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少女の家

「――というわけで、ごめん。一旦引き受けといてなんだけど、やっぱり無理。」

一応申し訳なさそうな表情を作って、気持ちだけ頭を下げる。

アップライトピアノが消えた理由は予想通りというか自業自得というか、母親が始末していたからだった。

「あんたが全然練習しないから、もうあのお姉さんのところに返しちゃったわよ。あんたが家にいないときにね。」

大体そういう事が母の言い分だった。それなら私が気づかなかったのも仕方ない。元々、あまり立ち入らない部屋に置いてあるし。

それにしても一言いってくれてもいいと思うのだが、黙っておいた。

……昨日まで私は、そのことに対してなんとも思っていなかったのだから。突然言ってもどうしようもないだろう。母もきっとそれを分かっているのだ。

なにはともあれ、これで私は伴奏なんかできなくなった。プレッシャーから解放されるのは楽だが、どうも寂しい。

昨日からの私はなんだかおかしいのだ。ピアノを弾いていて楽しいって思ったことなんか、習っていた八年間でもほとんどなかったのに。今は無性に弾きたいって思ってる。

「……まいったな。他に弾けそうなやつなんてうちにはいない。矢口に自由曲もやってもらうか……。」

ついげんなりしてしまった。歌詞が良い曲だけに、矢口さんの演奏で台無しになるなんてものすごくもったいない。けれど他に引き受けられそうな人はいないというし、しぶしぶ納得するしかないだろう。矢口さんの負担は増えるけれど彼女はどんな課題でもそこそこ上手く回すから、心配はない。

別にいい。最優秀賞を取りたいわけでもないんだから。単にあの歌が気に入って、演奏したいと思っただけだ。自由曲――青写真が。

実際に模範を聴いてもなんとも思わなかったのに、楽譜を見て好きになった、なんて初めての経験だった。あんなに無機質な五線譜が、長音の記号が、私の目を捉えて、まばたきも許さないくらい釘付けにさせた。楽譜なんかただ曲を鳴らすための指示書だと、何年も思っていたのに。絵画の一部ような五線のレールは、完璧な美しさで音符を張り付けていた。あれは芸術品だった。弾き方や長さを指定するだけの音符がどうしてあんなにアーティスティックな形をしているのかずっと分からなかったし、知ろうともしなかったけれど、私は昨日初めてその意義を学んだような気がした。

だからあの曲を弾けなくなったのはとても残念だったし、なんなら少し悔しかった。

初めて私が、自分から弾きたいと言った曲だったのだ。

「――ねぇ。」

そう言葉を発したのは、私ではない。背後から聞こえた、線の細い声。驚いて振り返ると、そこには小柄な、むすっとした少女が佇んでいた。

「うちにピアノ、あるんだけど。」

私と委員――的場という男子生徒だが――が驚いたのは、いきなり話しかけられたからという理由だけじゃない。この学年共通の認識として、その女子生徒――弓野梓は、病的な対人恐怖症だったからだ。彼女の普段の様子からして、人に話しかけるなんてまずあり得ない。

いつも人に見えない壁を作っているようで、休み時間は一人で机に座っている。そして家から持ってきたらしい小さな手鏡を一生懸命のぞきこむようにして、おおざっぱに後ろでまとめたロングヘア―の毛先をいじる。決して友達を作らず、事務的な内容で話しかけられれば応えるが、自分からは口をきくことがない。顔立ちはそこそこ整っていて、笑えば可愛くなりそうだったが、瞳を隠すように厚い眼鏡をかけて、つまらなそうな表情をしているので、どことなく暗いイメージがあった。千に一つくらいの確率で、明るい子から友好的な調子で話しかけられても無視をすることすらあるのだ。

箸が転んでもおかしい年頃に、ぜんぜん喋らない、笑わない、友達を作らないなんて、それだけで周りから浮くには十分だった。

聞いた話によれば、一時期不登校だったこともあるらしい。いじめを受けていたとか、そういう直接的な原因はなかったらしいが。

とにかく、彼女の言うことはにわかには信じ難かった。

私たちの話を聞いていた彼女が、そういうことならうちに来て、毎日練習していけばいいというのである。

念のため言っておくが、私と弓野さんは特別仲がいいわけではない。普通のクラスメートで、前後の席になったときには連絡を回す、という程度の関係だ。間違っても彼女の部屋に上がり込んで、合唱コンクールまでの間来る日も来る日もピアノを弾かせ続けてもらう、なんてそんなことするような間柄じゃない。それに私は、正直に言って彼女のことが苦手だった。

自分のことを特別だと思っているような匂いがするからだ。

あまり人と仲良くしないのも、オシャレに興味がないようなふりをしてまとめた髪から決まって後れ毛をはみださせているのも、人とは違う自分というのに酔っているように見えなくもなかったから。目立ちたいのなら、人に認めてほしいのなら、堂々とそう言えばいいのに、変な意地を張ってあえて言わないのだから癪にさわる。集団に溶け込んでいいとも思わない物をいいと言ったり、言いたくもない悪口を口にしたりするのも処世術なのだ。彼女はそういう努力をいっさいせずに、周りとは一段違う場所にいって私達を見下している。それがなんだか好きになれないのだ。

もちろんこれも面と向かっては言わないけれど。ともあれ、彼女の家に日ごとに練習しに行くのはごめんだった。

どうにか角を立てずに断ろうと言葉を選ぶ。

「あのさ、そんな毎日毎日悪いし……。弓野さんのご両親だって、うるさくて良く思わないはずだよ。せっかくだけど……。」

「そんなの気にしなくていい。うちの親、楽団員だからほとんど帰って来ないし、うちに防音加工もしてある。」

彼女はなんでもないことのように言ったけれど、私と実行委員は聞き逃さなかった。

「弓野さんのご両親、音楽家なの……!?」

こう言ったのは私だ。驚きを隠しきれなかった。俄然彼女に興味が湧く。

「じゃあ安土、弓野の両親にレッスンを見てもらえばいいんじゃないのか?」

「……ほとんど帰って来ない、って言ったでしょ。人の話聞いてた?」

軽い気持ちで発せられたであろう的場の言葉に、想像以上に冷淡な返事が返された。刹那、まわりの空気がすっと冷たくなる。胸の中を息苦しさが通り抜ける。どうやら両親というのは、彼女の琴線に触れる言葉であるようだ。でもそんなの、弓野さんとろくに接していない人が分かるだろうか。束の間沈黙が続いて、重苦しい空気がたちこめる。

的場が一番気まずくなったらしく、すぐにごめん、と呟いた。謝られた後も、彼女はしばらく固い表情を顔に張り付けていた。

教室に響く時計の針の音がたっぷり五回鳴ってから、ようやく彼女はいいよ、と返した。

……あぁ、だから弓野さんは苦手なんだ。


それからのことは、彼女の手によってまるでなにかの引力に引っ張られるかのように滞りなく進んだ。私としては弓野さんの家でレッスンをすることや、彼女の両親のことについて大分納得がいかないところや疑問点があったのだが、こんな風に手際よく話が進められて、現に私が彼女の家の前に立っていることを考えると、しぶしぶ受け入れるしかないのだった。今更異論を唱えたところで仕方ないだろう。

それにほんの少し、嬉しかった。青写真を弾くことを、諦めなくて良くなったのだ。

彼女に連れられて、仰々しい造りの玄関をくぐり抜けた。ピアノがあって、防音加工がしてあるというから洋風の家を想像していたのだけれど、弓野さんの家はかなり立派な日本家屋だった。中に入ると、少し気温が下がったように感じる。

誰もいないとは言っていたけれど、一応お邪魔しますと声をかけて中に入る。後ろから大きな家だね、と声をかけると、あっさり無視された。よそ者は黙っておけということだろう。はいはい、分かりました。

弓野さんはどんどん進んでいって、廊下の端の扉を開いた。いきなり、適度に使い込まれたソファやら調味料が置かれた食卓やら、生活感がする物が見えて、面食らった。取り込まれてそのまま畳まれもしていない洗濯物すら見えて、居心地が悪い。

「……ここ、ちょっと見せるの恥ずかしいんだけど。通んないとピアノまでいけないから。」

彼女も決まり悪そうに言うと、歩くスピードを上げた。離されないように私も足を速める。変わっているとは思っていたけれど、普通の羞恥心も持っているようで、なぜか安心する。

弓野家の、おそらく居間を通り抜けて、また出てきた廊下を歩く。さらに奥に、二つ目の扉があった。彼女は再びそれを開く。

瞬間、たっぷりの威厳と迫力を併せ持ったグランドピアノが視界に広がった。

その巨体は陽光を反射し、黒々と輝いている。無意識に呼吸が止まって、ただ美しいと思う。広大な部屋の面積ほとんど全てを使って鎮座するボディ。その隅々まで張り巡らされた弦。優しく全体を包み込む屋根。アップライトにはないというだけで、突き上げ棒さえも優美に感じた。

芸術品のような楽器といえばパイプオルガンだけれど、グランドピアノも全然負けていないと思う。

――どうして音楽を奏でるだけなのにこんなにも艶やかなフォルムをしているのだろう。彫刻みたいだ。

私にはからきし理解できない世界だろう。

言葉も忘れて見惚れていると、後ろからこづかれた。

「……弾かないの? 楽譜、持ってきてるんでしょ。」

慌てて彼女の方に振り向く。

「すごいね、グランドピアノがうちにあるなんて。初めて見た。音楽室にあるのと同じようなやつ?」

「ぶっちゃけて言うと……あれよりちょっと高い。」

私の記憶からすれば、グランドピアノはどんな型でも数百万は下らないはずだ。アップライトですら相当な値段がしたんだから。おまけにこの大きさ。合唱コンクールの練習で使うにはもったいないくらいだ。

「ホントに使って大丈夫なの?」

「いいって。」

一呼吸おいて、彼女は何故か諦めたように呟いた。

「どうせお母さんが使うのは、何日か後だから。」

これ以上は深入りしないほうがいいかもしれないと思ったので、私は楽譜を手に携えてグランドピアノの前に置かれた椅子に腰かけた。

演奏椅子独特のぎしっと軋む音がする。大体の椅子がそうだが、これも座り心地がいいとはいえない。だけれど、直に気にならなくなるだろう。この楽譜があれば、私は音の世界に入り込める。昨日体感した感覚をまた味わうことができる。確証はないけど、多分そうだ。

だから私は譜面台にその麗しい楽譜を広げた。

まずは視線を滑らせて、メロディの流れを追う。音が高いのか、低いのか、伸ばすのか、切るのか、速く弾くのか遅く弾くのか、それだけを確認してから、鍵盤蓋を開けた。そして、曲を鍵盤に写し取る。

ドミドミドドドミソ。楽譜に指示されているのはこれだけ。あとは私がどう弾くか。

その通りに写し取る。音の強弱とか長さとかなんにも考えずに。ただの譜読み、だったはずなのに。

私の心にするりと入ってきて、内側からやさしくつつかれたような気がした。

鍵盤から放たれた音符はまろやかに部屋いっぱい広がって、私の鼓膜を揺らす。

すごい、これがグランドピアノの音色なんだ。

私の後ろに立って、特にすることもなく練習をぼうっと見ていた弓野さんがなにか言いかけて、やはりよそうと判断したらしく少し後ろに下がった。

私は初めて相対した奥ゆかしい音楽に夢中になり、その後は彼女の存在も忘れて長い時間譜読みを続けた。

曲の半分くらいまで運指の確認ができたとき、唐突に肩を叩かれた。

「……もう暗くなっちゃったから。帰りなよ。なんなら送っていくけど。」

私はようやく我に返り、辺りを見回した。いつの間にか窓の外が薄闇に包まれている。大分時間が経ったようだ。気づけば少し寒くなっている。今、一体何時くらいだろう?

「ごめん。今、何時?」

「……二十時。」

彼女はいつも身に付けている腕時計に視線を落として、かったるそうに発する。

さすがに遅くなりすぎた。私は急いで広げた楽譜をカバンにしまう。鍵盤蓋を閉じて、バッグを担ぎあげる。そのまま帰ろうとしたところでふとした疑問が生じ、彼女に問い掛けた。

「あのさ、……お家の人は? ご両親はほとんど帰って来ないっていっても、おじいさんとかおばあさんとかと一緒に住んでるんでしょ?やっぱり挨拶とかしていったほうがいいよね?」

「……しなくていいよ、そんなの。うち、今日だれもいないから。」

「誰もいないって……。」

中学生の女子が一晩誰もいない家で過ごすなんて、けっこう危ないことなんじゃないだろうか。それを置いても、彼女は寂しくないんだろうか。次々に湧いて出てきた疑問を口に出そうか出すまいか迷っていると、いきなりぐいぐいと背中を押された。

「ほら、もうやること無いんなら帰って帰って! 安土さんのご両親もこんなに遅くなって、心配してるよ!!」

押され続けたまま、半ば強引に家の外まで出された。初夏とはいえ、ほんの少しひやりとした空気が漂っていた。

ここまでされたら、帰るしかない。渋々自分の家の方角へ足を向ける。一歩目を踏み出そうとして、はたと思いつき、彼女に向かって叫んだ。

「あのさ! 弓野さん、私! 明日も来るから!!」

彼女が抱えている問題は、もしかしたら私がどうこうできるようなものじゃないかもしれない。でも弓野さんがわざわざ私を家まで呼んで、なおかつピアノの練習場として提供したのだから、絶対に私になにかを求めているはずだった。あるいは、彼女が私になにかをしたいのか。

それが分かるまで、私は彼女の家に通うことに決めた。昨日までの、いや、数時間前までの私だったら、想像だにしないことだった。

しかし彼女が持っているなにかが、私を惹きつけて離さなかったのだ。

弓野さんの家のピアノは、多分不思議な力がある。そして私が今日半分ほど譜読みを終えた曲、青写真にも、摩訶不思議な光がある。

その二つが融合したときどうなるのか、私はまだ分からなかった。ただ予感していたのは、それは恐らく私の知らない世界になるだろうということだ。

「分かった! ……明日も来なよ!!!」

彼女は一瞬面食らったような顔をした後、すぐ本当に嬉しそうに顔を輝かせて、叫び返した。予想以上に声が大きくて、近所全体に響き渡ったけれど、特に気にしていないみたいだった。

私も気にせずうなづいて、怒れる母親が待っている家までの道を軽やかな足取りでたどり始めた。


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