6
あるはずのないものに揺らぐ視界と思考ながらアランが疑問を抱けば、次の瞬間耳を痛めかねないほどの銃声が響いた。視界も揺らぎ獣臭さと甘ったるい匂いで嗅覚も狂い始めているのに、そのうえこの音である。聴覚すらも馬鹿になった中でそれでも何かしらあったのだと判断し、アランが朧気な視界で目をこらした。
変わらず顔面には獣の牙……だがそれは動くことなく、まるで剥製のようにピタリと止まっている。
……いや、何か動きが。
今まさに顔面に噛みつき食いちぎらんと開かれた口の中、コポと小さな音を立てて湧き出す真っ赤なそれは……。
血だ。
と、そうアランが考えるのとほぼ同時に獣の口から大量の血と何か――あまり考えたくない――が顔面に降り注いだ。ビチャビチャと、溢れだし零れだし獣の牙から伝って粘り気のある糸をひく……。
それらを受けながら呆然とすれば、じょじょに機能を回復させつつあるアランの耳に
「うわ、きたねぇ……」
という、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「貴方がもう少し角度を考えてくれていれば、こんなことにはならなかったんですけどね」
顔面に降りかかった血を拭いながら熊の下から這い出れば、案の定デルドアがそこにいた。
一丁の銃をホルダーに戻しているのは、それで熊を打ち抜いてくれたからだろう。片手で熊の首根っこを掴んで軽々と持ち上げているあたり、やはり彼は魔物だ。もっとも、彼が持ち上げていてくれなければ、今頃アランは圧死という別の結末を迎えていたのかもしれないが。
――聖武器の加護が魔物と対峙している時のみというのであれば、その魔物が死んだ後、その亡骸から与えられた負傷にも恩恵を受けられるのか……あいにくと文献には残されておらず、アランにも実践する勇気はない――
とにかく、顔を拭いながら熊の下から這い出て、改めて聖武器を握り直す。まだ少し視界が揺らぐし一撃をくらった頭部が痛むが、今はヴィグの援護にいかなくては……。
そう考え走り出そうとすれば、デルドアが今度はアランの首根っこを掴んだ。思わず「ぐぇ」と間抜けな声があがる。
「おい、どこに行く」
「どこって、団長を助けに行くんです」
「向こうにはロッカが行ってるから平気だ。それよりお前、怪我してるんだから大人しくしてろよ」
「ロッカちゃん!? そんな、彼じゃ団長の助けに」
「熊さんにだって負けないよ!」
助けにならない、と、そう言い掛けたアランの言葉に、これまた聞き覚えのある声が被さる。鈴の音のような可愛らしい声、だがその内容のなんと勇ましいことか……。
慌ててアランが声のした方へ振り返れば、ガサと茂みが一度揺れ、そこから顔を出したのはドヤ顔のロッカ。それも、どういうわけかヴィグをお姫様抱っこしている。
…そう、お姫様抱っこである。
おまけに
「ダメだ、あれ食べられないや!」
という、もはや勇ましいのかすら分からない台詞付き。
――ちなみにヴィグはと言えば、ロッカにお姫様抱っこされながら両手で顔を覆っていた。その姿から漂う話しかけないでオーラといったらない――
「……なんですか、あれ」
「ロッカとヴィグだろ」
「いや、その状況というか……体勢と言いますか……」
はたして不用意に触れて良いものだろうか、とアランが二人に視線をやる。満面の笑みで、それどころか一仕事終えたような清らかな笑顔で「食べれたもんじゃない!」と豪語するロッカはさておき、彼の細く少女のような腕の中に見事に収まるヴィグは明らかに異常。仮にこれが逆ならばさぞ絵になっただろうに、目の前の光景はちょっとした事故である。
そんな状態なのだ、迂闊に「お姫様抱っこ」などと口に出せるわけがない。今でこそピクリともしないヴィグがどうなるか。下手すればロッカの腕の中で自害でもしかねない、そう考えてアランが首を小さく振るった。
言葉を選ぼう、慎重に対応しなくては……。
と、そんなアランに対してデルドアはと言えば、ロッカとヴィグに交互に視線を向けた後
「お姫様抱っ……プリンセスホールドだな」
と、オブラートに包んでいると見せかけてオブラートごとぶち破るエグいストレートを放った。
「なんですかその言い回し! それならいっそお姫様抱っこって言った方がまだましですよ! そもそも、私が団長を想ってお姫様抱っこと言わないようにしているのに、どうしてお姫様抱っこより酷い言い回しを……団長ぉー!なにロッカちゃんの腕の中で遺書をしたためてるんですか!」
「アラン、すまない……俺は一足先に土に還る……土に還ってモグラの通り道になる……」
「もう、せっかくのクマ鍋にしようと思ったのにガッカリだよ! 大根下ろしでシロクマさん作ろうとしたのに!」
「クマ鍋に溶けるシロクマか……熊界の地獄絵図だな」
そんな会話を交わし続けてしばらく、ようやく援護にきた騎士の姿を見てヴィグが盛大な悲鳴をあげ――降りれば良いのに、と思いつつもアランもデルドアも口にしなかった――アランは子供達が全員無事であることを聞いてようやく緊張がとけたと、ふっと意識をとばしかけ……。
盛大に背中から倒れ込んだ。
ゴッ!と、本日何度目かの鈍い音が響く。
「おい、受け止めてやれよ」だの「そういうお前はさっさとロッカから降りろ」だの「クマ鍋…」だのと言った言葉が薄れゆく意識の中で聞こえてくるが、まぁどれも返事をする必要はないと判断し、完全に意識を手放した。
揺れる感覚と、覚えのある話し声。
それに身体を包み込むような柔らかな感覚と暖かさ。まるで誰かの腕の中にいるような感覚に、ふと意識を戻したアランがゆっくりと目を開けた。
霞む視界が徐々に晴れていく。ガタガタと音を立てて揺れる視界の中、まるでこちらの顔を覗き込むかのような、吐息がかかりそうなほどの近くにある……
熊の顔。
「びぁああ!」
と、騎士としても少女としてもどうかと思える悲鳴をあげ、アランが飛び上がる。
そうして改めて自分の状況を確認すれば、ガタガタと揺れながら移動している……これは台車。
柔らかく包み込んでくる感覚は熊――故――。
伝わってきた暖かさも、熊――故――。
つまり、二頭の熊――故――に挟まれていたのだ。そりゃ暖かく柔らかいはずだ、なぜなら数分前までは元気に動いて逞しく走り回って獰猛に殺しにかかってくれていたのだから。もっとも、今はその動きもとまり台車で運ばれているわけで……それと一緒に寝かされていたのだから、つまり。
「荷扱いか!」
喚きながら飛び降りれば、台車を引いていた三人が振り返る。
言わずもがな、ヴィグと魔物コンビである。三人並ぶその光景の壮観さといったらなく、事情を知らぬ――そして荷扱いされない――女性が居ればウットリと瞳にハートを浮かべていただろう。ヴィグもデルドアも見目がよく、片や騎士らしい爽やかさと、そして片や正体の知れない蠱惑的な魅力を持っているのだ。そんな二人と並ぶロッカはといえば、これまた見惚れてしまうほどに愛らしい。
もっとも、今のアランにはそんな三人の魅力など一切関係ない。
心ときめく?ウットリする?そんなまさか。
こちとら熊の絶命顔が脳裏に焼き付いて離れないのだ。瞬きするたびに熊の陰惨な表情がチラチラと見え、これは数日夢にでること間違いなし。
「誰か一人くらい、いたいけな少女を抱き抱えて運んであげようとは思わないんですか!?」
「だってなぁ、荷台で熊運べって言われたから」
「だからって熊の死骸と同じ扱いはないでしょ!」
「あと、今のおまえ汚いし」
「貴方が角度考えずにぶっ放してくれたおかげで血と何か――やっぱり考えたくない――を浴びたんですよ!」
「あのねアランちゃん! あの熊ね、やっぱり食べられなかったよ。舌がピリピリした!」
「今はそんな話をしてる場合じゃ……試したの!?」
キィキィと喚きながら足を早めて三人の元へとむかう。
誰一人として悪びれる様子一つないのだから嫌になってしまう。
それでもせめてもう一周文句を言ってやろうとアランが顔をあげ……クラリと視界を揺るがせた。まずい、と、そう考えるのと同時に足がふらつき、まるで地面に呼び寄せられるかのように体が大きく傾き……背に何かが当たった。
「デルドアさん……」
「荷台乗ってろよ」
眉をしかめるデルドアにアランが数度瞬きを繰り返す。
どうやら倒れる直前に腕で受け止めてくれたらしい。それも半ば抱きしめるような形で……。と、それを察するやアランが慌てて飛び退いた。
情けないと自分を叱咤しつつ、背に回されたデルドアの腕の感触や触れた胸板の逞しさを忘れるように一度頭をふるう。
「どうした?」
「い、いえ別に……ありがとうございます、助かりました」
熱をもちはじめる頬をペチペチと叩きつつ冷静を取り繕う。
心臓が早鐘のように鳴るのは先程の熊のショックが残っているからだ……そうに違いない。
「まだ治ってないんだろ、頭やったならあんまり歩くな」
「だ、大丈夫です。聖武器の加護があるし……それにあんな荷台になんて乗りたくないですよ」
「……大きな熊に抱きしめられているような暖かさと柔らかさの椅子が不満か?」
「まさに物は言い様。あれは徐々にに冷たく堅くなっていく熊の恨みこもった絶命顔に睨まれる怨念の椅子です。不満しかない」
軽口に負け時と軽口で返し、アランが歩き出す。多少ふらふらするが荷扱いの果てに熊の椅子よりはマシだ。
そんなアランの考えを察したのか、デルドアはもちろんヴィグとロッカまでもが顔を見合わせて小さく肩を竦めあった。そうして
「ロッカ、ヴィグ、荷台頼む」
「おう」
「あーい」
と彼等らしい会話を交わしあう。それに対していったい何だとアランが彼等に視線を向けた瞬間……ヒョイと視界が、それどころか身体ごと浮き上がった。
クルリと回った視界に、次いで見えたのは茶色の布。デルドアのロングコートだ……と、そうアランが考えるのと同時に、自分が彼に担がれているのだと察して慌てて身体を起こそうともがいた。
足が宙をかく。身体を半身ねじれば、普段は頭一つどころか二つ三つ高くにあるデルドアの顔が間近にあるのだからこれは間違いない。所謂、俵担ぎ。再び荷扱いである。
「お、おろしてください!」
「おい、暴れるな」
「私は大丈夫です! おろしてください、歩けます!」
「はいはいそうだな。大人しくしないとこのままぶん投げるぞ」
「ぶんなげ……!?」
物騒にも程があるデルドアの発言に、アランが思わず言葉を飲み込む。
怪我を負った少女相手にぶん投げるなど男の台詞とは思えないが「やりかねない」という気持ちがわき上がる。なにせ彼は魔物、人間の感覚が通じる相手ではないし、その力量は未知数。下手すればこの晴天の空に綺麗な弧を描かされるかもしれないのだ。
もっとも、魔物であるデルドアに対してアランは聖騎士、例え満身の力でぶん投げられたとしてもアランには聖武器の加護が発動するので負傷する恐れはない。といっても「よし、放て!」などと言えるわけもないのだが。
なので大人しく彼に担がれようと身を預ければ、それを察したのかポンポンと軽く背中を叩かれた。荷扱いの次は子供扱い、なんとも恥ずかしさと情けなさが募る。
と、そこまで考え、アランがふと視線を落とした。
デルドアのロングコートが揺れる。その下にはガンホルダーがあり、そこには銃が納められているはず……。少なくとも、あのとき熊の頭を撃ち抜いた銃は所持しているはず、もしかしたら他にも所持しているかもしれない。
ふいに興味が募り、アランがグイと手を伸ばした。片手でコートの端をつかみ、めくるように持ち上げ……
「…2、1……」
ポツリと呟かれたカウントダウンに悲鳴をあげ、慌てて手を引っ込めた。
危ない、危うくぶん投げられるところだった。というか、普通こういう時ってせめて3からカウントするものではなかろうか。
「大人しくしてろって言っただろ」
「だって、銃が……」
「銃?」
何のことだ、と言いたげなデルドアにアランがムグと言い淀んだ後、それでもと話し出した。
熊を撃ち殺したとき、あのとき響いた銃声は『アランの知る銃声』だった。確かに至近距離のため轟音とさえ言えるほどの大きさではあったが、それでも常識の範囲内だ。どういったルートで魔物である彼が手に入れたのかは定かではないが、人間の扱うもので間違いないだろう。
だからこそ、虫の巣を壊したときに聞いた『常識の範囲外な銃声』とは別物だと分かる。あれはもっと腹の底に響くような、獣の雄叫びに似た轟音だった。銃声などという簡単な言葉では済まされない音、銃そのものも相応の代物なのだろう。
持っているのなら見たい、と、そう思った。
それを伝えたところデルドアは小さく溜息をつき「必要な時になったら見せてやる」とだけ答えた。
その有無をいわさぬ声色に、アランがチラと横目で彼に視線を向ける。涼しげな表情、自分を担いでいるのに眉一つ動かさないあたり彼を逞しいと感じればいいのか、やはり魔物だと再認識すればいいのか、もしくは年頃の少女として「私、軽い!」と喜べばいいのか。
それとも、隠されたと落ち込めばいいのか……。
どれも微妙だ、と小さく溜息をつき、今度こそ大人しくしていようとデルドアに身体を預けた。