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的場

くっと指に力を入れて、最初の音を出す。本番まであと一ヶ月と少し。合唱コンクールの練習も佳境に入って来た。今日なんか、前奏は飛ばしてサビから弾かされる。

それくらい切羽詰まっているのだ。

私のピアノはまだまだ完成形とはいえないし、矢口さんの課題曲もそうだ。しかし伴奏者は孤軍奮闘するしかない。問題は、クラス全体だ。

よくあることなのだろうが、うちのクラスは決して学校行事に熱心に取り組むような雰囲気ではない。高校受験という恐らく人生で初めての難関も目前にひかえているし、尚更その気が強かった。

だから貴重な音楽の時間でも、必死に取り組むやつは少ない。むしろ、真剣にやっている生徒を冷やかすやつもいるくらいだ。最近の教室はどうにも居心地が悪い。

合唱コンクールというイベントに対してひたむきに臨む一団と、その群団を嘲るグループの二極化が激しいからだろう。

全く、どうして私のように傍観者という立場の生徒は少ないんだろうか。

それくらいみんな合唱コンクールに注力しているということか? それなら好ましいけれど。

ああ、まずい。あと二小節で、あの記号が来てしまう。梓が最も愛する符号。

フェルマータ。意味は程よく伸ばす。

程よくってなんなの。どう弾けばいいの。どれくらい伸ばすの。落ち着け、今は梓、答えてくれないんだから。

私が、高々一音鳴らすだけでこんなに緊張しているのは昨晩梓から酷く指導されたからだろう。さすが、彼女が一番愛しているだけあってこだわる。

短すぎて余韻がないだの、今度は逆に長すぎてたるんでるだの、散々な言われようだった。結局、合格点が出ないままレッスン終了の時刻となり、今に至る。

いよいよこの記号だ。どうする。

とんっ、とその鍵盤に人差し指を乗せた私は、思わず梓のほうに目をやる。

その瞬間、彼女と目が合う。梓もこっちを見ていた。クラス全員の前に一応立って、形式的に指揮をしている生徒には目もくれず、ただ私だけを見つめていた。

どうして、思った瞬間、梓はクイと顎を突き出した。

多分あれは、合図だ。

私は急いで鍵盤から指を離す。勢い余って、両手を一度に持ち上げてしまう。鍵盤から指が全部遠のいてしまう。

しまった、と思ったときにはもう遅かった。

中断した演奏に、クラス全体がざわつく。私は頭が混乱し、さざめく教室の音のせいで記憶が飛んで今、どこを弾いているのかすら分からなくなってしまった。

これは危ない。悪目立ちするとどうなるか分からないんだから。悪い事態になるのは間違いないけれど。

どうしたものだろう。この状況を波風立たせず切り抜けるには――

「ほらほら! また騒ぐな! 本番でこうなるかも知れないだろ!!」

まただ。鶴の一声。助けてくれたのはあの頼りなかった実行委員。内申ねらいのやる気のない奴。

――本当に、そうだろうか?

「みんな! 静かにしろ!! 懸命にやってるやつをけなすのは、一番みっともないことなんだよ!!」

騒然としたクラスに響く彼の声はたしかな熱を持っていた。義務感というか、天命に従うようなしかとした覚悟を感じる。

これが、私が知っている的場だろうか……?

人っていうのは不思議だ。キャラなんていうのは、本当はあってないようなものなのかもしれない。あるいは隠れ蓑か。

私にだって、てっきり自分のことをクールで不愛想だと思っていたのだけれど、青写真にはあんなに夢中になって向きあえたし。梓だって、何を考えているのか分からなかったけれど、ピアノに関しての知識がすごい一面があるということは、接していくうちに気づいた。

もしかしたら、希子だって私や梓が知らない顔を持っているのかもしれない。矢口さんだってそうかもしれない。

様々な顔が入り乱れて、人間ってやつはできているのだ。多分だけど。

的場のおかげで、私はいくらか気持ちが落ち着いた。軽く深呼吸をして、冷静に楽譜を見つめる。うん、分かる。サビのすぐ後だ。

静まった音楽室に、再び私のピアノの音色がこだまする。

心なしか、今までで一番良い音に聞こえた。

……聞いてる? 梓?

ちらりと彼女の方を見ると、梓にしては珍しく、口元におだやかな笑みを浮かべていた。気のせいなのだろうが、希子や矢口さん、他のクラスメイト達も表情が柔らかいように見える。なにがおかしかったんだろう。梓。あんた、こんなとこで笑うタイプだったっけ?


「すっごく良かったよ。私、感動した!」

全体練習が終わった後、そう言って私に駆け寄ってきたのは矢口さんだ。彼女のキラキラした目は眩し過ぎて、私はしばらく顔も見られなかった。

「途中止まってからがすごかった!! 私だったら絶対パニックになっちゃうと思うんだけど、よくあそこまで綺麗に弾けたねー! 相当練習したでしょ!?」

彼女のいきいきとした話し方と、自信にあふれる行動は、自分とは違いすぎてなんだかついていけない。私のピアノを褒めてくれているとは分かるのだが、上手い返事ができない。適当にああ、だとかうん、だとか返して、つい矢口さんから逃げてしまった。

つくづく自分が嫌になる。絶対に愛想が悪いと思われただろう。私は苦手な人に関してはとことん接するのが下手なのだ。それこそ何も知らない人が見ても、一目で関係性が分かるくらい。

矢口さんのことは仕方がないとして、私には一人、お礼を言うべき人がいた。

男子生徒に囲まれて、テキパキと合唱の指示を出している彼に、そっと近づく。

「……あのさ。」

ずっと大きい声で呼びかけていた声の出し方についての指摘が一段落したところで、おずおずと話しかけた。

「……さっきはありがと。助かった。」

的場の真剣な眼差しが少しだけ緩む。愛想のない言い方だと思ったが、彼は特に気にしなかったようだった。

「大したことないって。委員なら当たり前だろ。それよりさ……」

彼の瞳に再び熱がこもる。そういえばいつからこいつ、こんなに意欲的な性格になったんだろう。

「お前のピアノ、すげぇよ! あんなに自信なさそうだったのに。よっぽど練習しただろ!? じゃなきゃ、あんな良い音出せねえって。」

……矢口さんならともかく、こいつにまで褒められるなんて思っていなかった。ずっと、他人にも自分にも興味がないような性分だと思っていたのだ。

それはなんだか恥ずかしくて、やっぱり単純に嬉しかった。他の奴らならお世辞かおべっかかと勘繰るところだけれど、こいつが私にそんなことをするメリットなんかない。

「……梓のおかげ。私一人じゃとてもあんなに出来なかった。……あんたもさ、すごいじゃん。今、ちょっとかっこいいよ。」

こんなに浮ついた台詞が自分からさらりと出てきたのは少し驚きで、またそれを受けた的場がおう、お前もな、なんてあっさり返したのもまた驚嘆した。

私も的場も、段々大人になっているのかも知れない。それが目に見えて分かるというのは奇妙だ。

あるいは今に至るまでが子ども過ぎただけか。


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