母さん
「今日さ、今までで一番上手かった! さすが、私が指導しただけのことはあるね。」
普段より一オクターブ高い声でそう言って、譜面台に楽譜を並べる梓は、満面の笑みだ。彼女はこれほどまでに感情表現豊かだっただろうか。レッスンを受ける前まで、なんとなく無表情ってイメージを持っていたのだけれど。
「もうこの曲のこと、あらかた教え終わったから、今日から新しいレッスンに移るよ。」
「……どんなの?」
「えっとね……。」
しばらく悩むような素振りを見せたあと、彼女はにっと口角を上げ鈴の音のような声を出した。
「総仕上げ。」
――大分日が短くなったな。
すっかり傾いた夕焼けは、直に薄闇を連れてくる。少し前までうだるような暑さに辟易しながら帰途に着いていたのに、今は夕冷えがするくらいだ。もう九月、高校受験まであと半年足らず、部活をやめて、もう三ヶ月が経つ。
所属していた吹奏楽部は、中体連を最後にきっぱりやめた。あれ以来部室に顔出しもしていない。これもピアノと同じ、受験に集中するため、という名目だ。
にも関わらず、私は受験勉強の天王山と呼ばれる夏休みをほとんど梓とのピアノの練習に費やしてしまった。毎日毎日梓の家に通っては、飽きもせず符号や楽譜に書いてある指示のことを習い、幾度も反復練習をした。よく梓も付き合ってくれた。そういえば彼女は受験は大丈夫なのだろうか。そういう話を聞いたことがないのだが。
しかし、挫折しやすい私がよくもまあここまでやれたものだ。そのおかげで今日の演奏ができたと言えよう。
もちろん親には、「毎日お友達のところで受験勉強しているの。」と嘘をついていた。それに罪悪感が無いわけではないし、夏休みが終わってから成績が全然伸びていないから向こうも何か気づいているのかもしれない。しかし何も言ってこない。いつもそうだ。
私に期待しなくなったら途端に放任主義。今まで過干渉だったくせに。
まあ別にいい。どうせ私が受けるのは、頑張らなくても行けるところなんだから。
ただいま、とおざなりな挨拶をして、扉を開け、家に入る。いつもなら返事も返ってこないのだけれど、今日は違った。
「……なによ。」
玄関の前に仁王立ちになっていたのは母親だ。眉間に深いしわが刻まれ、口角が落ちて鬼のような顔つきになっている。元々それほど美人でもない、疲れ切った中年の容貌なので、そんな顔してたらますます老けるよ、と言ってやりたかった。だけど、周囲を漂うただならぬ気迫を感じたので黙っておいた。
「……こんなに遅くまでどこほっつき歩いてたの、あんた。」
怒りを押し殺した声だった。私のこと、本当に心配してるんじゃなくて、腹いせしているだけなんじゃないかと思ってしまうような。
「言ったでしょ。……友達の家で受験勉強。」
「友達って誰よ。」
「……弓野梓サン。」
「聞いたことない名前だけど。」
……誘導尋問されている気分だ。居心地が悪い。完全に怒っている。危うい。多分あれがもうすぐくる。
「最近仲良くなったの! その人から勉強教えてもらってる!!」
わざとつっけどんな態度を取ると、予想通り、見事にあの人の癪にさわったようだ。
「あのねぇ、友達と一緒に勉強するとつい喋っちゃって逆にはかどらなくなるのよ! 勉強は一人でするものなの!! 分からないところがあるなら、学校で先生に質問すればいいでしょ!!」
「その子の説明のほうが分かり易いの! 先生より、ずっと!」
「あんた……。」
母さんはすっと息を吸い込むと、憤怒の色とともに吐き出した。まずい。あれだ。
「その割にはなによあの判定!! 受験勉強してるなんて嘘おっしゃい! 担任の先生に言われてランク下げたのにどういうこと!? 面談のときどれだけ私がみじめで悔しかったか分かる!? あのね、お母さんそういう風にレベル落としても失敗した子いっぱい知ってるのよ。あんたみたいにね、受験をバカにして散々怠けて、直前から本気出しても遅いのよ! あーもう、失敗だ。私、あんたを育てるの疲れた……。」
一息に言いたいことを言ってしまうと、母さんは自分だけが一方的な被害者だ、というような顔をして居間の方へ立ち去った。
残された私はバッグを下ろす気力も湧かず、ただ立ち尽くしていた。またこれだ、とぼんやり思いながら。
母さんは定期的に噴火する。引き金の多くは私。
ピアノの発表会で失敗したとき。吹奏楽部のソロから外れたとき。成績が落ちて、先生から志望校を変えるように言われたとき。ボタン留めが上手くいかなかったとき。組体操で私のところだけ崩れたとき。親戚のお姉さんから譲り受けたピアノに水をぶちまけたとき。
烈火のごとく私を怒鳴りつけて、いつも最後にこう言うのだ。
「失敗だ。」って。
私も小さいときは、いちいち真面目に受け止めて、自分を悪い子だと思った。出来の悪い、不器用でお母さんの期待に沿えない、みそっかすの要領悪し。お母さんもそんな私を鍛え直して、良い子に育てようとしてくれてるって。
だけれどいつしか期待されなくなったとき、それは私の幸せな勘違いだと分かった。
母さんが欲しがっていたのは、出来がいい素直な子だ。なんでも言うことを聞いて、母さんの思うがままに動くきちんとした良い子。最初から鍛え直そうとか、悪い子を育てて良い子にしようなんて思っていない。だからいつも言うじゃない。「失敗した。」って。
私がやったことの結果だけ見てね。
自分の思い通りにいかない子なんて、あの人には必要ないのだ。要るのは、母さんの望む通りの結果を出す、スーパー優等生。ロボットみたいな。汗臭い努力も不本意な末路もいらない。
それが理解できたとき、私は母さんの言葉で涙を流すのをやめた。
それと同時に、感動的な映画やアニメなんかを観ても、なんとも思わなくなった。卒業だの転校だの、普通の人が遭遇したら心が動かされるような出来事を前にしても、何が悲しいのか全く分からなくなった。
私の感情は、お母さんに壊された。
代わりに、私は他人の心の揺れ動きに過敏になった。誰かが腹を立てると身にまとっている空気や表情ですぐ分かる。誰かが自分を嫌うと声色で察せられる。誰が誰と仲良くて、誰はどんな性格で、誰は誰を嫌ってて、誰は誰を好きで。
誰は人に何をしてもらうのが好きで、誰は人から何をしてもらうのが一番嫌いで。
全部、手に取るように分かった。
そして冷静に人それぞれに対する対抗策を取り、できるだけ他人から嫌われないように、また好かれ過ぎないように努めて振る舞った。それが上手くいったかどうかと聞かれれば、おそらく失敗したのだろうが、少なくともそれは私が取ることのできる最善策だった。
誰も気づいていなかった。誰も気づいてくれなかった。
当たり前じゃない。だって、ごく普通のことだもの。うちはごく普通の家庭だもの。
どこの母親だって、そう思うのは当然だもの。
私は重い足を動かして、二階の自分の部屋に行く。勉強机とベッド、何冊かの参考書、過去問、テーブルライト。それから教科書、ノート。鉛筆、消しゴム、シャープペン、定規。
あるのはこれくらい、といえば私はかなり勉強熱心な子供なのだけれど。
本棚の中ほどにぽっかり空いた、かつて漫画本があった空きスペースを私は見逃さなかった。