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フェルマータ

ひゅう、と息を吸い、また吐く。落ち着いて、と梓が目でささやく。分かってますよ、と目線で返してから、ピアノの鍵盤に手を置く。

梓の家の鍵盤は白磁みたいになめらかな表面だけれど、音楽室のは心なしかぶつぶつして荒れている。色だってなんとなく黄ばんで、年月を感じさせる。

合唱コンクールまで二ヶ月を切り、いよいよクラスでの合唱練習が始まった。

伴奏者の本領発揮、というわけだ。これからは毎回音楽の時間に歌に合わせて演奏しなければならない。

梓のスパルタレッスンのおかげで、私は微調整を残しておおかた滞りなく弾けるようになっていた。努力が報われるというのは、なかなか気持ちがいい。めったにないから、尚更。

夏休み中には模範のCDが渡されて、クラス全員が家で練習しなければならないことになっているけれど、守っているやつがどれくらいいるかは分からない。中三の今の時期だ。合唱コンクールなんかより、受験勉強を優先するのは仕方がないだろう。人生を左右するんだ。

私は楽譜の一番端を目で捉えて、決して間違いがないように鍵盤に写し取る。

入りはグリッサンド。音を滑らすように。


「ねえ弓野さん。真面目にやってよ。」

緊張の一幕が終わって、自由練習になってすぐ、希子の腹立たしげな声が音楽室に響き渡った。

「絶対歌ってないよね? 口パクでしょ!?」

事実無根の難癖をつけている、という感じではなかった。希子の口ぶりは確信めいている。

これは意外だった。梓ならば、しっかり練習して青写真も、課題曲である明日の光も完璧に歌えると思っていたのに。

「ごめん私……。音痴で、歌うの苦手で……。」

「そんなの、理由になると思ってる!?」

私の記憶では、希子は学校行事に対して特別熱くなるようなタイプではない。ただ単に、梓が思い通りの行いをしないのが気に喰わないだけなのだろう。口を開けたり閉じたりしているだけと思われるような人は梓の他にもいるし。

希子の声はかなりのボリュームで、騒ぎに気づいたクラスメイト達が色めき立ち、音楽室の中は異様な空気が漂い始めた。

ざわ、ざわ、と、多種多様な声で梓の悪口が聞こえる。あいつ、何やってんだろ。声小さいもんな。ったく迷惑かけんなよ。あたしを見て! みたいな感じか?

まずい。これは思ったよりまずいかもしれない。梓はああ見えてプライドが高いほうなのだ。こんな仕打ちを受けて、傷ついていないはずがない。どうしよう。私以外に梓を助けられる人なんて、このクラスには――

「いい加減にしろよ、お前ら。」

唐突に、凛と芯の通った野太い声が響いた。はっきり耳に聞こえたので、全員が静まる。

声の主の方へ、クラス中の視線が集まった。

「いちいち気にするようなことか? 弓野、俺は見てたよ。お前、小さくても精一杯の声で歌ってたもんな。掛田、わけのわからないこと言ってないで、お前こそ真面目にやれ。」

的場は真っ直ぐとした瞳で梓を見つめ、嘘をついた。多分梓は、歌ってはいなかったのに。場を収めるためにわざと事実とは違うことを言ったのだ。私はこんなに優しい嘘を、初めて目にした。

「ほらお前ら! なんで関係ない男子まで騒いでんだ!? もう時間がねぇんだ。こんなくだらないことで無駄にしてる場合じゃないだろ!!」

彼は本来の実行委員の仕事をするため、鶴の一声を出した。それを皮切りに、クラス全員がまた元の雰囲気に戻る。集まって音合わせをする者、ピアノを陣取って音程を取る者。梓の騒ぎなんて、すでに淘汰された。

さっきとは別の意味でざわざわと騒がしい空気の中、梓を見やると、心底安心しきって深々と息を吐き出していた。まるで長い尋問から解放された囚人のようだった。

なぜ梓は、あんなに音楽が好きなのにも関わらず歌わないのだろう。彼女に対する謎は、深まるばかりだ。聞けば、答えてくれることだろうか。

ついでに希子に目を滑らせると、彼女はまたとない屈辱だとばかりに梓を睨みつけていた。梓は気づいていないようだったが、これから間違いなく面倒くさいことになるだろう。

ご愁傷さま、と言いたいところだが、私に被害が及ばない保証はどこにもない。もしそんな目に遭ったら、ただ嵐が過ぎ去るのを堪えるしかないのだろうか。

ああこれだから、青春なんて嫌いなんだよ。あんたもでしょ、梓。


「なんでさ、あんた、歌わなかったの?」

熱心にレガートの説明をしていた梓が、ピタリと口を閉じた。決まり悪そうに目を逸らす。そのまま押し黙ってしまう。

「……答えたくないの?」

「的場くんも言ってたでしょ。……私、声が小さいんだよ。」

希子にした言い訳とは違う。話のつじつまが合っていない。どうして嘘をつくんだろう。答えたくない事情でもあるんだろうか。

「希子さ、気を付けたほうがいいよ。結構性格悪いから。」

まともに聞いても取り合ってくれなさそうだったので、別の視点から言ってみる。間違ったことじゃない。彼女のためなのだから。梓がつらい思いをしなくていいように、せめて希子が納得できるような理由をつけさせなくちゃならない。

「……知ってる。学校行事に対して特別熱くなるようなタイプじゃないし、私が思い通りの行動をしないのが気に喰わないだけなんでしょ。」

梓の発した言葉が私の胸中と正しく一致したので、驚いた。やっぱり私たちは考えが似通っているのか、それとも――

「すごいね、あんた、読心術が使えるの?」

梓の顔色が、一層蒼くなる。私の話を聞こうと一旦は戻された視線が、また当てもなく宙をさまよう。

「使え……ないわよ……そんなの。」

やっとそれだけ言うと、また長い時間黙りこくってしまった。どうしてそれに、そんなに動揺したのかは分からない。もしかしたら梓は、本当に読心術が使えるのかも知れない。彼女はやっぱり変わってる。

とにかくそれきり、彼女から喋ることなどなかったので、私はしびれを切らして練習を再開した。

その日のレッスン中、梓からいつもの指導が入ることは無かった。


「的場と弓野さんさあ、ねえ……。」

希子が低い声でクラスメイトになにやら囁いている。目線の先には、梓に行事連絡のプリントを回している的場がいた。

ごく普通の席が近い者どうしの一場面なのだが、どうやら彼女の穢れた目を通してみれば下世話ないちゃつきに見えるらしい。全く、反吐が出そうだ。

いやもしかしたら、希子は的場と梓の関係だなんて興味がなくて、単にからかって梓を陥れたいだけなのかも知れないけれど。それでも不快に感じるのは間違いがなかった。

きゃはは、と希子と隣にいるクラスメイトが笑う。彼女の顔いっぱいに底意地の悪い笑みが広がる。ああ、お気の毒。本当に梓って。それから的場も。

ただクラスの雰囲気を改善しようと呼び掛けただけなのに、ちっとも理解されないしね。真面目にやってる奴が損をする世界なんだろうか、このクラスは。的場が真面目だったというのも、正直いって意外だったのだけど。

あの、いつも虚空を空しく見つめているようなとぼけた顔の委員はどこにいったのだろう。

希子の黄色い声を聞いた的場は、その場の空気を感じとり、慌てて梓に向けていた顔を前に戻した。

梓は希子が話している内容が聞こえなかったらしく、疑問に満ちた顔をしていたが、特に的場の行為は気にならなかったようで、すぐに視線を下に落とし、引き出しから文庫本を取り出すと、何喰わぬ顔で読書を始めた。彼女はたいてい休み時間は鏡を見るか本を読むかしているのだ。誰かと話しているところなんて見たことがない。


「あのさあ、梓。」

さっきから楽譜に見入っている梓は、集中しているのか私の声に反応しない。私は何度か反芻したが、あまりにも気づかないので業を煮やし、彼女の肩を叩いた。

とっさに横を向いた梓と目が合う。

「なによ、今集中してたのに。」

彼女は絶対に自分の周辺の事情に気づいていないだろうが、面識のある者として危険な目に遭うのは見過ごせない。厳密にいえば危険な目ではないかも知れないが嫌な目であるのは疑いない。

「あんたさ、的場のことどう思ってる?」

「……的場くん? ……ああ、真面目だなーとは思ってるけど、それが?」

……その一言で梓が的場に抱いている感情は大体把握できたのだが、それでも変な噂が蔓延することは十分あり得る。ここは知らせておかなきゃならない。

「希子があんたと的場を噂のネタにしてんの。……あんまり近づかないほうがいいよ。」

梓の顔が苦虫を食い潰したように変わる。それはそうだろう。なんとも思ってない奴と関係を噂されたら、良い気になるわけがない。

「うわあ……よっぽど私のこと嫌いなんだね、掛田さん。」

彼女が苦々しい表情になったことの原因が的場のルックスにもあるのは察したが、口に出さなかった。希子の口にのぼるというのは、そういうことだ。人の表面しか見ない、浅はかなやつ。的場がどんなに一生懸命なのかも知らないで。

「大丈夫だよ、的場くんが私と、なんてありえない。だって彼……。」

梓はなにか言いかけて、途中で目を逸らした。続きを待ったが、なかなか再開しない。

「……なによ?」

「何でもない。ほら、早くレッスン始めよう! このパート、私が一番好きな記号が出てくんの!」

彼女は食い気味に返事をして、強引に話題を切り替えた。言いかけたことが気になったが、聞いても教えてくれないことは経験済みだ。触らぬ神に祟りなし、というやつだ。少し大げさだけど。

「……ねえこれ、なんて記号?」

楽譜に視線を戻すと、五線譜の中に見知らぬ符号が出てきて、梓に質問した。爪の先のような半円とぽつりとした点。記号から意味を予測するのは難しい代物だ。

一体どういう指示だろう。

「なにあんた、これも知らないの!?」

梓はあからさまに驚いた顔をする。そんなことを言ったって、真面目にレッスンもしていなかったんだから仕方がない。二ヶ月かそこらじゃ、符号の意味全部を知るには無理がある。

不承不承うなずくと、梓はわざとらしくはぁーっと息を吐いた。そしてその名前を口にする。

「私が一番好きな記号だよ。愛してる、って言っても過言じゃないかも。よーく覚えておいて。意味は――」


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