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デルドアの手が扉のノブに向かう。
いよいよというその空気に誰もが緊迫感を漂わせ――何度が壊されているので緊迫感を修復させとも言う――騎士達が長剣の柄を握りしめた。軋むような小さな音に彼等の緊張と覚悟が伝い、アランもまた短剣を握る手に力を入れた。喉が乾きを訴えるようにひきつり、心音が体の中で響いて指先がピリピリと痺れ始める。生唾を飲む込む音が妙に大きく聞こえる。
そんな張り詰めた空気の中、デルドアがポツリと、
「人間共は俺達の取りこぼしだけ相手にしてろ」
と誰にでもなく告げた。
「俺とロッカが殆ど討ってやるから、やれそうなやつだけ相手してろ」
「危なくなったら皆のそばに行くと良いよ。パクってするのは亜種だけだよってさっき言っておいたし」
そんな二人の言葉に騎士達が驚いたように顔を見合わせるのは、ここにきてもまだ「まさか魔物が」という感覚があるからなのだろう。聖騎士が彼等の中で『そういうもの』であり続けたように、魔物もまた彼等の中では千年前の姿のままで根付いているのだ。だからこそまるで庇うような今の言葉が意外でしかなく、それでいて二人の戦力が人間の比ではないことを知っているからこそ頼もしくもある……。
そんな複雑そうな表情を浮かべる面々に対し、アランとヴィグは顔を見合わせて苦笑を浮かべあった。自分達の誤解が溶けるのと同時に彼等が理解され始めている、それが嬉しくもありなんだか自分の事のように気恥ずかしくもあるのだ。もっとも、
「カプっとはしないけど、もしかしたらペロってしちゃうかも。舐めるだけなら許してね!」
「魔銃の弾丸だろうが獣の舌だろうが気合で避けろ」
という適当具合にはまだ理解が追いついていないようで周囲から困惑の声があがる。
だがそんな人間達の戸惑いに魔物がフォローを入れるわけがなく、それどころかテンションが上がったのかロッカがブンブンと尻尾を振りだした。
「ねぇデルドア、どっちが活躍するか勝負しようよ!」
「お、いいな。夕飯かけるか」
「それじゃ、何匹倒したかちゃんと数えておいてね!」
「数? おい、雑魚が多いならここは質だろ」
「質ぅ!? 質だったらデルドアのが有利じゃん! 数だよ!」
「質!」
「数!」
この期に及んでいったい何の話をしているのか……。だがそうは思えどギリギリと音がしそうなほど睨み合う二人に人間達が口を挟めるわけがない。
ちなみに人間達と言ってもアランとヴィグはまた別の意味で口を挟めずにいた。数でも質でも魔物二人に勝てるわけがなく、下手に口を挟めばカモが鍋の船に乗ってネギのオールで漕いできたと的にされかねないからだ。だからこそ何も言うまいと口を押さえる。
そうしてデルドアとロッカが睨み合ってしばらく、まるで妥協案を見つけたと言いたげに声を揃えて、
「……味か」
と呟いた。どうやら勝敗の判定は味覚になったらしい。
そんな結論に対する周囲の冷め切った空気と言ったらないが、この状況にアランとヴィグはと言えば、顔を見あわせ、
「……味なら」
と可能性を感じつつあった。
数だの質だのと言った戦力を必要とする判定基準なら勝ち目はないが、味ならば別だ。運に大きく左右されるし、もしかしたら亜種は弱ければ弱いほど美味しいかもしれない。
ならば自分達でも勝てるかもしれない、そう考えたのだ。可能性を見出して頷きあうその表情は真剣そのものだが、今がそんな時ではないのは言うまでもない。だけどいったいどうしてこの四人を――ついにアランとヴィグも自由の国の住人認定をされてしまった――咎められるというのか、唯一それが出来そうなジャルダンは分かりやすいほどに顔を背けて無関係を徹している。
そんな今一つ締まらない空気の中、デルドアが「いくぞ」と声をかけてゆっくりと扉を開いた。
ギィ……と錆びが擦れる不快な音が響き、周囲に満ちていた甘い匂いがいよいよをもって肺まで満たしそうなほどに濃度を増す。匂いに耐え切れず嘔吐く者までおり、これ以上匂いが濃くなることはないだろうと舌先が甘さを錯覚しだしそうな中でアランが思う。つまり、ここが発生源だ。
そうして開かれた扉から中を覗けば、大広間という表現がちゃちなほどにそこは広く、そして無数の亜種が蠢いていた。
獣の姿をした亜種や、それと人を混ぜあわせたような獣人。それどころか手足もなくユラと揺れるように佇む軟体のものから、今この瞬間も形を変える形容し難いものまで……それらが扉の音を聞きつけ一斉にこちらを振り返った。
無数に向けられる赤い瞳の威圧感と言ったらない。寒気どころではなく真冬の海に突き落とされたかのような悪寒が駆け抜けて全身を凍らせ、頭をもたげかけていた恐怖が血流を押しやる早さで全身に巡る。誰もが同じような恐怖を感じているのかぴくりともしない。
だというのに、誰より赤い瞳に晒されているであろう先頭のデルドアは、
「よし、この中で我こそは美味だと思う奴は前に出ろ!」
と、これである。
「ずるーい! デルドアそれ反則!」
「なにが反則だ。そもそもルールなんて決めてないだろ」
ピイッ!と喚きながら訴えるロッカに、対してデルドアは撤回どころかむしろ正攻法だとでも言いたげな態度である。もっとも、仮に正攻法だったとしても亜種が自ら名乗りでるわけがないのだが。――出てこられても困る……少なくとも、デルドアとロッカ以外は困る――
だが名乗り出る代わりに亜種がこちらを警戒しだしたのが唸り声と鋭くなった赤い眼光から分かり、あちこちから微かな悲鳴があがった。
アランもまた息を呑む。聖武器がない今、恐怖心を押し込めるのは加護ではなく自分の意思しかないのだ。だからこそ短剣の柄を握りしめ、震え上がりそうな気持ちを叱咤した。
ろくに戦えないのは重々承知している。
今この場で自分は戦力になんかなれるわけがない、足手まといも良いところだ。
だけど、とアランが意識を切り替える。そうして恐怖で視線を逸らしたくなるのを堪えて眼前の亜種達に視線を向けた。
まるで動物のような外観のものから直視し難く嘔吐感を誘う外観のものまで種類は豊富で、だからこそアランはその一つ一つの特徴を見逃さぬようにと目を凝らして記憶の中の文献と照らしあわせた。
思いだせ、アラン・コートレス。
全ての文献を読み尽くした。当時の聖騎士を妬むように思い描いて何度も読み返した。寮に帰りたくない夜を山のような文献を捲ることで過ごした。
一度として呼ばれることの無かった騎士団の祭典の日を、縁起が悪いからと招かれなかったパーティーの夜を、楽しげに聞こえてくる声を花火の音をダンスの音楽を遠くに聞きながら、惜しむように恨むように1ページまた1ページと捲っていった。
魔物に関しての知識なら誰にも負けない。
「デルドアさん、ロッカちゃん、撃ったり噛んだりが聞かなかったら私に聞いてください。皆さん、亜種を倒す時は私の指示に従ってください」
「よし、分かった」
「アランちゃん、美味しいのが居たらコソッと教えてね」
デルドアが頷き、ロッカがパチンとウィンクをする。二人の様子に疑いの色はなく、討伐方法に関してはアランに一任すると言いたげだ。
その背中に感謝が募る。それと同時にアランの胸にプレッシャーが伸し掛かるが、冷静になれと自分に言いきかせて無理に押し込んだ。聖武器の加護は無い、だからこそ今日まで聖騎士をやりぬいてきた『意地』だけで恐怖を押し付ける
聖騎士を押し付けられ、不条理な日々にさらされ、そして聖武器を取り上げられた、たった一人の少女の意地。今も昔も忠誠心も正義感もましてや愛国心すらも無いに等しいアランの、唯一の糧。
「それでアラン、俺はどうすればいい?」
「ヴィグ団長は私を守ってください。魔物について思い出そうとすると多分隙ができちゃうから……」
「あぁ、任せろ。絶対に俺が守ってやる。というわけだから! 俺が守るから! おいデルドア聞いてるのか!」
「パパうるさい」
「反抗期……!」
と、そんな間の抜けた会話を交わす。
そうしていれば亜種側の痺れも切れるというもので、耳を痛めかねないほどにあふれる唸り声が最高潮に達した。それを聞いて誰もが開戦の時と知る。
もっとも、その一瞬即発の空気を破ったのは、
「それじゃあ行くよ! よぉーい、どん!」
というロッカのまったくもって場違いな愛らしい声だった。
魔銃の銃声と獣達の咆哮、それに負けじと亜種達が雄叫びをあげ、騎士やギルドの戦士達が剣を振るう音が響く。統率もなにもないその混濁した音の中、それでもアランは誰一人不利な戦いをしないようにと周囲に視線を巡らせては、亜種の特徴から効果的な戦い方を思い出して声を張り上げていた。
獣人だけをとっても戦い方は変わる。その元になる動物をベースに考えれば個々の違いは大きく、分かりやすいところでは視野の広さが変わるのだ。獅子等の凶暴な獣の亜種や獣人は攻撃の威力こそ高いが視野は狭い、反対に動物としての凶暴性が薄い獣人でも視野が広く人間の動きに敏感なものもいる。
既存の生き物をベースにしていなくても、それが魔物に倣っているのであれば文献に倒した記憶がある。
聖騎士団だけで倒した記録。当時を記した文献には苦戦の日々と散っていった聖騎士の名が連ねられていたのに、今多人数で囲んで戦えば容易に倒せてしまうものもいるのだ。それを思えば複雑な考えが浮かぶ、千年前もこうしていれば命を落とさずにすんだ聖騎士がいたのではないか……。
そんなことを考えていると、グイとアランの肩が掴まれた。……と、同時に尻もちを着く。
「ひゃっ!」
という悲鳴がなかなかに情けない。
「悪い、大丈夫か」
「ジャルダン様……」
打ち付けた部分を擦りながら立ち上がれば、ジャルダンが「そんなに強く掴んだか?」とでも言いたげな表情をしている。
だが次の瞬間には真剣味を帯びた表情に戻り、数人の騎士が取り囲んでいる亜種を指さした。曰く、剣が通らず打撃に切り替えても効果が見られないらしい。
言われ、指差す方向に視線を定めてその亜種の風貌を眺める。文献の中の記録と一つ一つ照らし合わせ、過去にどうやって聖騎士が退治したのかを記憶の底から引っ張りだす……。
「水です、確か水をかけるとその部分が弱くなるはず! 濡らして切るんです!」
「そうか、水だな!」
アランの返答を聞いたジャルダンが部下に指示をだす。それを受けて瞬時に戦略を切り替えるあたりさすが第一騎士団である。
あの様子ならば大丈夫だろう……そうアランが判断し次の亜種へと視線を向ければ、ポンと頭の上に何かが乗った。見上げればヴィグの腕、撫でられたのだとそこで始めて理解する。
「さすが歩く魔物図鑑だな」
「またその呼び名……」
ムゥとアランが拗ねるように唇を尖らせる。
だがそれに対するヴィグの反応が無いのは、咆哮と共に飛びかかってきた狼の亜種を彼が寸でのところで剣で薙ぎ払ったからだ。だが随分と危うげなその捌き方にアランが思わず肝を冷やす。
そうして体勢を立てなおした狼が再び吠えかからんと走り寄ってきた瞬間……。
ドゴッ
と鈍い音をたてて白靄のゴリラに押し潰された。
そう、例のゴリラである。
アランもヴィグも投げ飛ばされた、あのゴリラである。
その姿に思わず二人が唖然とするが、まるで己の功績を誇るかのようなゴリラのフンッという勢いの良い鼻息に我に返った。そうして「ゴリラ!お前!」「ゴリラさん!」と駆け寄る。――ここらへんでジャルダンが引き気味の表情を浮かべ始めるのだが、まだ序の口である――
「なんだ、仲間になったら頼もしいやつじゃないか!」
ポンポンとゴリラの足を叩きながらヴィグが労う。――この際だから最初からゴリラは仲間で、それでいてぶん投げていたことは気にするまい――
とにかく頼もしい仲間を得て上機嫌なヴィグに対し、ツンとその髪を引っ張る動物が一匹……。白靄のダチョウである。
「そうか、お前も来てくれたんだな!」
感極まったのかヴィグがダチョウに抱きつく。その光景を熱い友情と受け止め涙を流さんばかりのアランの腕をツンツンと何かが突っついた。
見れば熊。白靄の熊が鼻先で腕を突っついている。以前に洞窟の行軍に疲れきったアランを運ぶべく出てきてくれたあの熊である。
それが今もまたアランを助けるために来てくれたのだ。靄ながらに変わらぬ優しい眼差し、思わずアランが抱きつけば変わらぬ感触が伝う。
「熊さん、頑張りましょう……! ダイオウグソクムシさんも、頼りにしてます!」
熊の口の中から出てきたダイオウグソクムシを――捕食されかけていた可能性は否めない――手に乗せ、アランが新たに闘志を燃やす。
ヴィグはゴリラとダチョウの咆哮を聞きながら気合を入れ合い、アランは熊に抱きついて手にダイオウグソクムシを乗せて友情を訴えている。
そのなんとも言えない光景に誰もが感涙……せず、
「おいアラン、ヴィグ! 人間共が『聖騎士は人間に相手にされなさすぎて動物に……』って顔してるぞ!」
と、珍しく周囲の空気を読んだデルドアが慌てて声をかけた。
「なんですか失礼ですね。仲間達が駆けつけてくれたんですよ」
「虫だろ」
「何をおっしゃいますジャルダン様、彼は私達の命の恩グソクムシですよ」
「こっち向けるな、気持ち悪い」
手のひらにダイオウグソクムシを乗せてジャルダンに差し出せば、彼は露骨に顔をそむけた。なんという横暴な態度だろうか、とアランが頬を膨らませる。――……まぁ、確かに自分も初見時はそのフォルムに若干ひきはしたが今では心を通わせる仲間である――
だが確かにとアランが考えを改めて周囲を見回したのは、このやりとりを戦いの合間に眺めていた者達の瞳に若干どころか多大な哀れみが混ざっているからだ。とりわけクロードの視線と言ったらなく、こちらに向けてくる眼差しはなんとも言いがたいものがある。同情と哀れみと、それに過去を悔やむような色さえ見える。
それらに対してアランが失礼だと声をあげようとした瞬間、
ボゥッ!
と勢い良く白靄のハリネズミが飛んできた。その勢いと言ったらなく、アランの視界をまるで流れ星のように駆け抜けてその先にいる亜種の獣人にぶつかっていった。それも、獣人の股ぐらに。
あれは痛い……とアランが眉をしかめる。紅一点である女のアランでこれなのだから、他の者達が青ざめたのは言うまでもない。もっとも、元凶は言うまでもなく、
「やった! 100ポイント!」
と嬉しそうにはしゃぐロッカである。このパッションピンク、この局面においても徹底して相手を潰しにかかる。
「アランちゃん、今の見た!? 僕とハリネズミさんの合体技!」
「うん、だいぶエグいことになったね。獣人って泡吹くんだ」
「二頭目はアルマジロさんなの。アランちゃんも投げてみる?」
はい! と白靄のアルマジロをロッカが差し出してくるが、さすがにそれは首を横に振って遠慮した。アルマジロの瞳は可愛く、とうてい投げられそうにないからだ。
といってもアルマジロは投げられる気満々らしく、アランに断れたのを察すると次の投手を求めてゴリラへと向かっていった。獣人の股ぐらから戻ってきたハリネズミもゴリラへと向かうあたり、最強チーム結成の瞬間かもしれない。
と、そんなことを考えていると再びグイと肩を捕まれ、またもや尻餅をついた。犯人は……ジャルダン。
「なんですか! もう!」
「いや悪い、普通に掴んだつもりなんだが」
「ゴリラさんこっち! こっち向かって投げて!」
「誘導するな! それよりこっちに来い、スタルス家の聖武器が」
急かすようなジャルダンの言葉にアランが首を傾げる。ダチョウに抱きついていたヴィグもそれに気付き二人で顔を見合わせた。
スタルス家の聖武器がいったい何だというのか……だが次の瞬間アランがハッと息を呑んで慌ててジャルダンの後を追ったのは「もしかしたら」が起こり始めているのかもしれないと考えたからだ。
もしかしたら、昔々の間違いを正せるかもしれない。
人間を見限った聖武器は、それでもまだほんの一欠片の情を抱いてくれていたのかもしれない。