余裕だから。」

志望校に、という意味だ。希子と私は、ともすれば高校も同じになる。希子はいつも休み時間や放課後は友達と喋ったり、とっくに引退した部活動に参加したりしている。希子と私の志望校は、それでも合格圏内の判定を取れるような学校なのだ。そんな様子を見るたびに、私の胸に鬱屈としたものが溜まる。

 希子が嫌いで、矢口さんが嫌いで。母さんが嫌いで自分が嫌い。

 私は、私が大嫌い。

「それじゃあ、安土先輩も頑張って下さいね。」

 後ろから歩いてたもう一人の後輩に声をかけられ、彼女は立ち去った。あとに残された私は一人、ぼんやり考える。

頑張って下さいっていうのは目上の人に使っちゃいけないんだ――ホントは「お疲れの出ませんように。」っていうのが正しいんだよ。まあそんな言葉、今時誰も使わないけどね。

 彼女が私のこと目上だとも思っていないのかと思うのは、多分考え過ぎだ。やだな、あの子、模範的な良い子なんだから、そんなこと思うわけないじゃない。矢口さんと同じような優等生なんだから。 

 彼女と矢口さんの違いは、音楽の才能のあるなしくらいだ。

 あの子も希子もソロに選ばれて、私は漏れた。

 それは仕方のないことだ。実力の世界なんだから。

 でもさ、先生、暗に「選ばれたやつは頑張ってて、選ばれてないやつは怠けてる。」みたいなことを言うのはやめて欲しかったな。

音楽の世界のこと、何も知らないくせに。才能の厳しさなんて、味わったこともないくせに。

 今までの自分全部否定されたら、私なんて生きる価値ないって思っちゃうじゃん――。

 心なしか力の抜けた足で校舎を出る。ふらふらと覚束ない足取りで梓の家までの道のりを辿る。

なぜか梓に会いたかった。梓なら、こんな私を受け止めてくれる気がした。


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