妻の秘密
裕介の妻は、誰もが認める理想の妻だ。家事全般と料理を得意とし、優しくて美人だ。そんな彼女と結婚出来た裕介は、誰もが認める幸せ者と言えるだろう。
毎日家に帰れば、妻が笑顔で迎えてくれる。そんな毎日が幸せで、裕介には怖いものなんて何一つ無かった。
しかし、裕介は妻に対して一つだけ不審点があった。それは妻が裕介をキッチンと自分の部屋に入れたがらないという事だ。最初は恥ずかしいのだろうかと思っていたが、冗談半分で入ろうとした時に、いつも穏やかな妻が我を忘れて激昂したのには、流石に開いた口が塞がらなかった。
「お願いだから、入らないでください‼︎」
そんなに強く言われたら、逆に入りたくなるのが人間というもの。だからその次の日、こっそりキッチンに足を踏み入れようとした。
「⋯⋯何、してるんですか?」
しかしいつの間にか、妻は裕介の背後に居たのだ。
「見ないでって、言ったじゃないですか⋯⋯」
その時の妻の悲しむ顔は、今でも忘れられない。流石に懲りた裕介は、それ以降キッチンに入ろうと思う事は無くなった。そしてこの出来事は、それから数年間、頭の中からすっかり消えていた。
*
「行ってきます」
玄関の前で妻にそう告げると、妻は笑顔で「いってらっしゃい」と返す。この笑顔のお陰で、裕介は今日も一日、仕事を頑張れる。
裕介は、何処にでも居る普通のサラリーマン。決して給料が良いわけでは無いが、妻が居れば幸せなので特に気にしていない。
「よぉ、裕介」
会社に着くと、同僚の男が裕介に話し掛けてきた。
「おはよう」
「今日も元気そうだな」
「当たり前だろ。だって里恵の笑顔が見れたんだから」
里恵とは、裕介の妻の名前だ。
「相変わらずの愛妻家だな。まったく羨ましいぜ」
そう言う彼は、現在独身。好みにうるさいから結婚出来ないのだと思うが、裕介はそれを心の中に留めている。
「あーそういえば、明日の同窓会には来れるのか?」
「ああ。勿論行くつもりだよ」
「それは良かった」
二人は通っていた高校が同じで、中学の頃から非常に仲が良かった。
運良く一階に来ていたエレベーターに乗り込み、六階に上がるボタンを押す。
「そういえばさ」
「何?」
「お前の奥さんも、俺たちと同じ高校だったんだよな?」
「そう言ってたよ。卒アルも持ってたし」
裕介には全く見覚えが無いのだが、確かに里恵は、彼と同じ高校に通っていたらしい。
「それで、年齢も同じなんだろ?」
そう。彼の言う通り、裕介達と里恵は年齢も同じだ。里恵は裕介と同じ学年で、同じ学校に通っていたのだ。それはつまり、校内で何度か顔を合わせているという事になる。
「でさ⋯⋯あの時の事、覚えてるか?」
「覚えてるかって⋯⋯何を?」
「連続失踪事件。まさか忘れたわけじゃないだろうな?」
「あっ⋯⋯」
彼に言われて、ようやく思い出す。
それは裕介達が高校に通っていた頃に起きた事件で、学校の女子生徒数人が、行方不明になった。事件があまりも身近に起きていたので、少しだけ怖かったが、今となってはただの思い出話になっている。
「あの事件の被害者ってさ、何故か全員お前と一度付き合ったことがある奴だったんだよな」
そういえばそうだった。奇妙な事に、行方不明になった女子生徒は全員、一度でも裕介と付き合った事のある人達だ。
恥ずかしながら裕介は顔が良いので、よく女子にモテた。なので当時は沢山の女子と付き合っていたのだ。
「で、それがどうかしたのかよ?」
正直、折角元気よく出勤したのに過去の事件を掘り返されて、機嫌が悪くなっている。早くやめて欲しい。
「⋯⋯実はさ、お前の上司の杏奈さん。行方不明になったらしいんだ」
「えっ⋯⋯」
杏奈というのは、裕介の会社での上司。かなり頼りになる女性で、美人。そんな彼女が行方不明だなんて、にわかに信じられない。
「変だと思わないか? お前に関わってる女性が、揃いも揃って行方不明だなんて」
「た、確かに⋯⋯」
鳥肌が立った。ここまで来ると、偶然じゃ済まされない。何故ならこれで、妻の里恵以外に関わった女性は全員、行方不明になったからだ。
「もしかしたらだけど、犯人はーー」
ここでエレベーターが6階に到着し、扉が開く。
「ーーまぁとにかく、気を付けろよ」
彼はそう言いながら、エレベーターから出て行く。裕介は足がすくんで、暫くその場から離れる事が出来なかった。
次の日、その彼が行方不明になった。なのでその日の同窓会は、行かない事にした。
裕介は今高校ぶりに、恐怖というものを間近に感じている。
「それは、気の毒でしたね」
妻の里恵は、落ち込む裕介を慰める。やはりこういう時に妻が居てくれるのは、嬉しい。
「ありがとう里恵。俺はお前と結婚できて、幸せだよ」
「私もですよ。裕介さん」
互いに、笑顔を見せ合う。少しでも現実から目を背けて、彼女だけを見ていたい。今はそう思っていた。
人間というのは不思議なもので、数ヶ月もすれば、あの時の恐怖心はあっさりと消えてしまっていた。
「今日から新しく入る事になった、高梨麗香さんだ」
今日会社に来てみると、新しく女性社員が入ったらしい。年齢は裕介より低く、まだ成人になったばかりだと思われる。
「裕介さん」
その新人社員、麗香が笑顔で裕介に話し掛けてきた。沢山居る社員の中で、何故か裕介が話し掛けられた。
「ん? どうしたの、高梨さん?」
「いえ、何となく。ただ少しかっこよかったなと思って」
「えっ⋯⋯あ、ありがとう」
直接そうやって言われると、誰だって照れる。裕介も若干、頬を赤らめた。
「あの、ご結婚とかはされてるんですか?」
初対面の男性に、そんな事を聞くのかと、裕介は内心驚愕する。
「うん。結婚してるよ」
その言葉を聞くと、麗香は何故か悔しそうに顔を俯かせた。
数秒もの後、麗香は顔を上げて、何かを決心する。
「⋯⋯その、覚えてませんか? 私小学生の頃、裕介さんに助けて貰ったんです」
「小学生、助け⋯⋯ってまさか君、川で溺れてた子⁉︎」
今から数年も前。裕介が中学に入って間もない頃、偶々一人で川遊びをしていた時、一人の少女が溺れているのを見つけた。咄嗟に飛び込み、何とか助ける事が出来たが、まさかあの時の少女と会社で再会するなんて、思ってもいなかった。
「私、ずっと探してたんです。裕介さんの事。それでやっと見つけて、この会社に就きました」
「そう⋯⋯なのか」
「いきなりかもしれませんが、助けてもらった時から、裕介さんの事が好きでした。もう結婚なさっているからこの恋は叶いませんけど、こうやって直接、想いを伝えたかったんです」
何も返せなかった。もし里恵という素敵な女性に会っていなければ、もしかしたら結婚していたのは彼女だったかもしれない。
その後、僅か短時間で仲良くなった二人は、その内にメアドを交換するまでに至った。愛妻家である裕介の脳内には、常に「里恵以外の女性は友人。それ以上はあり得ない」という感情を発動させている。浮気なんて絶対にしない。
数日後の事だった。会社に来てみると、麗香の姿が無い事に気付く。心配になった裕介は、麗香のケータイにメールをする事にした。
『今日、どうして会社休んだの?』
僅か数分で、返信が来る。
『風邪で体調を崩しちゃって。なので、しばらくの間は会社に行けません』
風邪か。風邪なら仕方ない。そう思いながら、裕介は返信メールを打った。
『そうか。お大事に』
それを送ってから、メールは返ってくる事は無かった。
家に帰り、夕食の時間。速やかに着替えを済ませ、テーブルの上に並べられた美味しそうな料理を眺める。
「今日は、ハンバーグか」
そう言えば、同僚が行方不明になった日も確か、ハンバーグだった気がする。そんな偶然に、何故だか裕介は不安感を駆り立てていた。
里恵が作るハンバーグの味は、他のハンバーグとは少し違う。肉が違うのか、それとも調理方法が違うのか。キッチンは覗けないし、彼女に聞いても「秘密です」の一点張り。結局わからずじまいだった。
「あ、そうだ」
急に何かを思い出した裕介は、箸を止めて、ケータイを取り出す。風邪と言っていた麗香に、様子を聞こうと思ったのだ。
『どう、調子は?』
短い文を数秒で作り、送信する。その直後だった。
ピリララララ⋯⋯
ピリラリララララ⋯⋯
聞き覚えのある着信音が、何処からか聞こえた。その音の鮮明さから、家の中からだとわかる。
「この着信音⋯⋯って」
思い出した。この着信音は確か、麗香のケータイの着信音と同じだ。彼女はしょっちゅうケータイで友人とやり取りをしているので、着信音をよく耳にしている。間違いない。
では何故、彼女のケータイの着信音が、家から聞こえてくるのだろう。しかも裕介がメールを送った直後にだ。
同時に、今は行方不明になった同僚の話を唐突に思い出す。
『もしかしたらだけど、犯人はーー』
あの時彼は、何と言うつもりだったのだろうか。
身体が小刻みに震え始める。薄々は気付いていた。このたった二つの些細な出来事が、裕介を真実にたどり着かせていた。
ふと、皿に乗せられたハンバーグに眼を向ける。
「なっ⋯⋯」
その時は、幻覚だと思った。でもどんなに目を擦っても、それは消えない。
ハンバーグの中に、ピアスの様な物が見えた。
里恵はピアスなんて付けないし、そもそもこのピアスに見覚えがあった。本当は、見覚えが無い方が良かったのにと、後悔する。
そのピアスは、麗香が愛用している物だった。何度も見ているのだ。これも間違いない。
嫌な予感が。真実が。まるで裕介を嘲笑うかの様に、姿を現す。
遂に裕介は、目の前で座っている愛しい妻の方に顔を向けた。もし予感が当たっているならば、彼女は⋯⋯。
「ずっとずっと、裕介さんは誰にも渡しませんからね」
その穏やかな笑顔は、裕介には歪んで映っていた。