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文句は言うし喚きもするが、給仕の仕事が嫌いなわけではない。突然男所帯に放り込まれ、なおかつその中でもヒエラルキー最下層に追いやられたアランにとって、大衆食堂の人間くささはむしろ暖かみすら感じられる。
冷ややかな視線や嘲笑に比べれば「こっちきて一緒に飲もう」だの「もう一杯頼むからお酌してよ」だのといった酒の席での発言は可愛いもの。立場や家柄という柵もなく、殴り合いが始まるや飛び込んでいくヴィグを止める必要もない。
店長は口が悪くて怒鳴るし人使いが荒いが、それでも娘程の年齢であるアランが聖騎士として馬車馬のように働かされている姿に哀れみを覚えるのか、時々口にハムやら果物やらを放り込んでくれる。
――その優しさがあるならそもそも人を働かせるな、という話なのだが「それはそれ、これはこれ」らしい。商売の世界は随分とシビアだ――
だがいかんせん酒も出す店なだけあり終わりは遅い。閉店作業を終えたアランが一息つけたのは日付が変わってしばらく、周囲は当然だが真っ暗。ちなみにヴィグはと言えば、聖騎士の勤務時間が終わるや自腹で酒を飲み始め、見事デルドアに酔い潰されて店の奥で眠っている。
琥珀色の酒が揺らぐグラスを一気にあおり、赤みを強めた瞳で不適に笑うデルドアの姿は妙な色気とかっこよさを感じさせるが、いかんせん潰されたのが自分の上官なだけあってアランの心境としては複雑なところだ。
――その背後ではロッカが可愛らしいストローをくわえ、コクコクとまるで小動物のような愛らしさでナニカを飲んでいた。ナニカとは何か、まさかそんな、ロッカのくわえるストローの先が酒樽に繋がっていたように見えたなんて、そんな……――
とにかく、店仕舞いも終わったと奥の休憩室に戻れば、数時間前に潰されたヴィグがソファーに四肢を投げ出して鼾をかいてた。その情けない姿にアランが溜息をつきつつも彼の頬を軽く叩く。
「団長、ヴィグ団長、起きてください」
「んー……無理だ、もう飲めな……いや、まだ、まだいける……まだいけるかもしれない……」
「別にそんな可能性求めてません。お店閉めましたよ、戻りましょう」
「無理だ……ここで寝る」
「詰め所ならまだしも、ここお店ですよ」
「大丈夫だ。店長の許可はとってある」
グッタリと四肢を投げ出しつつ、それでもヴィグがゆらりと右腕をあげ親指をたてる。対してアランは「こんな時だけ仕事がはやい」と言いたげに溜息をつき、それでも店長の許可を得ているのなら良いかと自分の帰り支度に取りかかった。
手近にあったクッションをヴィグに被せるのは、彼が風邪をひかないようにとせめてもの情けである。あぁなんて上官思いなのか、と思わず自画自賛してしまう。こんな良い部下、そうそう居やしない。
もっとも、ならば布団なり毛布なり探してかけてやれと言われそうなものだが、流石にそこまでしてやる義理はない。元をただせば、デルドアに勝負をふっかけて玉砕した彼が悪いのだ。
「団長、明日ちゃんと詰め所に来てくださいね。二日酔いなんて情けないことを言い出したらラッパ吹きますよ」
「地味に痛い攻撃を仕掛けてくるな……だが安心しろ、俺に死角はない」
「どういうことですか?」
「明日の聖騎士の仕事は『ベテランの店員が連休をとってしまったため隙が出来てしまい魔物に襲われるかもしれない大衆食堂の警護』だからな」
「店長ぉー! さすがに二日連続はどうかと思いますよ!」
これは酷い! とアランが休憩所を飛び出せば、背後からヴィグの「おつかれー……ぐぅ」というなんとも間の抜けた声が聞こえてきた。
「団長も団長だけど、依頼する店長もどうかと思うね。もう『長』と名の付く人は端から人格を疑っていく方針にしようか……」
そうブツブツと呟きながらアランンが夜道を歩くのは、当然先ほどの抗議が無駄な足掻きに終わったからである。
そもそも、聖騎士団の団長であるヴィグが正式に受理してしまった以上、アランに拒否権などあるわけがないのだ。
あと、文句を言おうとした口に美味しいハムを放り込まれ、更に旬の果物が二つ三つ入った紙袋を手渡されてしまった。ムグムグと租借しつつ「美味しい」と一言、そのうえ紙袋を覗きこんで「リンゴが入ってる!」と喜んでしまったのだから了承したも当然。
はたと我に返るも時既に遅く、店長の「それじゃ、また明日よろしくな」の一言と共に店を出されてしまった。
だが聖騎士として言わせてもらうのであれば、これはけっして賄賂ではない。
国に忠誠を誓い、国民の為に戦う聖騎士が賄賂などとんでもない。
言うならばお駄賃。むしろご褒美の域である。
「……賄賂の方がかっこいいかな」
「何がかっこいいんですか?」
独り言のつもりが返事がかえってきて、アランが慌てて振り返る。
そこに居たのは見目麗しい男性……。
「レリウス様」
そう、レリウス・スタルス。アランがその名を呼べば夜風がザァと吹き抜けて彼の金の髪を揺らし、騎士服がはためく。その光景のなんと美しいことか。
そんな自分の美貌を知ってか知らずかレリウスはアランに歩み寄ると、グイと手を掴んできた。しなやかな指が自分の指に絡まり、アランの身体に熱が灯る。女のように細く、それでいて節には男を感じさせる、男臭くない男の手。
「こんばんはアラン嬢。貴女に会いたくて家を抜け出してしまいました」
甘いマスクで悪戯気に微笑まれ、アランがボッと音がしそうなほど顔を赤くさせた。絵画から出てきたかのような外観、甘く耳にとけ込む声……そんなレリウスから「会いたくて」等と言われ、赤くならない女性がいるわけがない。
恥ずかしさと緊張で混乱状態に陥り、握られた手を引くことも握り返すこともできない。だがその反面、僅かに残った冷静な思考が疑問を訴える。
相手はレリウス・スタルスだ。
スタルス家の三男、誰もが焦がれる騎士。
そんな彼が、どうしてコートレス家の代替騎に……。
そんなアランの困惑を察したのかレリウスが小さく笑みをこぼし、掴んだ手をグイと引いた。当然、アランが引っ張られるままに身体をよろけさせ……。
レリウスの腕の中に抱き寄せられた。
「レ、レリウス様!?」
「僕を前にして考えことですか?」
耳元で囁かれてゾクリと体が震え、背に回された腕が離すまいと身体を押さえる。小さく悲鳴をあげてアランが慌てて見上げれば、深い色合いの瞳がジッと自分を見据える。優しげな色味だがその奥には男らしい熱を感じさせ、もとより早鐘状態の心臓がいっそう激しく跳ね上がった。
「見つめられたら誰だって恋に落ちる」とは、以前に彼と対峙したことのある令嬢から聞いた話だ。当時、まだ代替騎ではなかったアランには心に決めた相手が居て「自分は違う」と思っていたが、なるほどこれは確かに厳しい。
無駄のない身体は男らしさを感じさせつつそれでいて柔らかく自分を包み、誘うように耳元で囁かれてはゾクリと身体が震える。甘い声、甘い言葉、それにほのかに漂う甘い香り……。
甘い、鼻につく、香り。
その香りに思わずアランの目が丸くなり、ついでに口も半開きになった。
いわゆるフレーメン反応である。いや、本当にこの反応が出たわけではないのだが、思わず口が半開きになってしまうほどの事態なのだ。
「……どうしましたアラン嬢?」
「あ、あの、失礼しました。その、少し驚いてしまって……」
アランの反応にレリウスが驚いたように顔を覗きこむ。それに対してアランはムグと慌てて口を閉じ、誤魔化すように視線を泳がせた。
そうして一度、レリウスの体に僅かに身を寄せて探るようにスンと鼻を鳴らせば、確かに甘く漂う香りが鼻をくすぐる。初めて嗅いだ時は香水かと思ったが、これは間違いなく……。
「レリウス様、あの……」
「アラン嬢、突然触れてしまい申し訳ありません。ただ、僕といるときは他のことを考えてほしくなくて」
耳元で請うように囁かれる、女性ならば誰もがウットリしそうな台詞。
そのなんと甘くくすぐったいことか……だがアランの胸中はそれどころではなく、身体の熱も急速に冷えていく。それでもコクリと一度頷いて返すのは、彼の腕の中にいてもなお、アランが只の少女ではなく聖騎士だからである。
レリウス・スタルス。名家スタルス家の三男。
跡継ぎであり家を支える才のある長兄、軍神と呼ばれる父親を継いで第一騎士団を率いる次兄、そのあとに生まれたレリウスもまた兄に負けず劣らず優れており、三人が手を取り合えばスタルス家は更に飛躍するだろうと、そう誰もが考えていた。ゆえにどの家も娘との縁談を……とも考える。
現にスタルス家の長兄・次兄は既に良縁を結んでおり、レリウスも引く手数多。家柄も外観も中身も非の打ち所のない彼に声をかけられれば、どんな家の令嬢であれ喜んでついて行くだろう。
だからこそ、彼がコートレス家の代替騎に声をかける理由が分からない。
「アラン嬢?」
様子を伺うように名を呼ばれ、アランがはたと我に返って顔を上げた。
やんわりと柔らかくレリウスが微笑む。緑がかった青色の瞳に自分が映っているのが見え、アランが慌てて視線を逸らした。
「申し訳ありません、少し考え事をしていて……」
「いえ、こちらこそお疲れのところを誘ってしまい申し訳ありません。ただ……」
ふと、言い淀んでレリウスが立ち止まる。いったいどうしたのかとアランもまた足を止めて見上げれば、彼は柔らかく微笑み、そっとアランの手を取り……そして手の甲にキスを落とした。ほのかに触れる唇の感触、射抜くような瞳で見つめられ、冷静を取り戻していた心臓が再び跳ね上がる。
「ただ、貴女に会いたかったんです」
そう告げて、再びレリウスが手の甲にキスを落とす。
チュ…と軽く聞こえる音がアランの耳に届き、消えた熱が灯り始める。鼓動が速まり、心音が警報のように鳴り響く。
ダメだ、アラン。落ち着かなくちゃ……。
レリウス様は確かに見目が良いけれど、何か考えがあって近づいて来たに決まってる。
それに団長やデルドアさんだって同じくらいに見目が良い、かっこいい男なら見慣れているはずじゃないか……まぁ、あの二人は性格に難ありだけどね!
と、脳内に浮かぶ良い男二人を罵倒し、アランが我に返ってレリウスを見上げた。
――これは思った以上に冷静さを取り戻す良い方法である。まぁ、バレたらどうなるか分かったものではないけれど――
「あ、あのレリウス様、失礼を承知で申し上げますが、そのようなお言葉あまり迂闊に女性に対して言わないほうが……」
「えぇ、分かっています。特別な女性にしか言いませんよ」
「特別……」
あわあわとアランが真っ赤になりながら視線を泳がせれば、対してレリウスはそんなアランの反応も予想の範囲内なのか小さく笑う。
彼の口から贈られた『特別な女性』という言葉。その言葉に灯りかける熱をなんとか必死に押さえつける。
勘違いするな、その『特別』はアルネリアではなくアランに贈られた言葉、哀れな代替騎に贈られた、スタルス家三男からの言葉……。
だからこそ、普通の少女のように純粋に喜んではいけない。問わなければ……
「レリウス様、貴方は……」
いったい何を考えているんですか?
そう問おうとしたアランの言葉を遮るように、レリウスがそっと瞳を細めて身を屈めた……。