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プロローグ

新人賞に応募しようとして力尽きた物です。

ここで完結させようと思っていますので、見守って頂けると幸いです。

また一音鳴った。騒がしいはずのホールが一瞬だけ静まったように思える。

シャープのド。私の耳には、この音しか聴こえない。

いたって微妙な音程が響いた。左手の音と混じっても、なお目立つ。この音だけ違う。

他の音符とは別なのだ。まるで異常。合唱と混じっても目立つ。半音はこの小節でここだけだから。ちゃんと弾いたから聴こえたよね、梓。

ややこしいからって、彼女が何度も反復練習させたところだ。ときには自分で弾いてみせて、私を正しい弾き方に導いてくれた。

「薬指をスムーズに動かす方法なんて、繰り返し練習するしかないの。ほら、指が止まってるって。この音だけ弾けば曲が完成するってわけじゃないわよ。まだ山場にも入ってないし。」

相変わらず冷静な口調で指導をする梓は、わかりきったことをまた口にした。その物言いは、わざとだってわかるくらいおぼつかない。私に尊敬してもらいたくて、私を上達させたくて、似合わない言葉を使うんだろう。

本人は背伸びできていると思っているはずなのに、かえって子供っぽいように見えて。

いつもよりも、こっちの梓が私には魅力的に見えた。

一瞬間ふっと笑ってしまうと、彼女は私の手の上に自分のものを重ねた。薬指にかすかな温度と圧力がのしかかる。

「これ、この強さだって。さっきのは強くしすぎ。音がきんきんしてた。」

タン、と響いた音はたしかに上品だ。つつましさも感じる。身体で覚えさせようと思ったのか、彼女は何度でも私の薬指を押さえつける。その度に鳴る一音が、殺風景な音楽室にすんなりこだまする。美しい音だ。これだけでも、一つの楽曲なんじゃないかと思うくらい。

わかるよ、きっと彼女も必死なんだ。弾き終わったあの音は、彼女の耳にどう届いただろう。もう、さっきので一番入りくんだ部分は越した。次は、山場。

梓が言ってた、比較的弾きやすいけれど間違ったら取り返しのつかないところ。

いつしか私の脳内の梓はまた小言を言う。

「ここは小指の運指さえ気をつけたら楽勝なの。絶対に弾き損なわないでよね。もし間違えちゃったら……。」

なんていってたかな、梓。失敗したらどうなるの?

もし私が今ここでラとシを弾き間違えちゃって、今まで完璧だった演奏に歪みを入れたとしたら、あんたはなんて言う? なんて思う?

今のあんたはせいぜい歌いながら顔をしかめることしかできないだろうけど、そんなんで済まないでしょ。

ありえない、あっちゃいけなかった。最低だよ、未来。

舞台裏でこのくらいのことなら言うかな。

この舞台がなにもかも終わって、二人の精神を蝕んでいたものが消え去ったとき、あんたは本当の気持ちを明かしてくれるのかな。

思うことはいくらあっても足りなかっただろうから、ちゃんと教えて。

あんたがなにか言いたくても言えなかったって、あんたをそんな状況に追い込んだのは私だって。言わなくてもちゃんと分かってるよ。

それがなにかは、とうとう今日になっても教えてくれないし、私も気づかないままだったけど。とにかく、あんたは私に誠実じゃなかった。これからどうなるのかは、あんたと私次第だけど。


わたしは体勢が許すかぎり首をのばすと、最前列の右端でけんめいに音を追っている少女を視界に入れた。

――いつもより後れ毛が少ないみたい。頑張ってセットしてきたのね、変なところで可愛いんだから。

あとで褒めてあげよう。本番前は、緊張でそれどころじゃなかったから。

後ろでひっつめた長い髪が、曲の調べにあわせてぎこちなく揺れた。

主根であるおおきな髪のまとまりから数瞬おくれて、ほんの一、二束しか飛び出していない後れ毛もおずおずついてくる。いつもは、主根に負けないくらい主張してくるのに。

彼女も気合いをいれて、精一杯の輝きを放っている。だから、私だって負けない。他のクラスにも、自分の悪い想像にも。この演奏を成功させることが、あんたへの義理だ。

あんたの髪型に見合うようなピアノを弾き上げみせるから。あんたはただ前を見つめて、私の演奏に聴き入っていればいい。

伴奏が脇役なんて誰もひとことだって言ってないよ。わたしの音に聴き惚れていたら、歌声なんて気にする間もなく終わっちゃう。

そうでしょ。というより、そうじゃないと困る。なんたってあんたみたいな鬼教師に指導してもらったんだからね。

本当は、この鍵盤楽器が好きで好きでたまらないくせに。このかたい緩衝材の演奏椅子に座りたかったくせに。

なんで、どうして教えてくれなかったのよ。わたし、思いっきり下手に弾いてあんたに伴奏の役回りを押し付けるつもりだったんだよ。

なのに、なぜ私を本気にさせたの。ひたむきに物ごととぶつかることを思い出させたの。

誰も気づかなかった本心を見つけたのが、なんであんただったのよ――


次の小節の締めはフェルマータだ。彼女の最も愛する記号。

程よくって、どんなだっけ。少しの戸惑いが思い浮かんで、一瞬間梓のほうを見やった。

緊張しているのか、彼女は血の気がない顔でコクリと顎をひく。

それは合図だ。きっと意味は「あんたの好きにやれ」。

練習のときにしばしば見かけた。自分は知らないってことね、わかったよ。梓からの合格サインだ。本番でやられるとは思わなかった。この動作が出たら、私はその音をものにしたという意味なのだ。フェルマータだけは、とうとう許可が出なかったけど。

わたしは、今から梓のもとを離れなきゃいけない。やっと一人で、思うままのピアノができる。自由になれる。フェルマータが弾ける。梓の言うことも聞かなくていい。

だけれど、率直に嫌だと思った。

この記号は、梓が他のどんな音符よりも愛して、慈しんで、絶対に他人の物差しで弾くことを許さなかったのだ。

それが今、一番重要なところでつき離された。あんまりじゃないか。

最も梓の力が必要なところで、彼女はひとことも言わず、私から手を離した。わたしを見棄てた。初めて、私の長さでフェルマータを弾くことを要求したのだ。決して失敗できないこの日に。

フェルマータは、程よく伸ばす。

酷いよ、あんたの“程よく”は時間によっても場合によっても、気分によってでも変わるじゃない。私だって同じだ。誰もが認める完璧なフェルマータなんて、この世に存在しない。

名だたる音楽家たちだって、本当の意味で誰の耳にも合うパーフェクトな音を弾いたことなんかきっとない。唯の中学生なら、尚更。


なんて、この記号ってやつは煩わしくて面倒くさくて神経質で、それらもはるかに越えるほど美しいんだろう。

その余韻に魅入られてしまったら、もう普通に戻れない気がして。わたしは最後の音を鳴らすのが怖くなった。


「……本当に、わたし以外選択肢ないっていうの?」

疑問をあるがままに口にすると、向かい合ったクラスメートは、やる気のない声で返事をした。

「……お前、ピアノやってたって聞いたから。」

変声期が終わってぼそぼそした低い声だ。コンクールになんにも興味がないのが、聞いただけで分かる。きっと伴奏なんかどうでもいいと思ってるんだ。

どうせこいつだって、受験前の内申稼ぎだろう。一度も委員をやってないなんて、教師受けが悪いだろうから。

いいけどさ、別に。実行委員なんて誰がやったって同じだし。

「でもここに入ってからはやめたし……。自信ないよ。他に習ってる子、いないの?」

「確認したけど、うちのクラスでは矢口とお前だけ。」

思わず口をつぐんだ。どうやらうちのクラスは外れらしい。矢口さんは、大抵のことは得意な人だけど、伴奏となるとお門が違う。

矢口さんにとってピアノなんて、知識と教養を身につけるための数あるお習い事の一つだ。彼女が得意になって弾いている姿をみた機会は少なからずあるけれど、素人耳でもいい音だと思えなかった。

まず緩急がない。気持ち、というか、楽器に対する思いやりを持っていない。音符と記号はもちまえの反射神経でぴたりと合わせていたけれど、それだけだった。鍵盤をばしばしと雑に叩きすぎて、弦が不快な和音をたてていたのが耳に新しい。それから体を動かし過ぎる。テレビでみたピアニストの真似でもしているのだろうか。エレクトーンならともかく、クラシックの様式で体を使ってリズムをとるなんて、駆け出しがすることなのに。全体的に主張がつよすぎて派手な彼女のピアノは、ソロならともかく、伴奏でも通用するのだろうか。

彼女はおそらく、合唱のことなんか眼中になくて、「一通りのことはできて、なおかつピアノも弾ける自分」に酔っているだけだというのに。

そんなことを言えば人間関係に波風が立つどころでは済まないので、本人はもちろん、この委員にも何も言わないが。

「――分かったよ、まだ決めたわけじゃないけど、一応楽譜見せて。矢口さんはどっちをやるって言ってるの?」

自由曲と課題曲では、難易度が丸っきりちがうこともあるだろう。彼女は難しい方をやりたがるだろうから、その点では助かった。

「課題曲の“明日の光”。安土にやってほしいのは自由曲の方。」

「自由曲、ねぇ……。」

うちの自由曲は、今年から取り入れられた合唱向けの新曲だった。新曲といっても、発表されたのは何年も前のことだ。うちの学校は堅苦しい校風だから、取り入れられるのが遅かった。歌詞がいいからってみんな手を挙げたけれど、伴奏は……。

……間奏の一部の長い音が印象に残ったくらいで、あまり覚えていない。

「楽譜、取りにいってくるから、ちょっと待ってて。」

記憶の糸をたぐりよせていると、引き受けるのを迷っているのかと勘違いした的場が目の前から立ち去った。とくに引き止める理由もないし、実際に譜面を見て考えたいとも思ったので、何も言わないでおく。こいつも、人並みに頭は働くようだ。

しかし、自由曲、か……。

課題曲のレベルはだいたい見当がつくが、自由曲となると振り幅がおおきい。

簡単なものも、難し過ぎるものだってあるだろう。一見しただけじゃ、さすがの矢口さんも、おおよそしか難しさが判別できないだろうから、私にハズレが回ってくる可能性さえある。そんな大役、自分には務まらない。

かといって、他に務まりそうな人がうちのクラスからは見つけだせそうもないのだが。

それに加えて、時間だって余裕があるとは言えなかった。これから楽譜を受け取って、譜読みをして、流暢に弾けるようになるまで数ヶ月で足りるだろうか。

全ては、自由曲の難しさで決まると言ってもいい。

せめて、私が三年前に練習していた曲と同じくらいだといいのだが、その程度でさえ危うい。

ピアノは、四歳のときから小学校を卒業するまで続けていた。中学校からは、勉強と部活に専念したいという建前でやめた。ピアノ教師からも、親からも止められることなどなかった。

誰だって気づいていたのだ。私に才能がないことくらい。

それでも、人並み以上の努力をすればなんとか聴くに堪える演奏をすることはできたのだろうが、残念ながら、私にはそんな根性も負けん気もなかった。

そもそも、あの対称色の鍵盤がもつ意味を理解しているのか、譜面をみて吐き気がしそうにならないか、反射神経はまずくないか、などというテストをしてから私を演奏椅子に座らせるべきだったのだ。

四歳の私は初めてグランドピアノの前に座ったとき、鍵盤の左端から右端までをひといきにダダダーと弾ききったらしい。それはもう見事な大音量だったそうだ。

普段はどこか白けた目で世界を見ていた私が、急に瞳をぱっと輝かせて、ぬばたまの巨体に勇ましく立ち向かっていったという。

当然、そんなことは正常な家庭に育った子どもなら誰でもおもいつくし、まだ分別がつかない年だから実際にやってみる子がいてもおかしくない。

しかし、うちの両親は幼児のごく普通の好奇心を、才能の頭角だか芽吹きだとかと盛大な勘違いをし、近所のピアノ教室に入会させた。無論、すぐに後悔したらしいが。


あとの経過は言うまでもない。ただ、惰性と世間体を気にする狡猾な意図で八年間も楽譜と向かいあっていた。

家での練習など、レッスンが始まる一時間前に教本を広げて、前にやった曲を見つめるだけだったし、発表会の課題曲は、他の子よりも一、二段階下のレベルだった。

楽譜に書いてある弾き方の指示や記号などは半分も意味がわからない。

わけが分からないのだから、弾けない。弾けなければ、ピアノに向かう気もうせる。

何度もつまっては、また最初の小節から弾き直して、教師からため息をつかれるのが毎度のことだった。

ピアノを弾き続けてきた八年間、一度もたのしいなんて思ったことはなかった。

才能がない、というより、ピアノに興味が湧かなかったのだ。どうして、定められた大量の音符をつなぎあわせて、暗記して、それを手から吐き出すことのなにが美しいのだろう。なんの生産性もないじゃないか。

弾き方がひとつの彫刻のように美しいひともいるが、しょせんは機械が出す音を繋ぐ作業に過ぎない。人間がしがみついたところでどうなる。

ましてや、幼少期、思春期のみならず、人生のすべてをこの鍵盤楽器にささげたひとは、今こうしてピアノにまったく興味のない虚無主義の少女や、暇をもてあました老人のお相手をさせられている。そういう職にさえ就けない人だっている。栄冠をさずけられるのは、運の気まぐれに当たったひと掴みの人材だけ。

そんな実りのない楽器に、どうして時間を割く必要があるんだ。ドとミの区別がつかないくらいで怒られるなら、懸命にとりくめば将来が約束される計算ドリルをしたほうがましだ。

そんなものが楽器の王さまなんて、結局音楽も、そんなものによって彩られている人間社会も、大したことないじゃないか。

私の虚無主義思想は、ひと昔前のピアノとの初対面の瞬間、その場面だけふつりと途切れたのであって、あとは益々おおきくなるばかりだ。途切れた、といっても、初めて見た巨大な機械に目がおどろいただけで、一弾指わすれていただけに過ぎないのかもしれない。

ただ、今までなにを見ても同じに映った自分の瞳に、想像できる範疇を超えて、黒々とした厳つい光沢感の巨躯を、はっきり知らしめたのはグランドピアノが初めてだったし、これから先もないであろうと察せた。

そういう意味では、ピアノと私の出逢いは非常に運命的であり、必然性の高いできごとだった。

そうだ、あたし、ピアノの前に座りたくてたまらなかったときもあったんだっけ――


「ほら、これ楽譜。これで全部だから。」

ばさばさっと痛々しいぐらい精密な楽譜が、目の前に突き付けられた。プリントされたばかりの用紙独特の、不健康な白さだ。久しぶりに見た。

短い直線がいくつも。それから黒い丸。付け入る隙のない五線譜にこれでもかとばかり詰め込まれている。

 わたしの技量不足もあるが、中学生が弾くにはなかなか難易度の高い曲のようだ。弾くスピードが速いし、シャープもフラットもふんだんに使ってある。矢口さんがこれを選ばなかったということは、課題曲はことさら手ごわいのだろう。自分のことは棚にあげても、彼女にそんな繊細な曲が弾きこなせるのだろうか。これはますます先が思いやられる。正直いって、とても私や矢口さんがこなせるレベルの曲ではなかったが、こうやって楽譜を出されては、断るにも断れないだろう。現に、眼前の実行委員はやれ一仕事おわった、とでも言いたげな雰囲気を醸し出しているし。

五線譜の先頭にのっている記号をみて、なんとか分かるものであることを確認すると、わたしは渋々承諾の意をつげた。

 これから数か月間、三年ぶりにこいつと睨めっこだ。またこいつを前に、ああでもないこうでもない、ここの運指はどうだの、ここはもう少しゆるやかにだの、楽しくもない試行錯誤を重ねなければならない。ひどく面倒だ。

しかし、不思議なことには、三年前に感じていたほどの嫌悪感はなかった。ゼロというわけでもなかったが。吐き気を催さない分、私も大人になったという意味だろうか。

 しかし、そんなことはどうでもいい。承けたからには成功させてやるよ。急に克己心が湧き上がってきて、目の前の坊ちゃん狩りに、「頑張るから」と嘯いた。

 義務的にうなずく彼が去ってから、自分がかなりのあいだ虚無主義思想を忘れていたことに気づいたのは、かなり後のことだった。あいつは長いあいだ他人を拘束したことに、申し訳なさを抱くほどの想像力がないようだ。「ごめん」も「よろしく」も言わなかった。けれどそんなこと、なんとも思わない。私はまた五線譜に視線をもどして、時をわすれて見つめていた。思考の世界に閉じこもっていたら、突然クラリネットの長音が聴こえて、ふっと我にかえった。

 誰もいなくなった教室で壁時計を見やる。長針がだいぶ傾いている。あと半刻ほどで下校しなければならない。部室に顔をだそうかとも思ったが、きっと私がいなくても問題なく機能しているだろう。校舎の奥から聴こえるトランペットの高鳴りはいつもどおりだ。

 顧問になにやら言われたら、「合唱コンクールの打ち合わせで。」とか適当な理由をつければいい。それよりも、早くピアノの前に座りたかった。何年も弾いていないから、具合がわるくなっていないだろうか。

 私は急いで楽譜をしまう。遠くから少女たちの発声が聴こえた。あーとかうーとかを腹の奥からしぼり出す、いい声だ。あんなに生きた声は私には出せない。

 また鬱屈としたものが込み上げて、それが漏れださない内に学校から逃げ出した。

 校舎の周りを駆けている運動部の生徒が、微妙な時間に下校している私を見て、いぶかし気な視線を送った。ユニフォームの蛍光色が変に浮いているから、まだ一年生だろう。上気した額にうっすらと汗が浮かんでいる。それを拭うことすら忘れるみたいに、夢中だ。なにに、というより、自分に。私もあの頃は、まだ微かな希望ならもっていたのに。やな性格になってしまった。いや、元からか。もっと酷くなっただけか。

 青くさい時代なんか、とっとと終わればいい。早く大人になりたい。そう思ってる内は、まだ子供だろうか。

 私はやっと校門をくぐり抜ける。踏みなれたアスファルトの感触をまた足に受けた。再び、きんきんしたトランペットのおとが聴こえた。


 私はまたしても逃げた。考えたくなかったのに、答えが出てしまった。

 私には才能がない。だから楽器なんて、音楽なんかやったってなんにもならないはずなのに、どうしてまた向きあおうだなんて思ったんだろう。

 いつものように家へ帰る。学校から徒歩五分。楽な道のり。なんてことない田舎の一軒家。普段なら、帰宅した直後はするべきことから目を逸らし、娯楽機器のスイッチをいれるのだけれど、今日は自発的に行動する。きっと、今日を逃したらこれからどんどん避けてしまう。私の経験則からしてそうだ。嫌なことはいつも後回し。ぎりぎりになって追い詰められてからやっと片付けるんだから。

 私は長い間使っていなかった離れに足を踏み入れた。数年発酵させたほこりの匂いが鼻に絡みつく。丁寧に敷き詰められた木の板を踏みしめながら、一番奥の部屋をめざして歩く。あの部屋のピアノを最後に弾いたの、何年前だっけ。私の記憶が確かなら、まだあそこの部屋の壁にピッタリくっついているはずだ。動く理由なんてないし。誰からも弾かれることなく、ずっとあの部屋に鎮座しているはず。

なんだか悲しいな。調律が狂っていなければいいけれど。

離れの一番遠くの扉が見えてきた。いよいよご対面だ。これから蓋を開いて指を準備するところまでは想像できた。私が開ければきっと何年も積もった埃がそこら中に舞い散るんだ。その先、指をどう動かすかは薄もやがかかったままだけど。

ついに扉に手をかける。そのまま力を込めた。

少し立て付けの悪くなったドアをこじあけると、その先に広がっていたのは――

すがすがしいまでの無だった。


それを発見してからしばらくの間、私は身動きが取れなかった。頭が処理できなかったのだ。これは一体どういうことだろう。三年前ならばこの部屋の壁際に古ぼけたアップライトピアノが置いてあったはずだ。あれはうちに来たときにはもう中古だった。親戚のお姉さんが使っていたのを譲り受けたものなんだから。

なのに今は小さい机や水の入っていない花瓶がクモの巣だらけになって、乱雑に置いてあるだけ。

自分自身が歩くことも話すこともできないアップライトピアノが忽然と姿を消したとなれば、考えられる理由は一つだ。

私は埃とまじったため息をついた。そしてただ思ったのは、伴奏の仕事は断るしかないってことだ。


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