梓と未来
それからの日々は意外なほどすんなり経過していった。その日だけは「帰りが遅い」という理由で母親からこっぴどく叱られはしたのだけれど、それ以後は帰宅時間に気を付けて、程よい時間になると弓野さんに肩を叩いてもらうことにした。
譜読みは大分進み、じきに小節ごとの練習に入る。どこかでつまづいたり、流暢な音が出せなかったときにずっと後ろに立っている弓野さんがなにか話しかけようとするのが気になったけれど、彼女がそれを思いとどまっているようだったので、何も言わないでおいた。
日を重ねるほどに「弓野さん」と呼んでいるのが水臭くなり、彼女の下の名前である「梓」に変えた。
学校が終わってから持て余していた時間を、こんなに有意義に使えるなんて、今まで思いつきもしなかった。部活をやめてからも音楽に関わるなんて、数週間前の私じゃありえない。彼女の家のピアノと、青写真のメロディは、すっかり生活のリズムになった。
問題があるとすれば、外野が少しうるさいことくらいだ。
「ねぇ未来、あんた最近、弓野さん家出入りしてるって聞いたんだけど。」
そう尋ねるのはクラスメートの希子だ。私の友達のような友達ではないような。足の引っ張り合い、腹の探り合いをする関係。
正直、私は梓とは違う意味で希子が苦手なのだが、まさか口に出すわけにはいかない。希子は女子の中じゃそこそこの権力を持っているほうだから、そんなことしたら簡単に除け者にされる。女子中学生にとって、クラス全員から無視されるのは天変地異が起こるくらい避けたいことなのだ。はたと気づいてクラスを見回してみれば、私は苦手な人が多い。よっぽど私が人嫌いなのか、このクラスに嫌な人が多いからなのか。両方の可能性もある。
でも梓は、最近わたしの中で「苦手な人」から「そうでもない人」に格上げされた。話してみるとそう変わった人でもないし、対話能力に特に問題も無かったからだ。おまけに、両親が楽団員なだけあって、音楽や楽器に関する知識が深い。私が鍵盤を叩いていて、ここの運指はどうすればいいのかと聞くと、さっと答えてくれた。自慢するような調子じゃなく、ごく自然に。彼女もこの曲が好きだと言って、二人で青写真の良いところを言い合って、一緒に笑うこともあった。そこまでするなら、仲がいいのかと聞かれれば、それもなにか違う。見た目で勝手に人を判断して、少し話せば誤解が解けて、でもやっぱり仲良くはなれない。私の性格って、実はけっこう損なんじゃないかと思う。
けれどこの年頃、周りから浮いている人というのは蔑みや好奇の対象となる。それは仕方のないことだった。異なる種を排除するというのは、人間に備わっている本能みたいなものだ。その異分子と親しくしている人についても、その対象となることがある。同類に見られることが少なくないからだ。
私はなんとなく希子の言葉の先が予測できて、身構えた。
「なんでなの? 物好きだよねえ。」
物好きって、なんだろうか。彼女が好き物だとでも言いたいのだろうか。よく知りもしないくせに、勝手に人を判断して。
希子は知らないのだ。彼女がどんなに深い知識を持っているかを。どれだけ好きなものに一生懸命なのかを。どれだけ魅力的な人間なのかを。
いっそのことめちゃくちゃに言い叩いてやろうか、という考えが一瞬頭をよぎったけれど、明日からの学校生活を犠牲にしたくはなかったのでやめた。何重にもオブラートに包んで、相手の思考が間違っていることをさりげなく伝える。
「……他にさ、ピアノを使わせてもらえる家なんかないし。梓が大丈夫だって言うから。それにさ、梓、皆が思ってるほど変わり者じゃないよ。話してみるとけっこうまともだし、もの知りだし……。」
「あっそ。ご苦労様。」
希子は投げやりに言い放つと、教室の隅でわいわいやっている他の友達のところへ駆けていった。
その後ろ姿を見送って、私は小さくため息をつく。多分、私が希子の期待する答えを言わなかったせいだ。希子はきっと、私に「しぶしぶ練習に行ってるの。」とか「断り切れなくってさー。」とか答えることを期待していたんだろう。
コンピューターの自動返信みたいに、自分の望む答えを相手がいつもしてくれると思っている。今までずっとそうだったから、予測不可能な返事は、聞かなかったことにしたんだ。
こっちだって、心を持っているのに。自分の意見を主張してみたいときだって、時々はあるのに。
いつでも自分が女王様だったら、分かんないだろう。
しかし、少しは困る。明日から希子が冷たくなったら、他のクラスメイトも態度が変わらないとは言いきれない。毎日こういう風な心配をしなきゃいけないから、やっぱり教室って息がつまる。こんなときは決まって、われ関せずといった顔の梓がほんのちょっと羨ましくなるのだった。
たん、たん、と鍵盤を叩く。美しい高音が広がって、鼓膜を揺らす。このグランドピアノはいつもぴたりと調律が合っていて、心地よい。演奏椅子に座って、青写真の楽譜と向きあえば、日常で無理やり聞かされている不協和音なんか忘れてしまう。この世間は、雑音で溢れているのだ。悪口、雑言、噂話、根も葉もない話。全然面白くない。つまんない。そんな物より、美しい音楽を聴きたい。このピアノの音色のような。それか、いっそ耳が聞こえなくなってしまえばいいのに。そしたら悲しい思いも、悔しい思いも、屈辱も感じずにすむ。
誰かが話しているのが自分の悪口じゃないのかなんて、思わずにすむ。
「ねえ、しないの、練習。さっきからその音しか弾いてないじゃん。」
しびれを切らした声で梓が言う。私はふっと息を吐いて、彼女に話しかける。
「なんでさ、あんた、いっつも私の後ろにいんの。」
梓は毎日ピアノを弾く私の後ろに立って、練習する姿を見ている。特にアドバイスをするわけでも、褒めるわけでもなく、時折意味深そうな視線を投げかけるだけで、後は黙って立っている。
「おかしいよ。なんか言いたいことがあるならさ、言えばいいじゃん。だまーって突っ立って。正直言うとさ、気持ち悪い。」
言ったあと、自分でも酷い、と思った。梓だって、なにか考えがあってのことだろうに。
「……気持ち悪いって……。そんな……その……ごめん……。」
一瞬傷ついた顔をした梓は、そのまま俯いてしまった。違う、こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。私は別に彼女を気持ち悪いなんて思っていないのに。少なくとも、希子や他のクラスメイトと比べたら断然。なんで、こんな言い方をしてしまったのか心当たりはあった。自分が幼稚だったからだ。幼くて、自分の感情さえコントロールできなくて、学校でのむしゃくしゃを梓にぶつけたまでのことだ。希子に言われたあの、彼女からみたら鼻で笑うような小さい出来事に、精神の弱い私が悔しいことに、心が傷つけられてしまっただけのことだ。だから梓には何の罪もない、謝る必要なんかない。私の子供なわがまま。なのに、なんで。そんなに申し訳なさそうな顔するのよ――。
「あんたのせいでさ、私まで変人扱いされたじゃん。もし学校でハブられたら、多分あんたのせいだかんね。前から思ってたけどさ、なんなの、あんた。自分は特別ですーみたいな顔しちゃってさ、髪型だってきちんとしてないし。なにそれ、ファッション? 目立ちたいの? あんたに関わってるから、私も常識がなくて人付き合い苦手、みたいに思われたんだよ。ほんとさあ、やめてくんない? 新手の中二病かしんないけど、他人に関われないとかただの社会不適合者だから。」
違う、違う違う違う違う。こんなの、私が言いたかったことじゃない。私は梓の、他のクラスメイトや先生や家族にはない独特の空気と価値観が好きになっていた。今気づいた。彼女が目立ちたいとか、周りから変わってるって思われたいとか、そんな浅はかな理由で行動してるんじゃないってこと、ちゃんと分かっていた。梓だって、彼女なりの正義感と意思で、他人からみれば変わっていると思われるような行いをしているのだ。別に故意じゃない。そこんところ、私が理解できないようなことじゃないのに、こんな、陥れるみたいな言い方するなんて。最低だ。私だって、希子や他のクラスメイトと、なんにも変わりないじゃないか。
「……とにかくもう、後ろに立つとかやめてよね。ほんと虫唾が走る。幽霊みたい。」
一度でてしまったら、悪口はなかなか止まってくれない。なんて厄介なんだろう。
「あんたが言えって言ったから言う。あんたの弾き方、見ててイライラすんのよ。」
束の間、梓の言ったことが理解できなかった。さっきまでむき出しの悪意にびくびくしていた少女は、もうそこにはいない。
瞳に力強い光を携えて、私を睨みつける。
「この際だからはっきり言うけど、ずっと気になってたのよね。でもそんなに仲いいわけじゃないのに指摘するのもどうかと思って、飲み込んでたの。」
半ば強制的に私を演奏椅子から退けると、彼女は一番上の小節から弾き始めた。
「入りはグリッサンド! 音を滑らすように弾くの!!」
ツーっとなった音はたしかに青写真の一部だった。自然に発生したみたいに空気に溶け込み、すっと溶けていった。これまで私しか弾いていなかった担い手不十分の合唱曲は、ようやく適した演奏家を得て生き生きと煌めき始めた。
「わかった? あんたの弾き方、ぶつっ、ぶつってしてて全然優雅じゃないのよ!」
彼女の目は本気で怒っていた。愛する芸術品をバカにされたり、軽んじられたりしたときに人はこんな表情をするのだと、私は初めて知った。
ああそうか、こんな風に些細なことなんか気にしない、しなやかな強さを持った彼女だからこそ、私は好きになったんだ。
「あんた、楽譜見てる? ここにcon graziaって書いてあるでしょ!」
苛だたしさを隠そうともせず、梓は楽譜の下のほうをぐいぐいと押さえつけた。確かに、英語のつづりで小さく文字が書かれている。なにか音楽的な表現を表すことなのだろうとは分かったけれど、何を意味するのかは分からなかった。
「……ごめん。分かんない。」
今度は私が小さくなる番だった。その言葉を耳にした瞬間、彼女は深々とため息をついた。どうやら彼女のピアノ教室は、これから長くなりそうだった。
夜空を仰ぐと、夏の大三角形が見えた。くさくさした心のときも、晴れやかな胸中のときも、星の並びはいつだって変わらない。ちゃんと綺麗だ。わずかな光は、ビロードにスパンコールをぶちまけたようだった。
こんなに繊細で美しい物、今の私には似合わないや。さっきまで梓にこってりと絞られていた時間を思い返して、私は苦笑する。今日は自分がいかに無知で練習不足かを思い知らされて終わった。情けなさ過ぎて、悔しいとも思わない。ひとつ分かるのは、これからもっともっと練習しなくちゃならないってことだ。順調に進んでいたなんて、気のせいだったのだ。
三年前の私だったら多分苦痛に感じただろうし、酷い屈辱だっただろうが、今日はなんだかそういう気分じゃなかった。悟りを開いたというか、一皮むけたというか、そういう感じ。
なんだか初めて、心から叱られた、って気がしたから。今までの私は、感情を押し殺したような叱られ方しかされたことがなかった。
ピアノ教室の先生、学校の教師、友達。みんな私が真面目にやっているのを分かった上で気を遣い、私の劣っているところを、わざとぼかすようにして言い放った。
それがなんだか逆に腹が立って、今日までの私の虚無主義思想と人間不信の一因となっている。他にも色々あるけれど、その内の一つだ。私に足りないところがあるのだったら、下手に装飾なんかしないで正面から言ってくれればいいのだ。心の貧弱な私は間違いなく傷つくだろうけど、それでも、胸中で馬鹿にされるよりずっといい。今までそんな人、いなかった。みんな胸の内では私を下に見て、自尊心のよりどころにしていたのだ。本当の気持ちをぶつけてすらもらえない、惨めな私。梓のような人に会ったのは、生まれて初めてだった。
だから今日はもしかしたら、私のかったるい人生の中で、一番良い夜かもしれなかった。家に帰ればいつかのときみたいに怒った母親の雷が落ちるだろうが、別に気にならなかった。見つけたもの。私の宝物。親友、っていうには、ちょっと乱暴で粗雑な存在。
なんだろう。私専属の鬼教師、かな。
「……あのさ、疑問に思ったんだけど。」
なにか助言をしようと私に顔を近づけた梓に、至極まっとうな質問を投げかける。あれから幾日か経って、私もだいぶすらすら弾けるようになってきた。今ではこのグランドピアノがすっかり手に馴染んでいる。
「なに? 音楽関係の質問ならいくらでも答えるわよ。」
「違う、そうじゃなくて。あんたさ、今言ったこともそうだけどピアノとか音楽とかすっごく詳しいよね。」
「あらどうも。」
「おまけにこの曲、ずっと練習してたみたいに上手く弾けてるし。」
「……褒めてもなにも出ないわよ。」
捻くれ者の梓はすぐこういう言い方をする。なんだかそういう所、自分を見てるみたいだ。
しかし私は別に梓を煽てたいわけじゃない。ずっと引っ掛かっていたことを聞きたいだけなのだ。
「……なんで伴奏に立候補しなかったの?」
今に至るまでゆるんでいた梓の表情が、ぴしりと固まった。数瞬ののち、彼女は口を開く。
「あの、……あたし…………。」
言いかけて、梓はぶんぶんと首を左右に振った。同時に後れ毛も揺れ動く。
「ピアノ、もう人前で弾きたくなくなっちゃったから。」
本当のことを隠してるみたいなくぐもった口ぶりだった。少しの違和感。気になったけれど、彼女は無理に問い詰めたところで口を割るような性格じゃない。
「……あんたなら分かるでしょ。発表会のときとか、すっごく緊張するの。失敗したらどうしようとか、不安になっちゃって……。一回、大失態やらかしちゃって、それで。」
今でっちあげたとしてもおかしくないような話だった。けれど、事実かもしれない。作り話までするなんて、よっぽど話したくないことなのだろう。誰にだって、聞かれたくないことはある。ここは無理に聞かないほうがいいのかも知れない。
喉の奥に小骨が刺さったような違和感を飲み込み、私はそれ以上なにも言わずにまた鍵盤を叩いた。