短編9(前)
夜、少し遅めの時間。
「……水道工事」
ポツリとアランが呟いたのは、女性寮の一角、そこにある寮内掲示板にある連絡事項を見てのこと。
曰く、今日から数日かけて女性寮の水道工事を行うのだという。殆どは寮内に人の少ない日中に行われるが、入浴設備だけは大掛かりな工事になるため数日は使えなくなるのだという。
その間、市街地にある大衆浴場の使用を推薦されている。
「……お風呂かぁ。市街地のお風呂って大きいところかな」
「そうよ。大きなお風呂で足を伸ばしてお湯に浸かるの。きっと気持ち良いわ」
「フィアーナさん」
声を掛けるどころか当然のように会話を続けられ、アランはそちらへと視線を向けた。
フィアーナだ。彼女は布製のトートバッグを二つ手にしている。それも満面の笑みで。そのうえトートバックの一つをアランに手渡してきた。
「さぁアラン、行きましょう」
「行くって……、お風呂に?」
「そうよ。タオルも新しい下着も、お風呂から寮に帰るまでに着るワンピースも全部入ってるから安心して。全部私の色違いよ」
まるで事前に約束していたかのようにフィアーナが話し、更には「さぁ」と促してくる。
だがこれに対してアランは従う気にはならず、眉根を下げると差し出されるトートバックとフィアーナを交互に見た。
「ありがとう、フィアーナさん。……でも、私、お風呂はデルドアさん達のところで借りようかな」
「そう。やっぱり私と一緒にお風呂には入ってくれないのね。でもヴィグ・ロブスワークと一緒には入るんでしょう。あぁ、どうしてアラン……」
「ヴィグ団長とはお風呂は入らないよ。それに市街地のお風呂だと他の人がいっぱいいるし、寮の人達もみんなお風呂に行くんでしょ……」
寮での生活にはだいぶ慣れ、最近では挨拶出来る人も増えてきた。
それでも今までの傷は深く、大勢集まる食堂はいまだ緊張するし、無意識に人の行き来が少ない時間を選んで行動してしまう。
そんな状態なのだ、皆で裸になってお風呂に……なんてアランにはハードルが高すぎる。あと緊張のピークを達して湯船で鼻血を出そうものなら浴場に迷惑をかけてしまう。
だから、とアランが話すも、フィアーナは変わらず穏やかな微笑みのまま「大丈夫よ」と断言した。
「この時間帯なら一般の利用者は殆どいないはずよ。それに、寮の関係者も、みんなアランの事を考えて今から二時間はお風呂に行かないように決めたの。緊張したうえにのぼせたら鼻血が止まらなくなるでしょ」
「……お気遣いありがとうございます」
ご迷惑をとアランが背後に視線をやれば、通路の先、曲がり角で覗いていた数人がさっと隠れていった。
「でもフィアーナさん……」
「そう。下着が不満なのね、ちゃんと別のも用意してるわ」
「別に下着が不満なんじゃ……。ひぇぇ、布面積が少ない」
「それも嫌なの? アランってば我が儘ねぇ。でも他のデザインも用意してあるから安心して。女の子だもの、下着にだって拘りたいわよね」
「いや、だからそういうわけでは……。そんなまさか、布面積が更に減るなんて……」
「こっちも嫌? でもまだ用意してるわ」
「フィアーナさん、これはもしかして断れば断るほど布面積が減っていくシステムなの?」
恐れを抱きながらもアランが問うも、フィアーナからの返事は無い。彼女はただ美しく微笑むだけだ。
それはそれは美しく、そして知的さも感じさせる笑み。王宮勤めという才女を集めたこの寮に置いて、フィアーナは才能もそして美貌でもトップにいる。才色兼備とはまさに彼女の事を言うのだろう
その笑みのなんと恐ろしく威圧的な事か。更にはトートバッグから次から次へと下着を出してくる用意周到さ。これは何を言っても無駄だ……、とアランは諦め、肩を落とすと「一番最初の下着にして」と同意した。
フィアーナがここまで用意し、そして寮の女性達も影ながら――文字通り陰から覗き見しながら――協力してくれたのだから応じるべきだろう。これも対人関係を築くための一歩だ。
アランが応じてくれると分かるや、フィアーナが嬉しそうに腕を組んで「行きましょう!」と弾んだ声をあげた。
「途中に美味しいジェラートのお店があるの。帰りに買って、食べながら寮に帰りましょう。奢ってあげる」
「ジェラート? この時間に?」
既に時刻は遅く、今から大衆浴場に行って風呂に入って……、としていたら戻りは更に遅くなる。深夜とまでは言わないが、それでも酒場以外の店は閉まっている時間だ。
「もうお店閉まってるんじゃないの?」
「そこね、日中に開いて夜にもう一度お店を開けるの。遅い時間帯に働いている人をターゲットにしてるのよ」
元々の美味しさと夜間も開いているという珍しさ、更にはジェラートを食べながら夜道を歩くのも趣があるとわざわざ夜に店に来る者も居り、今注目されている店なのだという。
その話を聞きながらアランも想像してみた。湯上りの体に夜風を感じ、更に美味しく冷たいジェラートを片手に……。なるほど確かに魅力的だ。
「なんだか楽しみになってきた。行こう、フィアーナさん」
そうアランが告げれば、フィアーナが嬉しそうに歩き出した。
「良かったわね、フィアーナ……」「楽しんできてね二人共」という囁き声が背後から聞こえてきたが、これは多分聞こえていないふりをした方がいいのだろう。
それでも気になってちらと横目で背後を見れば、廊下の角にあった人影がサッと引っ込んでいった。
そうして市街地にある大衆浴場に向かったのだが……。
「男性寮も工事なんですか?」
とアランが首を傾げたのは、浴場の前でヴィグと遭遇したからだ。
それもデルドアとロッカもいる。
「こっちも工事中だ。というか、こっちは完全に壊れてるらしい」
「そうだったんですね。でも、どうしてデルドアさんとロッカちゃんが?」
「こいつらのところで風呂を借りようと思ったんだが、話をしたら大衆浴場に行ってみたいって言いだして」
ヴィグが説明すれば、その途中で興奮気味のロッカが「僕ね!」と入ってきた。
相変わらずの愛らしさだ。魔物らしい赤い瞳が輝き、尻尾がピンと立っている。興奮のあまり頬からはぴょんと髭まで伸びている。
「僕ね、大きなお風呂って入ったことないの! だから皆で大きいお風呂に行こうってなったんだよ!」
「そうなんだ」
「でもその話を聞いた他の騎士さんに、お風呂に行くならジャルダン・スタルスって人が一緒じゃないと駄目って言われたの。でも僕、ジャルダン・スタルスって人が誰か分からないから、ジャルダン・嫁さんおっかない・スタルスさんに、ジャルダン・スタルスさんって誰ですかって聞きに行ったの!」
「そっか……」
興奮したままのロッカの話を聞き、アランは一度彼の隣に立つ人物に視線をやった。
ひょいと顔を上げるのはそその人物が背が高いからだ。小柄なロッカやアランよりもだいぶ身長が高く、そして体躯も良い。
ラフな服装をしてはいるが鍛えられているのが服越しでも分かる。
……表情はだいぶ死んでいるが。
「それで、ジャルダン・嫁さんおっかない・スタルスさんの家に行ったの?」
「うん! それでね、嫁さんおっかない・スタルスさんに、ジャルダン・スタルスさんって誰ですか? って聞いたら、嫁さんおっかない人がジャルダン・スタルスさんだったの!!」
びっくりだよね! と同意を求められ、アランは何と言って良いのか分からず「う、うん……」とだけ返した。
話し終えたロッカが大衆浴場の入り口を覗きに行くのを見届け、アランはその人物を見上げた。
相変わらず表情が死んでいる。うんざり、という言葉がよく似合う。
その人物とは、先程ロッカが話していた『ジャルダン・スタルス』であり、そしてロッカが『ジャルダン・スタルス』が誰かを聞きに行ったという『ジャルダン・嫁さんおっかない・スタルス』でもある。
「あの……、ロッカちゃんは別に悪気があるわけじゃないんです……。なんというか、思考回路がちょっと独自的と言いますか」
「分かってる。ロッカに関しては今更どうこう言うつもりはない。あいつの言動は悪意がなく、単純に人間と獣王の末裔との違いゆえだ。……だが」
「だが?」
ロッカに対しては許容しているようだが、他に何かあるのだろうか。
アランはジャルダンを見上げたまま問おうとし、出かけた言葉を「ひぇっ」という間の抜けた悲鳴に変えた。先程までうんざりとしていた彼の表情が途端に険しいものになり、鋭い眼光で一点を睨みつけているのだ。
さすがジャルダン・スタルス。その迫力と威圧感はかなりのもので、騎士の制服は着ていないが誰だって今の彼を前にすれば只者ではないと分かるだろう。
そんなジャルダンは険しい表情のまま一点を睨み、ゆっくりと口を開いた。
「ロッカの言動は理解出来た。いや、理解まではいかないが、それでも文句を言うつもりはない。だが、ロッカの言う『ジャルダン・スタルス』が俺だと分かったうえで、のこのこと俺の家に来て一部始終が終わるまで黙っていたヴィグとデルドアが許せん」
そう語る彼の声には憎悪の色がこれでもかと込められている。
「なるほど、ロッカちゃんがジャルダン様に尋ねるのを、二人は黙って見守っていたわけですね……」
「黙って、楽しそうに、笑いを堪えながら、見守っていた」
「わぁ、想像出来る」
さぞやヴィグとデルドアには楽しく、そしてジャルダンには屈辱でしかないやりとりだったのだろう。
これはジャルダンを宥めた方が良いのだろうか、それともデルドアとヴィグの行動に対してのフォローを入れるべきか。いっそ聞かなかったことにするのも手だ。
そうアランが――内心に湧き上がる「私もその場に居たかったな」という思いを押し留めながら――考えていると、怒りオーラを漂わせながら話していたジャルダンが盛大な溜息を吐いた。次いでガクリと肩を落とす。
「……もう良い、今の話は忘れろ」
「良いんですか?」
「……最近あいつらを相手に怒ったり訴えたりは無駄だと悟った。俺がすべきは俺への被害を最小限に抑えるだけだ」
「達観してますねぇ。お風呂にゆっくり浸かって休んでください。……ゆっくり出来ればの話ですけど」
「縁起でもないことを……」
恨めしそうにジャルダンが告げてくるが、アランはそれに対して「ごゆっくり」とだけ返してそそくさとフィアーナのもとへと向かった。
なにせヴィグ達の会話が聞こえてきたのだ。
それもただの会話ではない。
「ロッカちゃん、大きいお風呂だけどクジラやシャチは出しちゃ駄目だよ。皆の迷惑になっちゃうからね」
「分かった! メンダコさんとダンボオクトパスさんなら大丈夫だね!」
「ペンギンもそう大きくないから平気だろ。ロッカ、後でアデリー出してくれ。あいつには世話になったから背中を流してやらないとな」
という、どう考えても面倒事が起きる未来しか見えない会話なのだ。
男湯はきっと大変な事になるだろう。
だがアランが入るのは当然だが女湯だ。どれだけ男湯が大変な事になろうがジャルダンが苦労しようが、男湯と女湯の垣根を超えることは許されない。そう結論付け、フィアーナと女湯の入り口を潜った。
今回のお話の後編、それと短編を25日に更新予定です。
お付き合い頂けると幸いです。